第六十八話 不鮮明な未来
外に出たぼくは、岩に腰かけていた。
まったく、この島にいると調子が狂ってしまう。ぼくは暮れなずむ夕日が水平線を朱くなぞっていくのを見つめながら、波間から再びポセイドンが顔を出さないか願っていた。
「大丈夫?」
背後から声をかけてきたのは、道案内をしてくれるという水色の髪の人魚、エレナだった。彼女は心配そうな顔をしながら、数人の姉たちとともにこちらにやって来た。
身体はすでに草で編んだらしい服で隠されていて、ぼくはほっとしたようながっかりしたような気がした。ポセイドン神殿の祈りの道具だという首飾りは、相変わらずつけたままだ。
「百年も老け込んだみたいよ」
「そうそう、ジジイみたい」
「ジジイと言えばね……」
「ちょっと、やめてよ」
エレナはおしゃべりの止まらない他の人魚たちをたしなめると、すらりと伸びた綺麗な脚を曲げて隣に座った。
「エレナよ。よろしくね」
「あ……エンノイアです。こっちの鳥はデューク」
エレナは、ふふ、と笑ってデュークを撫でた。こうしてじっくり見ると、一人ひとりのちがいがわかってくる。末っ子のエレナは色白でほっそりしていて、心なしか他の人魚より落ち着いた性格のようだった。
水色の髪が風に揺れて宙を舞う。憂いを帯びた瞳はどことなくルイーズに似ていて、ぼくの胸の奥をざわつかせた。
ふとアーサーの言葉を思い出して、エレナから距離をとる。しかしエレナは構わず詰め寄ってきた。
「さっきからそわそわしてどうしたの? あなたもしかして……」
ぼくは、油断した、と思った。顔にひやりとした感触が伝わる。気づいたときにはエレナの顔がすぐ側にあって、頬に手を添えられていた。
エメラルド色の瞳を見つめたまま、動くことができない。エレナに見惚れているせいか、石にされるのを恐れているせいか。彼女の手とは反対に、ぼくの頬は温度を増していく。
――が、しかし。
「好きな人がいるのね!?」
エレナの予想外の言葉に、全身の力が抜けそうになった。
「この子ったら図星よ」
「お相手はどなたかしら。まさかあの三人のなかに!?」
「だから物思いにふけってたのね」
前言撤回、やはりエレナも騒がしい女の子の一人だったようだ。よろけているぼくには構わず、他の人魚たちも意味不明な方向に盛り上がっていた。本当に彼女たちが男たちを石にしたりしたのかな。よくも悪くも普通の女の子にしか見えない。
「ポセイドンについて考えてたんですっ」
ぼくが思わずそう言うと、エレナは急に真顔になり、ポセイドン、と繰り返した。ぼくは焦った。なにかおかしなことを言ってしまっただろうか。
「お父さまを知ってるのね」
「お、お父さま!?」
「そう。偉大なる海の神ポセイドンが、わたしたちの父よ」
ぼくは人魚たちを見回した。それから、あの巨大魚の姿を思い浮かべた。魚の下半身に、人間の上半身。お父さんが魚ということは、お母さんが人間だろうか。いろいろと結婚生活が大変そうだ――なんて思っていると、エレナのぴしりとした声がとんだ。
「いま変なこと考えたでしょ。人間の常識で考えないでよね。お父さまはね、珊瑚のかけらと真珠と魚の鱗からわたしたちをつくったのよ」
「その……お父さんと話したいんだけど」
ぼくが言うと、エレナは残念そうに首を振った。
「わたしたちも、もう何百年も会っていないの。お父さまはね、ずっと眠っているのよ」
「眠っている……?」
何百年というスケールに驚きつつ、ぼくはその言葉に引っかかった。
「ずっとずっと昔、あるとき、魔界が侵攻してきた。魔物が地上からも空からも一斉に押し寄せて、人間やエルフを次々と襲ったそうよ」
つい昨夜、シーアに聞いた話だ。夢で見た光景を思い出して、胸がどきどきしてくる。
「アポロン、セレネ、クロノス、アトラス、ヘパイストス、ポセイドン、アイオロス、ディオニュソス、デメテル、アテナ、アルテミス――ハデスを除く十一人の神さまたちは人々を守るため、魔界と戦ったの。エルフと一緒にね。わたしたちのお父さまは、海を自在に操って戦ったわ。そのときの名残で、このあたりの海面が上昇したのよ」
ぼくははっとした。千年前に魔界が攻めてきたとき、エルフだけじゃなく、神さまたちも戦ったんだ。
「だけど彼らはそこで力を使い果たしてしまった。それから彼らはずっと眠り続けているのよ。この世に存在するありとあらゆるものに姿を変えて、人知れずね」
「そう、なんだ……」
今までぼくが見聞きしてきた事柄が、頭のなかでひとつにつながった気がした。どうしてだれもデュークがアイオロスであると知らないのか。どうしてなんの変哲もない海に、ポセイドンが泳いでいるのか。
いつだったか討伐隊の副隊長ゾアが、だれも彼らの真の姿を知ることはできない、と言っていた気がする。つまり王と交信する以外は、アイオロスはただの鳥、ポセイドンはただの魚と化してしまっているんだ。
