第七十五話 「奇跡」
そうして、ぼくたちは人魚の島をあとにした。ヤシの木や色とりどりの花が、みるみる遠ざかっていく。初めに来たときには楽園のように見えた島も、今ではなんだか寂しげに見えた。もっとも、周囲の小島にまぎれてしまうと、あっという間にどれが「人魚の島」なのかわからなくなったけれど。
「で、どっちに向かえばいいんですかい?」
舵を取るギブズさんの質問に、リュクルゴスは海を見つめながら大真面目に答えた。
「わからん。適当に出してくれ」
「エレナ、しっかりして」
なかなか目を覚まさないエレナを船室で介抱していると、アーサーが入ってきた。
「見せてください」
「なんとかできるの?」
「わかりませんが、手は尽くしてみます」
そう言って矢傷に包帯代わりの布を巻いたり、いろんな薬草を飲ませたり、アーサーは懸命に手当てしてくれた。その目は真剣そのもの。意外にも、彼はエレナを助けることを強く望んでいるようだった。けれども、彼女に回復の兆しが見えることはなかった。
ふと、アーサーは首を傾げた。
「そういえば、クォントスの首飾りはどうしたんですか?」
「クラーケンと戦って流されたとき、なくしてしまったみたいなんだ」
「そうですか……」
「首飾りが、どうかしたの?」
「今まで人間を食べずに生きてこられたのは、クォントスのおかげだったのかもしれません。代々の神官たちによって込められた祈りの力が、彼女をここまで生き永らえさせたのかも」
「生き永らえさせた……。クォントスに、そんな力が?」
期待を込めて聞いたぼくに対して、アーサーはまるでなにかに驚いたかのように目をしばたたかせた。
「……我ながら、ばかなことを言いました。尽きかけた命を伸ばすなんて、神の力の一部を借りている神官にも、神聖なアイテムであるクォントスにも、そんなことはできませんよ……。できるとしたら、それは本当の『奇跡』、神だけです」
彼がキッソスで父親が亡くなった青年にも同じようなことを言っていたのを思い出した。彼にとって、それは大きな意味を持つことなのかもしれないと思った。
「神、か」
ぼくはデューク――アイオロスのほうを見たが、今の彼はどう見てもただの鳥で、とても奇跡とやらを起こせるようには見えなかった。
「じゃあ、あきらめるしかないな」
後ろでぼくたちの様子を見守っていたシーアが投げやりに言った。
「ど、どうしてそんなこと言うの?」
怒りよりも困惑のほうが大きかった。シーアは返事もせず、足早にもうひとつの船室に行ってしまった。
なんだか様子がおかしい。ふとそう感じたぼくは、そのあとを追いかけた。
部屋に入ると、彼はベッドに潜り込んでいた。
「シーア、どうしたの?」
「べつに」
壁のほうを向いたままで、シーアの態度はいつもどおりそっけない。しかし、その声は震えている気がした。しばらくの沈黙ののち、シーアはぽつりとつぶやいた。
「まさか、こんなことになるなんて。俺はただ、お前を助けようとして……」
ぼくははっとした。元から弱っていたとはいえ、エレナの衰弱を決定づけたのは矢傷だ。そして、その矢を放ったのはシーアだった。彼はたぶん、その責任を感じてしまっているんだ。
「あ、あのさ」
どんなふうに言葉にしていいかわからなくて、つばを飲み込む。
「シーアが止めてくれなかったら、ぼくはきっと石になってた。そうなったら、エレナは元気になってたよね。でも」
シーアは黙ってぼくの様子をうかがっている。
「でも……心はきっと救われなかった。彼女のことだから、人間を食べたことを、一生悲しみ続けたかもしれない。その、だから、つまり……シーアのおかげで、ぼくもエレナも救われたんだよ」
ぼくはシーアの手をとった。
「ありがとう」
彼はしばらくぼくの手を見つめて、それからぱっと手を引っ込めてまた反対側を向いた。
「……うん」
「必ず助けよう。エレナを死なせるつもりはないし、人間も食べさせたくない。無茶なこと言ってるかもしれない。でも……」
ぼくの言葉は突然の揺れに遮られた。シーアもベッドから飛び起き、二人で船室を出る。
甲板に出ると、ぼくたちの船の前に不自然な波が立ちはだかっていた。
「くそ、クラーケンだ!」
抜き身の剣を手にしたリュクルゴスが走りながら叫ぶ。
甲板はすでに混乱状態だった。アーサーも船室から出ていて、船の揺れをもろともせず、うねうねと触手の這う海面を見据えていた。
「下から来ますよ、ギブズさん。よけてください!」
「ちくしょう、あんなのが出るなんて聞いてませんぜ!」
ギブズさんは文句を言いながらも舵を思いきり切った。
その直後、目の前の海面が大きく盛り上がった。まさに間一髪、ちょうどさっきまで船がいたところだ。
七色に輝く水を滑り落としながら、ついにクラーケンはその全容を現した。頭はぶよぶよとしていて形がよくわからないが、たくさんの長い足が海の上に出そろうと、アーサーの言っていたとおり、その正体は大きなタコであることがわかった。八本の足のうち一本はちぎれていた。ぼくがさっき切り落としたものだ。
ぼくはやつのおでこ――と言っていいのかわからないが、頭の前のほうに、きらりと光るものを見つけた。
「あ、あれは……」
やつの図体に比べてずっと小さいが、その形状からすぐにピンときた。エレナがアキレウスからもらったというクォントスの首飾りだ。なくしたと思ったら、クラーケンに引っかかっていたんだ!
