第六十六話 人魚の島
「なんだって。海底に神殿!?」
ぼくはリュクルゴスたちにさっき見た建物のことを伝えた。もちろん、ポセイドンの声が聞こえたとは言わなかったけど。
「昔はアディスの一部だったのが、千年前とは海岸線が変わって海に沈んだのかもしれませんね」
「それじゃあ、どうやって行くんだ?」
ぼくたちは頭を悩ませてしまった。
「そうだ。アーサーのさっきの魔法は?」
ぼくは名案と思い口にしたが、アーサーは首を振った。
「さすがのわたしでも宝玉を手に入れるまで魔法を持続させられる自信はありませんね……」
「仕方ない。ここは置いておいて、一旦アディス本土へ向かうとしよう。さあ、船を進めてくれ」
リュクルゴスが言うと、ギブズさんは、いやあ、そのう、と言い淀んだ。
「あのデッカイ魚を追い回しちまったせいで、一体ここがどこだかさっぱり……」
「はああ~!?」
あまりの出来事に、ぼくの思考は一瞬にしてぶっとんだ。なにが大船に乗ったつもりで、だ!
「一体どうするつもりだ!?」
これにはさすがのリュクルゴスも声を荒げた。
「まあまあ、カリカリしてもしょうがねえ。こういうときは酒でも飲んで、ゆっくり考えましょうや」
そう言ってギブズさんはどっかと地べたに腰かけ、酒を飲み始めた。ぼくたちは呆れるあまり、なにも言えなくなってしまった。
「おい、あれを見ろ!」
望遠鏡を覗いていた恰幅のいい船員が、声を上げた。ギブズさんは船員をポカッと殴ると、望遠鏡をひったくった。
「なんだありゃ。あんな島、見たことねえ」
それから、ぼくたちは次々に望遠鏡を覗き合った。指紋で薄汚れたレンズのなかには、目を見張るほど美しい島が映っていた。
ぼくは胸が高鳴るのを感じた。島にはヤシの木がたくさん生えていて、周囲は遠目からでもわかるほど色鮮やかな珊瑚礁に囲まれている。コバルトブルーの海を引き立てる白い砂浜がまぶしい。楽園という言葉がふさわしい島だ。いくらこのあたりが暖かい地域だからといって、この南国のような島はあまりにも不釣り合いだった。
「いんや、おかしい。あんな島は見たことも聞いたこともねえ」
ギブズさんが首をひねりながら、改めて言った。
「また亀なんじゃないか?」
シーアが横で笑えないことを言う。しかしその島はしばらく見つめていても、動く様子はなかった。
「現在地を知るための手がかりがあるかもしれませんよ? とりあえず上陸してみましょう」
アーサーがみんなの気持ちを代弁した。みんな、心なしか顔が赤い。手がかりがあるかどうかはともかく、この島が一体なんなのか、ぼくたちはすっかり好奇心に駆られていたのだ。いや、好奇心なんてものじゃない。太陽に照らされてキラキラと輝く島は、まるで引力があるかのように、どうしても行かずにはいられない気持ちにさせたのだ。
船は二人の船員たちに任せ、ぼくと、シーアと、リュクルゴスと、アーサーと、ギブズさんの五人で上陸することになった。それと、デューク。
ふしぎな島が、みるみる近づいてくる。そんなに大きくはないようだ。たぶん、徒歩でも一日くらいでひと回りできるんじゃないだろうか。
下り立ってみると、砂浜の白い砂は意外と目が粗かった。踏むと砂同士が擦れて、キュッキュと音が鳴る。アーサーはしゃがみこんで砂を観察していた。
「どうしたの?」
ぼくが問いかけると、アーサーは口に指を当ててウーンとうなったあと、肩をすくめて言った。
「とりあえず向こうまで行ってみましょう」
砂浜の途切れた先は、荒々しい岩場となっていた。そちらに歩みを進めようとしたとき、風に乗って人の声がした。ぼくたちははっと顔を見合わせた。
「こっちだ」
リュクルゴスに促され、大きな岩の裏に張りつき、様子をうかがう。耳をすますと、聞こえるのはどうやら女の人の笑い声のようだ。それも複数。
ぼくは伸び上がって、背丈よりも大きい岩の上からそっと顔を出した。満ち潮のときにはこの岩場も浸水するらしい。今は大きな岩と岩の間が潮溜まりとなっていた。
