第八十五話 はるか遠く
「寒い……」
自分自身の無意識の呟きが、そして絶え間ない振動が、ぼくを目覚めさせた。
――振動?
ほんの少し目を開く。なんだか暗い。それに床が硬い。馬の足音と車輪の回転する音がして、ぼくはどうやら自分が馬車の荷台に乗せられているらしいことに気がついた。荷台は四方を板壁で囲まれている。明かりは板目の隙間から差し込む日差しだけだ。わけのわからないまま辺りをもっとよく見ようと動くと、自分が後ろ手に縛られていることにも気がついた。
そうだ。ぼくたちは昨晩、フォーブリアの町長に捕まったんだ!
ぼくは寝ている場合ではなかったことを思い出した。
野宿と襲撃続きで、なにしろ疲れていた。こんな状況にもかかわらず、ぼくは完全に眠りこけてしまっていたのだ。それに、恐らく夕食に盛られていたらしい痺れ薬。ぼくは両足をバタつかせて、それから縛られたままの手をグーとパーの形に動かしてみた。少し体がだるいけど、もう痺れはなかった。
「シーアは⁉︎」
ようやく鮮明になってきた脳裏に連れ去られた銀髪の少年の姿がよぎって、ぼくは思わず声を出した。だけどシーアはすぐ傍にいた。長いまつ毛を伏せて、この状況に似つかわしくないくらい穏やかな寝息を立てて、眠っていた。ぼくは胸をなで下ろした。
板目の隙間から外を覗くと、もう夜は明けていた。あたりは山がちな地形で、針葉樹の森が見えた。馬車は一体どれくらい走ったのだろう。北に移動したのか、標高が高くなったのか、町よりも気温が低いような気がした。
当然ながら、腰に差した剣は奪われていた。アイオリア神殿で拾った、テラスティアの剣。千年前につくられたであろうに、まるで魔法がかけられているみたいにサビひとつなかった。少し調べれば、そんじょそこらの剣じゃないとわかるはずだから、町長のコレクションに加えるつもりなのかもしれない。少し恨めしく思いながらも、剣なんかよりもフォーブリアの町で調達したコートが奪われていなかったことのほうが幸いだと、ぼくは思い直した。
「う……ん。ここは……?」
シーアが目を覚ました。
「わからないけど、馬車に乗せられてるみたい」
「馬車……? ああ、そうか……」
シーアにも徐々に昨晩の出来事が思い起こされてきたようだった。しばらく薄暗い馬車のなかを見渡して、やがて青紫の瞳に落胆の色が浮かんだ。
「ぼくたちこれからどうなっちゃうんだろう?」
答えはわかりきっていたが、聞かずにはいられなかった。
「売られるんだろ。農場か、鉱山か……運がよけりゃ金持ちのペットになれるかもな」
シーアは自嘲めいた笑いを込めて言った。
ぼくは戦慄した。どれも冗談じゃない!
人身売買なんて、すごく古い時代か、遠い国の話だと思ってた。それがまさか、自分が売られることになるなんて。母さんが知ったらどう思うだろう?
――母さん。
その言葉を思い浮かべただけで、ぼくの胸にじわりと切なさが込み上げてきた。
ほんの数か月前まで、普通に学校に行って、友達と遊んで、家でご飯を食べていたのに。今の自分の状況を思うと、みじめで、心細くて、涙が出そうだった。
「ごめん」
「え?」
「俺のせいだ。屋敷を探索しようなんて言い出さなきゃ、いや、せめてリュクルゴスたちに相談していればこんなことには……」
よく見たら、シーアは震えていた。寒いから……じゃない。我欲にまみれた汚い大人たちがどんなひどいことをするのか、ぼく以上によく知っているからだ。
ぼくは心を奮い立たせた。
「シーアのせいじゃないよ。それに、まだ助からないと決まったわけじゃないよ。隙を見て逃げ出そう!」
シーアは小さい子供みたいに弱々しくうなずいた。
嘆いている場合じゃない。シーアを守るため、そしてなによりぼく自身が元の世界に帰るため、絶対にここから逃げ出すと、ぼくは硬く心に誓った。
それからしばらく、ぼくたちはなにも喋らなかった。ぼくは上下に揺れる景色を見ながら、リュクルゴスたちのことを考えていた。町長はこんなことをして、リュクルゴスたちになんと言い訳をするつもりだろう? 彼らは国の任務でアディスに来ていることになっているんだから、その従者を勝手に売り払ったりできるはずがない。そう思う一方で、別の絶望的な考えも頭をよぎった。言い訳なんかいくらでもある。従者が嫌になって勝手に逃げたんだとか、泥棒に入られたから捕まえたけど逃げられたんだとか(実際、あのときのぼくたちは泥棒と思われても仕方なかった)。もちろんリュクルゴスたちがそんな説明を信じるとは思わないが、町長に知らぬ存ぜぬと言い張られてしまえば、彼らにはどうすることもできない。国を通して抗議するには、時間がかかりすぎるし、アイオリア人でもない子供相手にそこまでしてくれるとも思えない。あらためて、ぼくたちがいかに無力な存在か思い知らされた。
