第八十二話 邪気の森
ごうっと音がして、杖の先からは炎が放たれた。ぼくはとっさに目を閉じた。熱風が顔を掠めていく。けれど炎にしては熱くない。
グアガアアア。
「え?」
背後からの異様な音に振り返ると、人型をしたなにかが全身を炎に包まれて、うめき声を上げながらもがいていた。そして伸ばされた黒焦げの両手がぼくに届くか届かないかというところで止まり、ゆっくり、ゆっくりと地面にくずおれた。
「ひいい、なにこれ」
ぼくは思わずアーサーのローブにしがみついた。
目を凝らしているうちに、遠目に見える広場の地面、つまり杭の立っているあたりがボコボコと泡立っているのがわかった。冷え冷えとした空気のなかに、濡れた土と生ゴミの臭いが漂ってくる。月明かりに照らされて、地面から手の形をしたシルエットが生えるのが見えた。そして次々と人型をしたものが這い出てくる。考えたくもないけれど――。
「まさか、死体が生き返ってる!?」
「これを生きていると言えるのなら、ね」
アーサーは炎を灯したままの杖を松明のように暗闇にかざした。
照らし出された光景は、まさに地獄絵図だった。雨と土にまみれてドロドロになった村人、だったものたちが、ゆらゆらと立っている。体はほとんど腐敗していて、皮膚と洋服の区別もつかない。歯や骨が剥き出しになっているやつもいた。やつらはゆっくりとではあるけれど着実に、こちらに向かってきていた。
「どうしよう!」
「家のなかに戻りましょう」
ぼくたちは急いで正面に回り、家のなかに飛び込んだ。そしてすぐに扉を閉めた。
「何事だ!?」
リュクルゴスとシーアも起き出していた。
「よくわかりませんが、埋められた死体が起き上がっているみたいです」
「なんだって?」
リュクルゴスは半信半疑といった様子で扉を少し開けて外を見たが、すぐに青ざめた顔になって扉を閉めた。
「でも、さ。明るいうちには死体は動いていなかったわけだから、夜明けまでここに籠もって持ち堪えればなんとかなるんじゃないか?」
そう言ったときだった。ついさっき閉めた扉をバンバンと叩く音がして、ぼくたちは戦慄した。もうあいつらが扉の前まで来てしまったんだ! 慌ててかんぬきを掛けようとしたが、リュクルゴスが蹴った拍子に壊れてしまっていた。ぼくたちは居間の椅子とテーブルを動かして、なんとか扉を塞いだ。
そうしてぼくたちはしばらく身を縮めて寄り集まっていた。固唾を呑んで玄関扉を見つめていると、ふいに奥の部屋から物音がした気がした。
「誰か部屋を確認したか……?」
みんな首を振った。扉を蹴破ってこの家に入ったぼくたちは、全室をあらためることなく居間で眠りについた。ノックをしたときには確かに誰も出てこなかったけど、この目で誰もいないと確認したわけではなかったのだ。さっきまでそんなところで寝ていたかと思うと、ぼくはぞっとした。
ぼくたちは恐る恐る部屋のほうへ向かった。耳をすませると、聞こえてきたのは奇妙な音だった。なにか弾力のあるもの――たとえば肉なんか――を何度も何度も刺すような音だ。ぼくたちは目を見合わせた。そして、ひとつうなずいたのを合図に、リュクルゴスが勢いよく扉を開けた。
ぼくたちの目に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。ナイフを手にした男が、ベッドに横たわったネグリジェの女性を何度も何度も刺していたのだ。女性はぴくりとも動かず、声も上げない。もう死んでいるみたいだった。