「とり戻そうぜ」
ぼくはシーアの言葉に耳を疑った。
「あれのおかげで、エレナは生きてこられたんだろ。あれをとり戻せば、回復するかも」
「シーア……」
確かに彼の言うとおりだ。しかしそれをするには、船を再びクラーケンに近づけなければならない。危険が伴うのはまちがいなかった。
リュクルゴスに目で問いかけると、彼はやんわりと笑った。
「今さら気をつかうなよ。お前たちの好きなようにやってくれ」
「冗談じゃないぜ。とっとと逃げましょうや!」
悲鳴のような声を上げたのはギブズさんだ。
「このぶんだと逃げても追いつかれるぞ。どのみちいずれ戦わなければ」
「くそう、後でたんまり金をふんだくってやるからなぁ~」
彼はまだなにか言っていたが、その声はすぐに波の音にかき消された。海は凪いでいるのに、クラーケンが動くたび船は木の葉のように揺れて、何度も何度も波をかぶる。こちらから近づくまでもなく、やつは迫ってきていた。迷っている時間はないようだ。
「デューク、手伝ってくれる?」
「ピイ!」
隙を見て船べりからデュークを放とうとしたとき、アーサーがぼくの肩をつかんだ。
「わたしは反対です。たかが首飾りのために、みんなを危険にさらすつもりですか!?」
まさかアーサーに反対されるとは思わなくて、ぼくは驚いた。彼はエレナを連れて行くことには反対しなかったし、むしろ彼のほうがエレナを助けたいと思っているような気がしたからだ。だから、彼には首飾りをとり戻してもいいかどうか尋ねもしなかったのだ。
船が傾いてぼくたちは転んだ。クラーケンが距離を詰めてくるのがわかる。
「シーアもリュクルゴスも納得してくれてる。ごちゃごちゃ言ってる暇はないよ。悪いけど、ぼくはやるよ」
床に這いつくばりながら、アーサーは波音と競うように声を荒げる。
「言ったでしょう、クォントスにそんな力はないと!」
「なにをむきになってるのか知らないけど、試してみなきゃわからないよ。アーサーだってエレナを助けたいでしょ?」
そう強く言い返すと、アーサーは眉をひそめた。怒っているのではない。その顔はどちらかといえば、切なそうに見えた。けれども、ぼくは構わずデュークを放った。
波間をすり抜けて、一直線にクラーケンの頭を目指す。しかしやつは激しく動き回るので、なかなか上手くいかない。デュークは暴れる触手に叩かれそうになったり、それによって引き起こされる波に揉まれたりした。
そのとき突如、クラーケンが大きな泡に包まれた。最初は球状だったその泡はじょじょにしぼんでいき、やがてクラーケンにぴったりとまとわりつくような形になった。するとやつは金縛りにあったかのように、思うように動けなくなった。
「今のうちに!」
横からアーサーの声がした。彼は杖を海に向けていた。なんと、泡は彼の魔法だったのだ。
額から汗を噴き出して、かなり苦しそうだ。それもそのはず、今まで使っていたのとは比べものにならないくらい大きな泡だ。それに彼はもう、この魔法を幾度も使っている。相当消耗しているはずだった。
「アーサー、ありがとう」
クラーケンが動きを止めたので、デュークはついに首飾りをくちばしでつかんだ。その直後、クラーケンが泡の膜を破って動き始め、デュークは触手で海面に叩き落とされた。しかしすぐに飛び上がる。そのくちばしには、ちゃんと首飾りがくわえられていた。
「偉いぞデューク!」
ギブズさんはすぐにクラーケンから離れるように船を迂回させた。
まだ完全に逃れられたわけではないが、クラーケンのことはみんなに任せて、ぼくは急いで船室に戻った。エレナはさっきと同じようにベッドに横になっていた。胸が見えないように掛けてある布団をすこしだけずらして、彼女の細い首に首飾りをつけてあげた。こうして見ると、水色の髪と同じ色をしたクォントスは、彼女のためにあつらえたのではないかと思うほどよく似合っていた。
「エレナ、起きてよ。きみの大事な首飾りをとり戻したよ。すぐにリールに着くからね」
そうしてしばらく待ってみたが、エレナはいっこうに目覚めなかった。白いまぶたを二枚貝のようにぴたりと閉じたままだ。
だれかが部屋に入ってきて、ゆっくりと近づいてきた。衣ずれの音からアーサーとわかったが、ぼくは彼の顔を見ることができなかった。
「ごめん。やっぱり、アーサーの言うとおりだった」
「……いいんですよ。気持ちは、わかります」
「このまま目覚めないのかな。せっかく外の世界に出るって決意してくれたのに。人間の街も見せられないままだなんて」
「まだ息はあります。やれるだけのことはやってみましょう」
アーサーはさっきとはうってかわって優しかった。彼に促されエレナのもとを離れようとしたとき、後ろで波の音にかき消されそうなか細い声がした。
「エンノイアくん……」