第七十三話 都合のいい夢
「起きて、起きて」
あれからどれくらいの時間が経ったのか。ぼくは、真綿に包まれるような柔らかい声で目が覚めた。
水色の髪がちらちらと頬をくすぐる。
「ルイーズ?」
髪の主はちょっとだけ表情を曇らせた。
「ル……ひゃっ」
冷たい水滴が頬の上を跳ねて、次第に意識が鮮明になってきた。ぼくの顔を覗き込んでいたのは、人魚のエレナだった。
「よかった。目が覚めたのね」
草の服が脱げ、再びあられもない姿になっている彼女から慌てて目を逸らしながら、なにが起きたのかを思い出す。触手に捕らわれたエレナを助けて、彼女を受け止めて、アーサーの出した泡に入ろうとして、流されて……。
ぼくは全てを思い出した。それからエレナの魚の姿をした下半身を見て、どうして助かったのかを悟った。
「助けてくれたんだね。ありがとう。なんだか、『人魚姫』みたい」
そうか、よく考えたらエレナは泳げるんだから、無理に泡まで連れて行かなくてよかったんだ。ついさっき冷静になれと言われたばかりなのに、なにやってんだぼくは……。
自己嫌悪もほどほどに、立ち上がって辺りを見渡す。もうなにがなんだかわからないくらいびしょ濡れで、服がまとわりついて蒸し暑い。
ここはどうやらさっきの洞窟のどこかのようだ。辺りにはいつか見たヒカリタケが生えていて、幸い松明なしでもすこしは明るかった。
目の前は巨大な地底湖のようになっていた。神殿の壊れた天井から海水が入ってきて、海面と同じ高さまで浸水してしまったんだろう。
泡で逃げたシーアたちは無事だろうか。それに、姿の見えないデュークも。
「いてて……」
水のなかで瓦礫にぶつかったのか、ぼくはあちこちを怪我していた。不安を掻き立てるように、全身がしくしくと痛む。すると、すぐにエレナが寄ってきた。
「大変。いま治してあげるね」
「そういうきみだって怪我してるじゃないか」
そう、よく見たらエレナも腕がすりむけていたのだ。
「自分の傷は治せないのよ」
「不便な能力だなあ」
思わずそう言うと、エレナはぽろぽろと泣き出した。
「そうよね。わたしってほんとグズで役立たずで……」
「わ、ごめんごめんっ。泣かせるつもりじゃ」
「ふう、これでいいわ」
エレナはけろりと泣き止むと、前と同じように怪我を治してくれた。ぼくは自分のシャツをすこし破って、エレナの腕に巻いてあげた。
ぼくたちは改めて水面を見た。
「ごめんなさい、わたしを抱えていたから走れなかったのね」
「き、きみのせいじゃないよ。それに、考えたらずっと抱え続ける必要はなかったんだし」
「でもわたし、あなたのそういう考えなしなところ好きよ」
それって褒めてるのかなあ……。そう思いつつ、「好きよ」と言われると自然と顔に血が上ってしまう。
とにかくエレナには服を着てもらうことにした。といっても、ここにはこのぼろぼろのシャツくらいしかない。仕方なくそれを脱いでエレナに着せようとして、ぼくはあることに気がついた。
「首飾りがなくなってる!」
「あ、ほんとだ。でも、もういいわ。古いものだしね」
エレナはそっけない調子でそう言ったが、ぼくにはそれが彼女の本心だとは思えなかった。
「だめだよ、大事なものなのに! 待ってて。探してくるから」
駆け出そうとすると、腕をぎゅっとつかまれた。
「ほんとにいいの」
「でも……」
なおも食い下がろうとするぼくを、エレナは押し留めた。
「エンノイアくんは、優しいね……。ね、人魚姫の王子さまは助けてくれた女の子と結婚するんでしょ? エンノイアくんは、わたしをお嫁さんにしてくれる?」
「お、およめ!?」
ぼくはひっくり返りそうになった。いくらなんでも気が早すぎるよ!