「なにやってる!」
リュクルゴスは反射的に飛びかかり、男を羽交い締めにした。男はアディス語と思われる言葉でなにかわめいていた。
「なんて言ってるんだ?」
男を取り押さえたまま、リュクルゴスがシーアに聞いた。
「こうしておかないと墓穴に埋めても埋めても這い出てきちまうんだと」
シーアは青い顔で答えた。
「一体、なにがあったんだ……?」
リュクルゴスの問いに応えるように、シーアはアディス語で男と話し始めた。
「わからない。ある日突然墓穴から死人が這い出てきて、村人を殺し始めた。殺された人を埋葬したらそれもまた這い出てきて、そうしてとうとう村で残ってるのはこの家だけになった。せめて奥さんだけは蘇らなくてすむように、心臓を何度も突き刺している……と言ってる」
「そうだったのか……。とはいえ、よくこんなひどいことができるな……」
リュクルゴスは吐き気をこらえた様子で言った。シーツは真っ赤に染まって、世にもおぞましい光景と化していた。鉄さびのような臭いがする。ぼくはヒエラポリスの司祭が刺されたときのことを思い出して、頭がクラクラした。いや、今の光景はあのときよりもひどい。
「あっこら!」
リュクルゴスがひるんだ隙に、男は拘束から逃れた。そしてなにか言いながら、ベッドサイドに置いてあったカンテラを手にした。シーアは呆然としながら男の言うことをそのまま繰り返した。
「もっと早くこうすればよかった。化け物になるぐらいなら……」
その言葉が意味することはひとつだ。
「やめろ!」
男はカンテラの油をかぶって自らに火をつけた。火は舐めるように男の全身を覆い尽くし、瞬く間に床や家具にまで燃え広がった。アーサーが慌てて魔法で水を降らせたが、全てが木造の家、火の広がりは早く、全く追いつかない。男の姿も火と煙で見えなくなってしまった。ぼくたちは急いで居間に戻ったが、こちらにまで火がくるのも時間の問題だ。
「ダメだ、外に出よう!」
「どうやって!?」
玄関扉はガタガタと揺れ続けていた。今開けたら一気にあいつらが侵入してくるのは間違いない。リュクルゴスは前と後ろを交互に見合わせ、言った。
「焼け死ぬよりはいいだろ!」
立て掛けたテーブルと椅子をどかし玄関扉を開けると、思った通り、ドロドロの屍たちがなだれ込んできた。骨の出たグチャグチャの手で、足やら、顔やらを次々とつかんでくる。リュクルゴスは剣で、アーサーは杖で、屍たちを払い退ける。やつらは存外簡単に倒れていったので、みんなは隙をついて外に出た。ぼくも剣で押し退けながら後に続こうとしたとき――。
膝にずきんと痛みが走った。屍の一人がぼくの怪我をした左膝をつかんだのだ。ぼくは強烈な痛みでしゃがみ込んでしまった。そこにここぞとばかりにどんどんのしかかってくる。ぼくは腐臭に吐きそうになったが、吐くことも許さないほど次から次へとしがみついてくる。立ち上がらなきゃと思うのに痛みで足が動かない。デュークがやつらの顔をつついて懸命に攻撃を加えるが、もう死んでいるからか全く手応えがない様子だ。ぼくはもみくちゃになってわけがわからなくなってきた。そして背後にメラメラという音と、熱も迫ってくるのがわかった。
やばい、このままじゃ――!
