第七十六話 夢のあと
振り返ると、エレナの白い頬の上でまつ毛が揺れていた。まばたきをしていたのだ!
アーサーは、目を見張ったまま固まっていた。
「まさか、そんなことが……。これは、偶然ですよ……」
「そんなのどっちでもいいよ。目を覚ましたんだもの!」
ぼくは叫びながら、すぐさまエレナに駆け寄った。
「わたし……?」
エレナはしばらくぼんやりしていたが、すぐに首にかかったクォントスに気がついた。
「クラーケンに引っかかっていたんだけど、取り戻しておいたよ。デュークと、それに、アーサーのおかげで」
ぼくはベッドに張りつきながら、わざとなんでもないような調子で言った。エレナは言葉もないというように、澄んだ目でぼくをじっと見つめていた。そしてしばらくの沈黙ののち。
「エンノイアくん!」
「うわあっ」
堰を切ったように、ぼくを抱きしめた。
「本当にありがとう。わたし、あなたのお嫁さんになるね」
「や、それはちょっと気が早いかもっ」
聞き捨てならないせりふと、触れ合った部分にいろいろと当たっているせいで、ぼくは気が気でなかった。
急いで甲板にいるみんなに報告しに行こうとすると、ちょうどリュクルゴスとシーアが階段から降りてきたところだった。
「クラーケンをまいたようだぞ……あっ!」
二人は目覚めたエレナを見て驚きの声を上げた。
ぼくたちは船室でひとしきりエレナの回復を喜び合った。アーサーはまだ釈然としないという顔をしていたが、そのあとも懸命に手当てを続けてくれた。そしてエレナは完全ではないものの、いくらか元気になっていった。本当に、信じられない気持ちでいっぱいだった。
「どうしたの?」
それから再び甲板に出たぼくたち。うなりながら船を旋回させてばかりのギブズさんに、ぼくは尋ねた。
「リール港の方向がわからねぇんだよ~」
そうだ。手がかりがあるかもしれないと人魚の島に立ち寄ったものの、結局ぼくたちはまだ迷ったままなんだ。
さっきの騒動が嘘のように、海は静まり返っていた。島影はすっかり見当たらなくなり、今は三六〇度真っ青な世界になっていた。アディスに向かうどころか、来た方向さえわからなくなりそうだ。
「わたしに考えがあるわ」
エレナが言った。彼女はまだ体調が万全ではないにもかかわらず、外が見たいと言って、甲板に出ていたのだ。彼女は船べりに寄ると、口笛を吹いた。すぐに二頭のイルカが海面から顔を出す。
「イルカさん。陸の場所、わかる?」
神殿で戦ったデルキュオンたちと違って可愛らしい姿をした二頭のイルカたちは、キュウキュウと鳴きながら交互にうなずいた。
「イルカさんたちが案内してくれるって!」
まるで水族館のショーみたいだ。ぼくたちは唖然としながら、先を泳ぐイルカについていった。
「本当に大した能力だな。このままずっと一緒にいてくれたら助かるのに……な」
リュクルゴスは感心しながら言ったが、その言葉尻は濁っていた。というのも、彼もぼくと同じことを考えたんだろう――もしこのままエレナがぼくたちとずっと一緒にいるのなら、人間を食べずにどうやって生きていくのか、ということだ。今は平気そうに見えるけど、いずれまたその問題に直面するときが来るはずだ。
でも、先ほどまでとは違い、ぼくたちには希望があった。神の力が宿った祈りの道具、クォントスだ。エレナは生まれてから一度も人間を食べたことがなかったけれど、クォントスの力で生き永らえてきた。そして一度死にかけたけれど、クォントスの力で蘇った――少なくとも、ぼくはそう考えた。だからこれからも、そうして生きていけるかもしれないのだ。
「おお、この辺りならわかるぞぉ。アディスまでもう少しだ!」
それから船を進めること数十分、両サイドに荒々しい岩肌が見えてきた。どうやらギブズさんの知っている場所に出たらしい。
「ありがとう、イルカさん」
エレナが言うと、イルカたちは優雅に泳ぎ去っていった。その姿が見えなくなるか否かといったちょうどそのとき――船体に体当たりするものがあった。それほど強い振動ではなかったけど、ぼくたちはよろめいた。
「またクラーケン!?」
下を覗き込んだ水夫は叫んだ。
「いや、島に着く前に会った巨大魚だ!」
巨大魚の姿を認めるより先に、頭の中に聞き覚えのある声が響いた。
――その娘を連れていくことはまかりならぬ。
「ポセイドン!」
「お父さま!」
ぼくたちはその声の主の名を違った形で呼んだ。元気になったはずのエレナの顔がみるみる青ざめていく。ポセイドンは再び船体に体当たりした。
ぼくは宙に向かって叫んだ。
「どうして邪魔をするの!?」
「お前、一体誰と話してるんだ?」
ポセイドンとは別の声にはっとして振り返ると、みんなが困惑した顔でぼくを見つめていた。ぼくはとっさに口をつぐんだ。そうだ、この声はぼくにしか聞こえないんだ。もし、神さまと話していることがわかったら、みんなにぼくが新しい王だということがわかってしまう。
躊躇するぼくの様子には構わず、ポセイドンは続けた。
――悲劇しか待っていないからだ。娘を連れて行って、どうするつもりだ? たとえ今元気になったとしても、人間を食べなければいけない人魚のさだめは変わらない。食べなければ命が尽きるだけだ。