「あ、あの、気持ちは嬉しいけど、ぼくはまだ子どもだし。いや、そうじゃなくて!」
なんてあたふたしていると、エレナは笑って手を振った。
「安心して、からかっただけよ。久しぶりに人と話せて嬉しかったの。この島に来た人はみんな……すぐにいなくなってしまったから」
エレナの言葉に、ぼくは胸が痛んだ。
そうか。こんな島には滅多に人は来ないだろうし、来てもすぐに去ってしまうだろう。ぼくは、エレナはひょっとして寂しかったんじゃないかと思った。
「あ、あのさ。エレナもぼくと一緒に行こうよ」
「あなたと……?」
ぼくは慌てて言葉を足した。
「ぼくたちと。その、きみの能力があれば、きっとみんな助かると思うんだ。もちろん、帰りたくなったらいつでも帰っていいんだけど。旅行でもすると思って、どうかな」
エレナは一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐにやんわりと否定した。
「無理よ、わたしは人魚だもの」
「大丈夫だよ。あ、ほら。あの実があれば歩けるんだし」
ふとエレナに足ができたときのことを思い出して、顔が熱くなる。あれが毎日見られるかと思うと――いやいや、スケベなこと考えてる場合じゃないぞ。
それはさておき、エレナの顔を見ると、小さく笑っているだけだった。笑ってはいたけれど、完全にあきらめている表情だ。エレナを連れて行くのは、シーアを誘ったときよりもずっとずっと絶望的に思えた。
そのとき、洞窟全体がズズンと揺れた。まさか、まだクラーケンが近くで暴れているのか。天井がきしんで、小さな石が降ってくる。もたもたしていると、危ないかもしれない。
「とりあえず外に出よう。道はわかる?」
エレナはしばらく悩んだあと、右に続く道を指した。
「元の場所はわからない。でも、この道を行けば安全なところに出られるはずよ」
といっても、エレナの足は魚のものに戻ってしまっている。ぼくは彼女を支えながら、すこしずつ進むことにした。
しかしやはり上手く歩けないせいか、エレナはすぐに弱ってしまった。
「久しぶりに動いたから、ちょっと疲れたみたい」
そう言うので、仕方なく、ぼくたちは座って休憩することにした。今のところ、揺れはおさまっているようだ。
エレナは島の外のいろんなことを聞いてきた。ぼくはこちらの人間ではないけれど、これまで見てきたアイオリアの様子などを彼女に話した。
「すごい、あの人が話していたとおり、素敵なところなのね。人間の国、見てみたいな」
ぼくはここぞとばかりに畳み掛けた。
「アイオリアの王さまは女の人なんだよ。そうそう、きみと同じ水色の髪をしてるんだ。ルイーズっていうんだけど。じつは、彼女がバイバルスっていう悪いやつにさらわれてしまったから、ぼくたちは助けに行ってるんだ」
こんな大事なことを話してしまっていいのか悩んだが、人魚である彼女にはなんの関係もない話だから、問題ないだろうと思い直した。
「エンノイアくんは、ルイーズさんのことが好きなの?」
予想外の方向からの攻撃に、ぼくはむせた。
「ち、ちがうよ。そんな、あんまり話したこともないし」
「でもさっきわたしを見て言ったじゃない、ルイーズ、って」
ぼくは、ぼっと顔が熱くなった。確かにぼくはぼんやりとした意識のなかで、エレナとルイーズを見間違えてしまった。でもそれはエレナがルイーズと同じ水色の髪をしているからで、決してルイーズのことを好きだとか、そういうわけじゃない。なんてもごもごと言いよどんでいるうちに、エレナが先に口を開いた。
「みんな、大事な人がいるよね……。彼女に、一番、会いたいと思う……?」
ぼくはどきりとした。その口調が、妙になまめかしく感じてしまったからだ。ぼくは寸刻悩んでから答えた。
「う、うん、そりゃあね。だから助けに行くんだもの」
エレナは薄く笑って、そう、とだけ言った。
そうして、ぼくたちは休み休み進んでいった。すると、やがて波音が聞こえてきた。
「外だ!」
洞窟内にパッと薄明かりが差し込む。数十メートル先では、水平線からにじみ出る朝日に照らされて、海が輝いていた。両側を高い山に囲まれていて、まるでここは秘密の海岸といった具合だ。
