第六十七話 甘い誘惑
東屋までは二十メートルほど。そろそろ夕暮れだろうか、太陽が傾いてきた。海岸線に沿うように立ち並ぶヤシの木は強い光に照らされ、その下には真っ赤な花々が咲き乱れていた。
ハイビスカスに、花びらのような葉をしたあれは確かブーゲンビリアだ。それから、あちらこちらに見たこともない果物が生っていた。いかにも南国らしい色をしたそれらの景色は、目にまぶしいほどの鮮やかさだった。
赤や橙の、花々と同じカラフルな色をした髪が踊る。人魚たちは足がないにもかかわらず、器用に岩場を跳ねていった。ぼくたちは大きな岩に苦戦しつつ、そのあとをついていく。ちなみにギブズさんは人魚たちにちょっかいを出した罰として、船に置いてきた。
「ところで、今朝は具合が悪かったみたいだけど大丈夫なの?」
ぼくは、まだなにかを考え込んでいる様子のアーサーに尋ねた。彼もまた長いローブを着ていながら、大きな岩を軽々とまたいでいた。
アーサーは一瞬瞠目して、思い出したように言った。
「はあ。怪我をしてしまいまして」
「死者を弔うのに、怪我? ドジだなあ」
「きみに言われたくはありません。それより、気をつけてください」
アーサーはさっき海岸で拾ったらしい白い石をこっちに見せるように振った。
ぼくはぎょっとした。よく見ると、それは人の手の形をしていたからだ。タレスで売られていた人魚の石と同じだ。
「以前読んだテラスティアの文献に、『人魚は気に入った人間の男を罠にかけて、石にして殺してしまう』という記述がありました。推測ですが、白い砂浜はそういった男たちが砕けてできたのではないかと」
アーサーはじつに淡々と、とんでもないことを言った。
「そういうことは早く言ってくれよ!」
リュクルゴスが至極当然な不満を口にするが、彼は意に介さない様子だ。
「わ、罠って?」
ぼくが尋ねると、アーサーはなぜか内緒話をするように耳元に口を近づけた。
「それがわたしもよくは知らないんですけどね……人魚の技はすごいらしいんですよ。どんな堅物な男でもすぐに甘い誘惑に負けてしまうんだとか」
「は、えっ……!?」
言葉を失ったぼくには構わず、アーサーはなんでもないような顔でみんなを見渡した。
「危険な賭けですが、彼女たちについていくしかないでしょう。どうやら彼女たちが神殿と関係があることは間違いなさそうですし」
確信を持った言い方に、みんなは首を傾げた。アーサーは一人の人魚を指した。その人魚は、一人だけ長い首飾りを掛けている。水色の小さな珠が連なったもので、ずいぶん古そうだ。
なんとアーサーは、懐から同じものを取り出した。いや、よく見ればアーサーのものは輪になっていなかったし、より深い青色をしていた。
「あれは、今は存在しないポセイドン神殿のクォントス――祈りの道具ですよ。祈祷のたびに珠の数を増やしていくもので、本来は首に掛けるものではありません。あれだけ長いということは、元は高位の神官か司祭のものだったのでしょうね」
ぼくたちは息を呑んだ。
「くれぐれも油断しないことです。ほら、エンノイアくんなんか特に、鼻の下伸ばしてると石になりますよ」
名指しで注意されて、ぼくは頭に血が上った。
「ば、ばかにしないでよ。半魚人なんかにでれでれするわけないじゃんか!」
「半魚人、ってなあに?」
耳に貼りつくような甘い声に、ぼくはぎくりとした。いつの間にか、黒髪の人魚がすぐ側にいた。
「お名前はなんておっしゃるの?」
「エ、エンノイアです」
「まあなんてすてきな名前なのかしら! わたしはエレーヌよ」
真っ白な柔らかい手で、ぼくの手を握る。さっきまで海で遊んでいたからか、濡れていてひんやりしていた。
「えへへ……いたっ」
思わず笑い返すと、シーアに肘で小突かれた。
ぼくたちが東屋に入っていくと、黄色い声が上がった。
「わたしたちはみんな姉妹なのよ」
エレーヌがそう説明した。
「わたしはエレノア」
「あたしはエリーゼ」
「ワタシはエリス」
「う、うん。もうわかった。ありがとう」
似たような顔をした人魚が、次々と似たような名前を名乗ってくる。聞いても覚えられるわけがないので、ぼくは適当なところで逃げた。
「どうぞくつろいでらして」
促されるまま、ひんやりとした白いタイル張りの床に座る。ぼくは周りを見渡して、ため息をついた。
東屋では十人ほどの人魚があられもない姿でくつろいでいた。真ん中にはたくさんの果物が運び込まれていて、その甘い香りが漂ってくる。すごく享楽的な世界だ。考えちゃいけないと思うのに、アーサーの言葉の都合のいい部分だけが頭をぐるぐると巡る。
「甘い誘惑、かあ……」
ぼくは思わず口に出してしまった。シーアが小さな声で「おい!」と咎める。しかし、エレーヌには聞こえてしまったようだ。彼女は息がかかるほど接近して、ぼくの顔を覗き込んだ。
「試してみる?」
「え、いや、その……」
ぼくが変な汗をかいていると、彼女は見慣れない形の果物を持ってきた。
「どうぞ」
「は、はあ」
ぼくは果物を受け取って食べた。……確かにすごく甘い。
「うふ、気に入った? 上から下までぜ~んぶあなたのもの。好きなだけ食べちゃっていいのよ」
思わせぶりな言い方をして、エレーヌはぼくの前にその果物をどっさり置いた。
「オホン。それより……」
リュクルゴスは咳払いをした。
「ええ、わかってるわ! 海の下に、昔の人たちが神殿の地下からこの島まで掘ったらしい洞窟があるの。洞窟はまだ浸水していないから、ひょっとしたら神殿の地下も無事かもしれないわよ」
「海の下を掘ったのか? それはすごいな」
「テラスティアの優れた技術をもってすれば容易なことだったのでしょう」
リュクルゴスの驚きの声に、アーサーが応える。いわゆる海底トンネルというやつだ。たとえ上の神殿が沈んでいても、ぼくたちが用事があるのは地下の祠だけだから、地下が無事なら十分だ。魔法みたいなものを教えてもらえると想像していたぼくは、意外とまともな道があったことに驚いた。
「この子が案内するわ」
そう言ってエレーヌは、さっきの首飾りをした人魚を指した。髪の色はルイーズやアーサーと同じ水色で、歳は人間で言うなら十五歳くらい。人魚たちのなかでは一番若そうだ。
「末の妹のエレナよ」
「案内って……」
ぼくはエレナの足、もといヒレを見た。いくら岩場を器用に跳ねていた人魚たちでも、完全に水の引いた洞窟を進めるとは思えない。
ぼくの言いたいことを察したのか、エレーヌは笑った。
「大丈夫よ。この実を食べれば、ほら……」
そう言って、彼女はカゴからひとつの果物を手にとってエレナに渡した。まるでマンドラゴラのように枝分かれして、節くれだっている。エレナがそれをひとくちかじると、目を丸くするぼくらの前で、彼女の下半身はみるみるふたつに分かれていく。次第に青みがかった鱗が肌色になっていき、人間の女性のように……。
「うわあああ」
元から服を着ていないのだから、人間になったらそりゃあ裸に決まっている。根性も覚悟もないぼくは、とっさに東屋を飛び出した。