「でも命を与えてくれたじゃない。神の力が宿ったクォントスの力で」
みんなの驚きの眼差しを痛いほど感じたが、もう黙っていることはできなかった。しかしポセイドンの答えは辛辣だった。
――そこの神官が手当てしたからだ。クォントスとやらは関係ない。
「そんなことない!」
――人間たちはすぐにそうやって奇跡を信じたがるが、神は容易に命を与えたりはしない。
ぼくはエレナの様子を見た。顔は青ざめて、船べりをつかむ手が小刻みに震えている。ぼくはその手に自分の手を重ねた。驚くほど冷たい手だった。
「エレナ、ポセイドンの言うことなんて気にすることないからね? ぼくたちは一緒にアディスに行くんだ」
「うん……」
すると今まで姿を消していたクラーケンが、まるで魔法のようにどこからともなく現れた。ぼくが切り落としたはずの足も復活していて、八本の足がうねうねと海上を這いまわっている。
「くそ、しつっこいやつだな!」
「一体どこから現れたんだ?」
みんなは突然のクラーケンの出現に驚いていたが、ぼくとエレナにはわかっていた。これはポセイドンの妨害だ。
みんなは戦いの用意を始めていた。すかさずシーアが矢を放つが、全く効いている様子がない。
「来るぞ!」
リュクルゴスの声に、みんなは身を伏せる。船べりからぬるりとした巨大な足が姿を現し、大量の海水をばら撒きながら、床の一部と舵をもぎとっていった。
「う、嘘だろ~。舵もなしでどうやってアディスに行けって言うんだよ」
ギブズさんは這いつくばったまま頭を抱えていたが、船の前方に陸地と思しき黒い影が見えてくるのを確認すると、すかさず跳び起きた。
「しめた。このまま港にたどり着ければ……」
「いや、それではリールの街にクラーケンを招き入れることになってしまう。たどり着く前になんとかしよう」
喜ぶギブズさんとは裏腹に、リュクルゴスは言った。エゲアポリス――アイオリア側の港町――のようにはしたくないと思ったのだろう。それに、リールは外国だ。ぼくたちのせいで街が破壊されたとなれば、どんな問題になるかわからない。
黒い影に見えた陸地は、次第に色彩を帯びてきた。陽の光に照らされ、アイオリアとは少し違った赤い屋根が輝いていた。
「あれが人間の街なのね……なんて綺麗……」
エレナはクラーケンの攻撃などもろともしないように、夢心地な様子で迫り来るリールの街に見とれていた。それから、深く、深く息を吐いて、目を閉じた。
「お父さまの言うとおりよ。わたしはもう永くない。わかるの」
「エレナ!」
そして、みんなの顔を見渡して言った。
「クラーケンの狙いはわたしなの。わたしが海に戻れば、クラーケンは消えるはずよ」
ぼくはエレナの腕をつかんだ。
「だめだよ! せっかくここまで来たんだ。一緒に行こう」
「エンノイアくん、あなたはこの国に必要な人よ。こんなところで足止めされてちゃいけない。前へ進まなきゃ……ルイーズさんのためにも」
「いやだ! みんなもなんとか言ってよ!」
けれども、誰もエレナを止めようとはしなかった。
「みんな、わかってるでしょ? 今かりそめの命を与えられたとしても、人間を食べなければ生きられないわたしに、あなたたちと行く未来はない……」
「きっとなにか方法があるはずだよ。君が来てくれないなら、ぼくはなんのために人魚たちと戦ったの? なんのためにクォントスを取り返したの? 全て無駄だったって言うの?」
エレナはなだめるように、ぼくの頭を撫でた。なんだかエレナの方がずっと大人になったみたいだった。
「聞いて。あなたのしてくれたことは、無駄ではなかったわ。あなたのおかげで、わたしは新しい素敵な友達に出会えた。わずかの間でも島を出られた。人間の街を見られた。人間が望むような奇跡は、もしかしたら存在しないのかもしれない……。でも、夢を見ることは悪いことではないのよ。その夢が、誰かに希望を与えたかもしれないから……。わたしに与えてくれようとした『奇跡』を、これから出会う、必要としている誰かに与えてあげてね」
エレナは、みんなのほうに向き直った。まず、シーアを見て、
「わたしがエンノイアくんを食べそうになっちゃったとき、止めてくれてありがとう」
そう言った。シーアは、はっとした様子でうなずいた。それからリュクルゴスに、
「船に乗せてくれてありがとう」
と言い、そして、
「一生懸命手当てしてくれてありがとう」
とアーサーに言った。みんな、言葉もなくうなずいていた。
「こっちこそ、君には何度も助けられた。本当に、ありがとう」
リュクルゴスが、それだけを言った。
そして、エレナは最後にぼくを見た。エレナの目には涙がこぼれていた。これまでにも彼女の涙は何度も目にしていたのに、このときほど胸を揺さぶられることはなかった。
「さようなら、エンノイア」
ふっと、唇に柔らかいものが触れた気がした。
エレナは船の手すりを乗り越えて宙に躍り出た。空飛ぶ人魚の美しいシルエットは、突然のまばゆい閃光にかき消された。ぼくはとっさに目を閉じた。
次に目を開けたときには、そこにはもう青い海があるだけで、クラーケンも、巨大魚も、エレナの姿もなかった。水しぶきさえない。
まるで、長い夢から醒めたかのようだった。