途方に暮れつつ、いつも頬に触れている柔らかい感触を無意識のうちに探して、ぼくは彼がいないことに気づいた。デュークは町長に捕まったとき、窓から逃げたんだ。あいつは普通の鳥じゃないことを、町長は知らない。きっとデュークはぼくたちを助けに、リュクルゴスたちを連れて来てくれる――そう信じることにした。
しばらくして、馬車が止まった。話したり、馬を繋いだりする音が聞こえる。ぼくたちは緊張の面持ちで、お互いを見合わせた。
「エンノイア」
シーアは小声で、いつになく神妙な様子で言った。
「扉が開いたら、俺は暴れてやつらの気を引く。その隙にお前だけ逃げるんだ」
「そんな。シーアはどうするの?」
「こうなったのは俺の責任だ。俺は自分でどうにかするよ」
「そんなのだめだよ!」
ぼくが言うより早いか、荷台の扉が乱暴に開けられて、朝の眩しい光が差し込んだ。ぼくたちは身構えた。扉の前には、たぶん町長の手下なのだろう、見知らぬ男たち二人が立っていた。彼らは体格もそれほどよくなく、武器は腰に短剣を差しているだけだったけど、少し離れたところには護衛らしき黒マントの兵士たちが幾人か見えて、ぼくは落胆した。これでは逃げ切れるかもわからないし、ましてや残されたシーアが無事で済まないのは明らかだった。
男たちは扉が開くなり、ぼくたちを引っ張り出した。ぼくたちは後ろ手に縛られているのでバランスを崩しそうになりながら、なんとか黒土の上に飛び降りた。突如シーアが激しく身を動かし始めたのがわかったから、ぼくはよろけたふりをして、思いっきり彼にぶつかった。二人して朝露に濡れた地面に倒れ込む。コートが泥んこになってしまったけど、ぼくは気にしなかった。男たちはぶつくさ文句を言いながらぼくたちを無理やりに立たせた。
(絶対に置いていかないからね!)
シーアはなにか言いたげにぼくを見たが、ぼくは強く首を振って言った。シーアだけ置いて逃げるなんて、絶対にできるもんか。
ツンとした冷気が身に染みる。見渡すと、山あいの小さな村のようだった。まだ朝早い時間帯なのか、人影は見当たらない。ぼくとシーアは前後を男たちに挟まれながら、せっつかれるようにして歩かされた。
やがて、石畳で簡単に舗装された小さな広場に出た。ぼくは絶句した。そこには別の荷馬車がいて、ボロボロの服をまとった老若男女十人ほどが、ぼくたちと同じようにロープで縛られて並ばされていたのだ。泣いている女の子もいれば、呆然としているおじいさんもいる。いずれにせよ、これから売られていく人たちだとすぐにわかった。
肌寒い風を受けながら並んで待つ。時々周囲の家々の窓からこちらの様子を伺う顔が現れては、すぐに引っ込んだ――時には物珍しそうに、時には怯えたように。この村の人たちもまた、人身売買を見て見ぬふりしているらしかった。
やがて道の向こうから金の装飾の施された、豪華な馬車がやってきた。扉が開くなり、毛足の長い大きな犬が飛び出す。それより遅れて、白髪の長い髪と髭をした中年の男がゆっくりと降りてきた。大柄な体をすっぽりと包む大きなマントには、屋敷の兵士たちと同じ火を吹くドラゴンの紋章が描かれている。ただし、中に着ている装束はもっと立派だ。歩くたび地面が揺れるのではと思うような迫力で、男はおもむろに列に歩み寄ってきた。端から一人、二人とあごを引き上げては眺めていく。そしてついにぼくのところまで来た。ごつごつとした大きな手が、ぼくのあごを痛いぐらいの力でつかむ。さっき逃げ出すと決意したばかりなのに、ぼくは恐怖で男の目を見ることもできなかった。だけど男はなんの興味も示さずに、すぐに手を離した。
次はシーアだ。ぼくは緊張しながら見守っていた。案の定、男はシーアを見るなりすぐに感心の声を上げた。ひとしきり顔を眺めた後、今度は銀糸のような横髪を乱暴につかみ上げる。尖った耳が露わになると、男はますます汚らしい笑みを浮かべた。シーアの顔はひきつっていた。必死に怒りをこらえているのがわかった。
男は全員を検分した後、見すぼらしいおじいさんだけ突き飛ばした。使い物にならないと判断したらしい。かわいそうに、おじいさんは泥水に突っ込んでしまった。助け起こそうにも、ぼくたちも縛られているので身動きが取れない。
ここで競売にでもかけられるのかと思っていたら、男は金貨の入っているらしい袋を町長の手下に投げ渡すと、おじいさんを除く全員を引き連れて馬車に戻っていった。ぼくたちは男の乗ってきた金色の馬車の後ろにつけられた、別の大きな荷馬車に乗せられた。そうしてまた山道を走り出す。
「一体どこまで連れて行くつもりなんだろう?」
「この道は……見覚えがある」
「え、そうなの……?」
荷台の窓から外を見るシーアの表情はこわばっていた。ぼくは嫌な予感がしていた。
「この先は……チュートニアだ」