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第七十四話 人魚姫の旅立ち

 アキレウスの周りの石は、ほとんど元の姿がわからないものもあったが、大体は素朴な格好をしていた。彼らがポセイドン神殿から避難してきた人々であろうことは、すぐに察しがついた。恐らく自分もこの石たちの仲間入りをさせられるところだったんだろうということも。

 ぼくにはもう、さっきの「母さん」の正体がわかっていた。力なく洞窟に戻ると、矢を受けて倒れていたのは、母さんでも、ルイーズでもなく、思ったとおり――エレナだった。

「……ごめんね」

 彼女は血を流しながら、消え入りそうな声で謝った。

「どうしてこんなことを?」

 喋ろうとして激しく咳き込み、苦痛に顔を歪めるエレナ。すこし矢が掠っただけだというのに、ずいぶんと苦しそうだ。

「……わたしたちは、人間のせいき・・・を食べなければ生きていけないの」

 せいき――生気。現実感のないその言葉の意味を理解するのには、しばらくの時間を要した。

「じゃあ、さっきの幻は……」

「人魚の罠ですよ」

 背後からの声に振り向くと、そこにはアーサーとリュクルゴスがいた。すこし怪我をしているが二人とも無事で、三人の人魚たちと一緒だ。そのうちの一人は、黒髪の人魚エレーヌ。それから、エレノアにエリーゼ……いや、エリスだったか? ともかく驚くべきことに、彼女たちはみな後ろ手に縛られていた。

「彼女たちは幻を見せるようです。その者にとって、一番会いたい女性・・・・・・・・のね……。この島に迷い込む者の多くは船乗り。故郷に残してきた愛する女性の幻を見せて、惚けているところを喰うというわけです」

 アーサーは足元の白い石を拾うと、わざと無造作に投げた。

「人魚の石は、言わばその残骸だったんですね。人魚の島が百年に一度しか現れないと言われるのは、それだけ逃れられた人間が少ないからでしょう」

「俺たちも海から出たところを襲われて、危ないところだった。俺は幸い、懐からこれが落ちて正気に返ったが」

 そう言ってリュクルゴスが取り出したのは、エルザからの手紙だった。ぼくは茂みの向こうに立ち並ぶ人魚の石と、エレナを見比べた。

「アキレウスもきみが?」

 もらった首飾りをあんなに大事にして、思い出を語っていたエレナが人間を食べていたなんて、にわかには信じられなかった。

 エレナは弱々しく、だけども懸命に首を横に振った。代わりに応えたのはエレーヌだった。

「エレナはね、一度も人間を食べたことがないのよ。なんだか知らないけど、食べるのがいやなんですって。アキレウスのときもずいぶん粘ってたけど、いい男だったからわたしが食べちゃったのよね」

「今回はせっかく待ってあげたのに。本当にお馬鹿な子」

「今までは果物や魚の生気で命を繋いでいたけど、こんなに弱っちゃったらもうだめね」

「そんな……」

 その言葉どおり、それほど大きな怪我ではないというのに、エレナはみるみる衰弱していった。彼女が他の姉妹たちよりほっそりしていたのは、すこし動いただけで消耗していたのは、ずっと人間を食べていなかったからだったんだ。

「きみたちの能力でなんとかしてくれよ。人魚の涙は傷を回復できるんだろ?」

「人魚同士ではだめなのよ。それに、生命力まではどうしようもないわ」

「死んじゃうかもねー」

 人魚たちは、妹に対する言葉とは思えないくらい軽い調子で言った。

「面白かったのは、アキレウスったら、エレナの幻が見えていたみたいなのよね。今までたくさんの男に幻を見せてきたけど、人魚の名前を呼んだ男は初めてだったわ!」

「なにそれ、かっわいそー」

 心ない言葉を楽しげに言う人魚たちに、ぼくは悔しさでいっぱいになった。

 そのとき、ぴしゃりと音がした。笑っていたエレーヌの頬を、アーサーが平手で打ったのだ。人魚たちはもちろん、ぼくたちも呆気にとられてしまった。

「な、なにするのよ!」

「今のは、アキレウスとエレナの痛みですよ」

 アーサーは静かに、よく通る声で言った。ヘーゼル色の目が彼を睨みつける。

「偉そうに。人間の価値観を押しつけないでよ」

「べつに説教をするつもりはありませんよ。ただ、一人の人間として腹が立っただけです」

「この……」

 一触即発。

 みんながそう思って息を呑んだ瞬間、予想外のことが起こった。強気だったエレーヌが、突然わあわあと泣き出したのだ。それも、耳をつんざくような大声で。

 ぼくたちは思わず頭を抱えてうずくまった。やがて、泣き声に惹かれるように海から黒い影が現れた。よく見ると、それはたくさんのカニだった。あれよあれよと言う間に、人魚たちを縛っていた縄がはさみで切られていく。