しかし喜びの声を上げようと思った瞬間、エレナは腕のなかで力尽きたように崩れ落ちてしまった。
「どうしたの!?」
かすかに唇が動くが、声が小さく聞き取れない。ぼくは躊躇しながらも、エレナの唇にうんと耳を近づけた。
「……ちゃって……」
「え?」
「……お腹、空いちゃって……」
思いがけない言葉に、今度はぼくのほうが崩れ落ちそうなくらいだった。
「なあんだ、そんなことか。待ってて、なにか採ってくるよ!」
東屋へ向かうとき、果物がたくさん生っているのが見えた。たぶん、どこかにあると思うんだけど。
そこらの木に適当に手を伸ばすと、案の定すぐにピンク色をしたなにかの果実が採れた。そのとき、茂みの向こうに人影が見えた気がした。
「シーア? リュクルゴス? アーサー?」
ギブズさんだったりして。しかし呼びかけてみても返事がない。ぼくはなんだか気味が悪くなって、エレナのもとに戻ることにした。
「あ、れ……」
そうして洞窟に向けて踵を返した瞬間、意識が朦朧としてきた。
――一番会いたい人に、会わせてあげる。
「ルイーズ……?」
洞窟の前に、ルイーズが立っている。ぼくはまた、エレナとルイーズを見間違えているのだろうか。
「ありがとう。あなたのおかげよ、エンノイア」
「え……?」
ルイーズは、いつか見たような凜とした表情で言った。
握ったつもりの果物は血が滴る剣になっていた。そして、側には血を流したバイバルスが倒れていた。
「よくバイバルスを倒してくれました」
ルイーズはそう言うと、唇を近づけてきた。頭の芯がツンとして、なにも考えられない。
「こんなのって変だよ」
「ちっとも変じゃないわ。あなたはわたしのヒーロー。リュクルゴスより好きよ」
こんなことはありえない。
そう思いつつも、ぼくは吸い寄せられるようにルイーズに顔を近づけてしまった。夢でもいい、ときにはこんなご褒美もあっていいんじゃないか?
ふとした好奇心から、唇が触れる前に、ぼくはすこしだけ目を開けた。そこには、幼い顔をした――。
「母さん!?」
そこには、なぜかルイーズの代わりに母さんがいた。ぼくはびっくりして、ものすごい勢いで飛びすさろうとした。しかし。
「あ……」
しまった、と言葉を発することもできない。気づいたときには腕や足に髪が絡みついていて、ぼくは動くことができなかった。巻きつかれた部分から吸い取られるかのように、急速に全身の力が失われていく。指先の色がなくなって、まるで石になったかのように動かない。
いつの間にか、手にした果物が地面に落ちていた。すかさず髪がそれにまとわりつく。果物はあっという間に水気を失い、白い石と化してしまった。
――エンノイア、愛してる。ロバートよりも……。
幻聴なのか、現実なのか、耳の奥で母さんの声がする。そうだ。これはぼくの願望だったんだ。ロバートよりぼくを見てほしいっていう。
「母さん、ごめん許して! もうそんなこと望んでないから! ロバートなんかどうでもいいから!」
ぼくは必死になるあまり、わけのわからないことを叫んでいた。
「ピイッ」
鳥の声がしたと思った瞬間、一本の矢が母さんの脇腹を掠めた。化け物のような髪が一斉に引いていく。
「母さん!」
ぼくは悲鳴を上げて、血を流し倒れる母さんを抱き留めた。濃く深い赤が広がっていく。どうしてこんなことに。
「しっかりしろ。それはお前の母親じゃない!」
気づけばぼくは後ろからシーアに羽交い締めにされていた。母さんに取りすがろうとするぼくを、シーアは無理やり引き剥がす。
「どうして邪魔するんだよ。早く母さんを助けないと死んでしまう!」
引きずられるようにして茂みを潜り抜ける。
「あれをよく見ろ!」
波の音がどっと打ち寄せて、ようやく視界が鮮明になってきた。いつの間にか、夜は完全に明けていた。
ぼくは言葉を失った。そこにあったのは人型をした「人魚の石」だった。十、いや二十はあるだろうか――それも、男ばかり。林立する無数の白い影は、まるで芸術作品のようだ。いくつかは砕けて、波にさらわれている。
なかでも目を引いたのは、ひときわ立派なローブを着た青年だ。神官、いや、司祭だろうか。フードは下ろされ、端正な顔とウェーブがかった髪が見えていた。ぼくの脳裏にある人物の名前が浮かんだ。
パパス・アキレウス……。