「わたしが魔法でおとりを出すので、その間に逃げてください!」
「え?」
目を開けると、隙間からアーサーが床に杖をつくのが見えた。その瞬間、目の前に黒い人影のようなものがふわりと現れた。そしてそれは、屍たちをすり抜けて炎に向かって走り去っていった。屍たちはそれに気を取られたようで、よたよたと人影を追いかけて炎に飛び込んでいった。
ぼくはしばらくあっけにとられていたが、すぐにアーサーが手を引っ張り上げてくれて、慌てて家を出た。
「すごいね。あんな魔法も使えたなんて知らなかった!」
アーサーは得意そうに笑ったが、すぐに顔をしかめた。
「どうしたの?」
「あの魔法はまだ未完成で、完全に分離できていないんですよ。影がダメージを受けると、自分のほうにも影響が出てしまうんです。だからあまり長い時間出しておけません。さっきこっそり練習していたんですが、やっぱりまだまだですね……」
「じゃあ急がなきゃ」
それからぼくたちは、どうにか村をあとにした。
「まったく、なんて村だ」
「一体なにが起こっているんでしょう……」
村から幾分離れてから、ぼくたちはようやく人心地ついた。まだ夜明けには遠く、空は暗い。おまけに寒くなってきた。まだ未完成だという魔法でエネルギーを消耗したんだろう、アーサーは疲れた様子だ。アーサーだけでなくみんながそうだった。しかしシーアだけは油断なくアーサーのほうを見詰めていた。
「どうかしましたか?」
「別に……。やっぱり、村なんか入るべきじゃなかったなと思って」
「ま、またそんなこと言ってっ。こんなことになるとは予想できなかったんだから仕方ないじゃん。一応雨宿りはできたんだし、よかったんじゃない?」
ぼくは慌てて間に入ったが、アーサーは「そうですね」とだけ言って、さして意に介していないようだった。シーアもそれ以上つっかかることはなかった。
それからぼくたちは再び暗い森のなかを歩み始めた。しかし村を出てからというもの、ぼくたちは進むべき方向がわからなくなっていた。あの村が滅びて以来、人の往来がなくなったからだろう。今まで探り探り歩いてきたリールからの道が、いよいよ完全にわからなくなってしまったのだ。地図上では真っすぐ行けばいいとわかっていても、目印もない森のなかで「真っすぐ」歩くというのは、想像以上に難しいことだった。
そうしてしばらくさまよっていたぼくたちは、ある異変に気がついた。
「感じるか?」
「うん……」
そこはかとなく視線を感じる。みんな、動物みたいに目を光らせて、耳をそば立てていた。デュークも落ち着きがない様子だ。そのとき強い風が吹いて、あたりじゅうの木がざわめいた。
――見て。外の人間だ。
――珍しいね。
――あの村に入ってよく無事だったね。
誰も喋ってないのに、不思議と人の言葉のように聞こえる。ぼくたちは慌ててあたりを見回した。
「誰だ⁉︎ 隠れてないで出てこい!」
リュクルゴスがそう叫ぶと、木々が動揺するかのように音を立てた。どうする、どうする、とささやき合っているみたいだ。
次に瞬いたとき、いつの間にか目の前に数人の人間が寄り集まるように立っていた。この鬱蒼とした森には不釣り合いにピンク色の軽やかなドレスを着て、髪にはアディス固有の花、チェシュでつくられた花飾りをつけている。男もいるようだが、みんな体の線が細いのでほとんど見分けがつかない。一人、ぼくと同じ年頃くらいの女の子がいて、茶色い毛をしたアディスのトリプスに餌をあげていた。
「何者だ?」
リュクルゴスは警戒心をあらわにして言った。
「もしかして、花の妖精……?」
彼女たちが答えるより先に、ぼくは口にしていた。みんながはっとしてこちらを見る。彼女たちの格好には見覚えがあった。それは花祭りのときの女の子たち――花の妖精を模しているという――にそっくりだったのだ。
「はい。人間たちはわたしたちのことをそう呼んでいるようです」
真ん中にいる女性が答えた。花の妖精の言葉はアディス語ではなく、不思議とぼくたちにも理解できた。
「なるほど……お前たちが本物の花の妖精というわけか……。あの村のことを知っているようだが、騒動もお前たちの仕業か?」
女性は悲しそうに首を振った。
「いいえ、わたしたちではありません。この森のせいです」
「森の……?」
「魔界の影響で、森の邪気が強まっています。森の邪気は生者から正気を奪い、死者を異形の者として蘇らせます。あなたたちも早く森を出たほうがいいですよ」