「ありがとうカニさん」

「くっ、逃がすか!」

 リュクルゴスがとっさにエレーヌの腕をつかんだ。

「こっちのセリフよ。こんな侮辱、許せない!」

 彼女はつかまれた腕を反対にぐっと引き寄せると、リュクルゴスに向かって白い霧を吐いた。彼はすんでのところでそれを避けたが、今度は顔をひっかかれそうになっていた。

 すっかり自由の身になった他の人魚たちが、アーサーにも襲いかかる。相手が相手だけに本気で戦うわけにもいかない。ぼくはどう加勢していいかもわからず困惑していた。ふと、リュクルゴスの言葉が頭によぎる。それはしたくなかったけど、でも……。

「動くな!」

 ぼくはエレナを抱き起こして、首元に剣を突きつけた。みんなの動きが止まる。

「こ、攻撃をやめないと、この子を……」

 腕のなかで、みるみる命の火が小さくなっていくのがわかる。ぼくは怖くなって、うっかりエレナを手離しそうになった。しかし、彼女は逆に自らぼくの腕におさまって、小さな声で言った。

「エンノイアくん、わたしは大丈夫だから、ここから逃げて。ルイーズさんのためにも」

「エレナ……」

「おーい、船はこっちだ!」

 デュークを連れたシーアが、岩の上に駆け上って叫んだ。この岩場の向こうに、最初に上陸した砂浜が繋がっているらしい。

 人魚たちがエレナのために攻撃をやめるとは思えなかったが、少なくとも隙をつくることはできた。ぼくたちはエレナを人質にとったまますこしずつ距離をとると、どうにか岩場を越えた。

 停泊した船が見えてくる。ギブズさんは砂浜に寝そべっていた。

「けっ。おいらを仲間外れにして鬼ごっこか。楽しそうなこって」

「これが鬼ごっこに見えるか? いいから早く船を出せ!」

 シーアはギブズさんにつかみかかって後ろを指差した。周りの木々を石に変えながら猛然と追いかけてくる人魚たちを見て、ギブズさんは青ざめた顔で慌てて船に戻った。

 ぼくはエレナを海に下ろして息をついていた。いくら彼女が華奢だからといって、抱えるほどの力はぼくにはない。半ば引きずるようにして連れてきたので、もう体力が限界だった。

「よく頑張ったな」

 リュクルゴスはぼくにいたわるような目を向けると、今度はエレナに向き直って言った。

「乱暴なことをしてすまなかった。きみはもう自由だ。お姉さんたちのところに戻るか?」

 その言葉に、エレナは目を見開いた。

「わたし、わたしは……」

 追いかけてくるエレーヌたちと、船を交互に見比べて、エレナの瞳が揺れた。

「あの……こんなことを言う資格はないけれど」

 何度も躊躇しながら、震える声で、すこしずつ言葉にしていく。一度は棄てられた選択肢が、彼女のなかで再び目覚めていく。

「もしも、もしも迷惑でないなら……どうか一緒に……」

 ぼくが励ますようにうなずくと、エレナはふわりと笑った。

「外の世界に連れて行ってください」

 そこまで言ったところで、彼女は意識を失った。

 ぼくはエレナの手をとった。完全に気を失った彼女は重くて、なかなか動かない。それでももう一度力を奮い起こして、どうにか船へと連れていく。

「正気か? お前を襲った相手だぞ」

 ぼくの手を押さえて、リュクルゴスが問いかけた。

「きっともう幻を見せる力は残ってないよ。それに、彼女だって本当は人間を襲いたくはなかったはずなんだ。いくらでもチャンスはあったのに、ずっと耐えてくれた。いやそれどころか、ぼくたちを助けてさえくれた。ぼくはそのお礼に、彼女に人間の街を見せてあげたい」

「呆れたな」

 リュクルゴスはそう言いながら、ぼくの手からエレナを奪い取って担ぎ上げた。

「俺も同じ考えだ」

「リュクルゴス!」

 シーアもアーサーも、止めはしなかった。ぼくたちはエレナを船に乗せると、大急ぎで出航の準備を始めた。

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