ぼくが呆然としていると、デュークはまるで自分には関係のないことかのように、海風を受けて飛んでいった。
うっとりと焦がれるような表情でエレナの話を聞いていた金髪の人魚が、口を挟んだ。
「彼らを再び目覚めさせると言われているのが、『運命の王』なのよね」
「目覚め……させる……?」
思わず反復すると、彼女はうなずいた。
「そう。再び魔界が侵攻してきたとき、眠っている神々を復活させるために、運命の王は現れるのよ」
ぼくは目を見開いた。アイオロスも、ルイーズも、ポセイドンも、ぼくのことを「運命の王」だと言っていた。
まさか、そんな。そんな大役が、ぼくだというのか。ただの「新しい王」ではなかったというのか。
「それって、どういうこと。どうやって……目覚めさせるの?」
「それは、エルフが知っているわ」
ぼくはどきりとした。脳裏にシーアの顔がよぎる。と、そのとき、まさにぼくが思い描いた人物が、夕日を受けながらこちらに歩いてきた。
「あ、シー……」
「キャー」
「こっちに来てぇ」
人魚たちのかしましい声に、ぼくの声はかき消された。人魚たちに囲まれると、シーアは彼女たちをきっと睨んだ。
「キィキィうるせえ女たちだな。どっか行けよ」
この言葉にはさすがの人魚たちも度肝を抜かれたようだ。目を見開いたまま固まってしまった。
「いやーん、こわーい」
「ツレない男ね」
「サイテー」
彼女たちはひそひそ話をしながら、そそくさと東屋へ引き返していった。
シーアが人魚たちを追い払ってくれたので、あたりは嵐が去ったように静かになった。
「潮が引いたら出発するってさ」
シーアはそう言ってぼくの横に座ったが、足元の草をいじったり遠くを眺めたりするだけで、なにもしゃべらない。ぼくたちの間を柔らかい海風がすり抜けていく。ぼくは、さっきのことを聞くべきかどうか悩んでいた。しかし、喉の奥がちりちりして言葉にならない。
ぼくだって、完全にわかったわけじゃない。だけどさっきのエレナたちの話で、なんとなくの見当はついてきた。それは、ぼくはこの国の王で、それも「運命の王」と呼ばれる特別な存在で、魔界と戦うために、眠っている神々を復活させなければならないこと。そしてひょっとしたら、その方法をシーアが知っているかもしれないということ。
この世界に来たときには想像もしえなかった壮大な話に、めまいがしてきた。
だけどーー。
胸がちくりと痛む。
ぼくはルイーズを助けたら、元の世界に帰るんだ。この世界における「運命の王」が何者であろうと、ぼくには関係のないことだった。
最後の抵抗を見せる夕日が、波のようにうねるシーアの髪を朱く染める。それは次第に光を失い、あたりはあっという間に夜の世界になった。
「あのさ」
シーアは、ひょいと顔を上げた。
「もし、もしだよ。自分が知らないうちに、大きな使命を背負わされていたとしたら、どうする? それも、自分が望んでもいないようなことで」
日暮れに急かされたせいか、ぼくはなぜか、思っていたのとちがうことを口走ってしまった。
いきなりこんなことを聞いて変に思われないかと心配になったが、シーアはぼくの言葉を真面目に吟味してくれたようだった。
「……逃げる」
「え?」
「だって、そんなの自分の責任じゃないだろ。だったら、逃げるしかないと思う――運命が追ってこられないところまで」
「運命が……追ってこられないところまで……」
予想もしなかった答えに、ぼくは動悸が止まらなかった。
「なにか気にしてるのか?」
全てを打ち明けたらどうなるだろう。彼は、信じてくれるだろうか? 信じてくれたとして、彼はなんと言ってくれるだろうか――?
脳裏に、さまざまな未来の姿が浮かぶ。でもその像は擦りガラス越しに見たかのように不鮮明で、正確につかむことはできなかった。わずかな期待と不安を抱えながら、ぼくはそれらを全て吐き出すように、ふっと目を閉じ息を吐いた。
「ううん、なんでもない。聞いてみただけ」
「そうか」
シーアはそっけなく言って、ちぎった草を海に放り投げた。それから、二人ともなにもしゃべらない。気まずくなって、ぼくは話題を変えることにした。
「でも、いくら石にされるかもしれないからって、エレナたちに冷たすぎるんじゃない? 嫌いなの?」
まあ、確かに彼女たちは騒がしいし、危険だし、わからないでもないけど。そう言うと、シーアはぷいと顔をそむけた。
「べつに嫌いってわけじゃ……」
じゃあなんだというのだろう。つと、ぼくはあることに思い至って噴き出した。
「ひょっとして、女の子と話したことないんだ~。ずっと森に住んでたんだもんね。モテそうなのにかわいそ……」
言い終わる前に、強烈な右フックが飛んできた。