生者からは正気を奪う……森に入ってからなんだかぎくしゃくしていたのは、そのせいなのかもしれない。ぼくは、ふとそう思った。
そのとき、トリプスに餌をあげていた女の子が顔を上げた。
「君は……!」
女の子は、リールでぼくに花を投げかけてきた子だった。ぼくと目が合うと、あっ、と驚いた顔をして、笑顔になった。彼女は、本物の妖精の一人だったんだ! そう思ったとき、ぼくは急にあることについて理解した。宿のお姉さんが言っていた人外の者って、ゴブリンだけじゃなくて、きっと花の妖精のことを指してたんだ。お姉さんは毎年祭りを見ていて、女の子たちのなかに本物の妖精が紛れ込んでいることに気づいていたんだな。
女の子は、隣にいた女性になにやら耳打ちした。
「まあ、そう、そうなの」
「どうしたの?」
「この子ったら、すっかりあなたのことを気に入ってしまったみたいなんです。一緒に踊ってくれたお礼がしたいそうで」
「そんな、お、お礼だなんて」
というか、踊ったつもりじゃなくて一方的に振り回されただけなんだけど。
「なんだか知らないが、もしなにかをしてくれると言うんなら、森から早く出られる道を教えてほしい」
リュクルゴスが言った。確かにその通りだ。こんな陰気な森をずっとさまよっていたら、彼女たちの言うとおり本当に正気を失ってしまいそうだ。
しかし花の妖精の女性は首をひねった。
「困ったことに、わたしたちは人間界に大きく干渉してはいけないことになっているんです。あの村も、不憫とは思いながら助けられなくて……」
そのとき、男性と思しき妖精の一人が口を開いた。
「あれを使ってもらったらいい。あれはぼくらとは関係ないし」
女性はぱっと顔を輝かせた。
「それはいいアイデアね。もうそろそろ出てくる時間だわ。みなさん、もうしばらくしたらここから出てくるものにつかまってくださいね」
「はあ?」
花の妖精たちは意味不明なアドバイスを残して、次に瞬いたときにはもういなくなっていた。後には何事もなかったかのように暗い森が広がっていた。
「一体なんだったんだろうな」
ぼくたちはため息をついた。
「まあ歩くしかないってことだな。頑張ろうぜ」
そうして再び歩み出そうとしたとき。
「うわ、なんだ!?」
突然地面が揺れ出した。まるで地面から木の根をひっぺがしていくみたいにボコボコと盛り上がり、ひび割れていく。ひび割れたところから細い木の幹が何本も生えてきた。それらが絡まってなにかの形をつくっていく。そうして完成したのは二匹の大きなドラゴンの姿だった。ぼくたちがぼうっと見とれている間に、そいつらは地面から離れて飛び立ち始めた。ぼくは花の妖精の言葉を思い出し、はっとした。
「つかまらなきゃ!」
ぼくたちは駆け出して、からまった木の幹でできたドラゴンの胴体をつかんだ。ぼくとシーア、リュクルゴスとアーサーがそれぞれ同じドラゴンだ。ドラゴンたちは木の葉を突き破り夜空に飛び出すと、風を切ってびゅんびゅん駆けのぼり、あっという間に森を見下ろすほどの高さに達した。
「すごい、これで森を抜けられるよ!」
遠い空の向こうがようやく明るくなってきて、かすかに町のようなものが見えた。ドラゴンはまるで飛行機が安定飛行に入ったときみたいに、速度を落として水平にゆったりと飛び始めた。その隙に、ぼくたちは胴体をよじ登って上に乗った。ドラゴンはぼくたちが乗っていても全く意に介していないようだ。そもそも生物なのかどうかさえわからないけど。
「エンノイア、あいつのことをどう思う?」
しばらくして、シーアが言った。シーアの指差す先には澄ました顔で別のドラゴンに乗っているアーサーがいた。ぼくは少し驚きながら聞いた。
「あいつって……アーサーのこと?」
シーアはうなずいた。ぼくは考えながら答えた。
「確かにつかみどころがないところもあるけど、アーサーは何度もぼくたちを助けてくれた。それに、いいところもいっぱい見てきた。彼と一緒にここまで来られて、よかったと思ってるよ」
「そうか……。そうだよな……」
さっきから、シーアは妙にアーサーにつっかかっている気がする。一体どうしたというんだろう。
「シーア、なにを考えているの?」
「いや、いいんだ」
それきり、シーアは黙ってしまった。
「きっと、森の邪気に当てられただけだよ」
ぼくはそう言ったが、風の音にかき消されて聞こえなかったのか、返事はなかった。