そのなかで楽しそうにじゃれ合う島の住人たち。大きな岩が邪魔をして身体の上のほうしか見えなかったが、そのあまりの衝撃的な光景に、ぼくは息を呑んだ。
岩の向こうでは、若い女の子たちが水遊びをしていた――生まれたままの姿で。惜しげもなくさらされた艶やかな肌に、目が釘付けになる。彼女たちは、しなやかな腕を自由に動かしてはしゃいでいた。
「すげえな……」
同じように伸び上がって見ていたシーアが、興奮を隠せない様子でつぶやく。クールなふりして、シーアもけっこう好きなんだな。
「彼女たちの足、見てみろよ」
「あ、足!? 足まで見えるの!?」
シーアが顔をしかめるのにもかまわず、ぼくは彼の肩に無理やり手をかけて、さらに高く伸び上がった。すると、さっきは低すぎて見えなかった彼女たちの下半身があらわになった。
「信じられない……生きててよかった」
初めて見る光景に、思わず息を荒げてしまう。彼女たちは尾ヒレを勢いよく動かして、互いに水をかけ合っていた。つまり彼女たちには――足がなかった。人間の形をした上半身と、魚の形をした下半身。これが、噂に聞く人魚にちがいなかった。
「テラスティアの文献で目にしたことはありましたが、本当に人魚の島が実在したとは……。普段は波に隠されていて、百年に一度しか人間の前に姿を現さないのだそうですよ」
アーサーは知的好奇心が掻き立てられると言わんばかりに、やけに興奮していた。
「うへへ、あれが人魚か。可愛いじゃねえか」
別の意味で興奮していたのはギブズさんだ。すこし酔っ払ってもいるようで、ぼくたちが止める声も聞かず、躊躇なく人魚たちに近づいていった。
「よぉ、姉ちゃんたち。水遊びもいいけど、おいらたちともっと楽しいことして遊ぼうぜ」
人魚たちは一斉に悲鳴を上げた。
「いやあっ、オヤジだわ!」
「へんたい!」
「酒くさい!」
「ぶさいく!」
「いやーん」
ギブズさんもひどいけど、人魚たちも言いたい放題。耳が割れそうだ。
ぼくたちが呆然としている間に、人魚のひとりが口から白くてキラキラした霧を吐いた。それをもろに受けたギブズさん。なんと、活きのいい一匹の魚に変身してしまった。
ぼくたちは驚いて、騒然となった。シーアが短剣に手をかける。それを制して、リュクルゴスが人魚たちの前に歩み出た。
「あー……驚かせてすまない。俺たちは怪しい者じゃない。アディスに行く途中、道に迷ったんだ。あまり変わった島だったので立ち寄ってみたんだが……」
ギブズさんを魚に変えてしまった黒髪の人魚は、リュクルゴスを見るなり、ぽっと顔を赤らめた。そして仲間の人魚の元へ跳ね戻ると、なにかを耳打ちした。人魚たちはぼくたちの顔を見渡して、なぜか急に色めき立った。
「やだ、よく見たらいい男ばかりじゃない」
「見て、あの子の髪! なんて不思議な色なのかしら」
「水色の髪のほうも素敵だわ。お兄さまって感じ」
「右端の子、か~わいい~。鳥なんか肩に乗せちゃって」
ひそひそ声でしゃべっているつもりのようだが、声が大きいのでまる聞こえだ。予想だにしない島の住人の反応に、みんな、困惑顔だ。でも、褒められて悪い気はしないのが人情ってもんだ。次第に顔の筋肉が緩んできた。
「ごめんなさい、さっきは突然のことに驚いてしまって。あなたたちを歓迎しますわ」
歓迎、という言葉に、思わず耳が反応する。しかし、リュクルゴスは極めて冷静に言った。
「悪いが、俺たちは急いでいるんだ。彼を元に戻してくれないか……戻せるならば、だが……」
「ええ、もちろん」
黒髪の人魚は魚と化したギブズさんに息を吹きかけた。するとギブズさんはいとも簡単に元の姿に戻り、尻餅をついた。
「な、なんだ。なにが起きたんだ!?」
ぼくは、不思議な容姿と力を持つ彼女たちを見ながら、あることをひらめいた。
「そうだ、人魚さん。海底の神殿へ行くいい方法知らない?」
「ポセイドン神殿のこと?」
やっぱり彼女たちは神殿のことを知っているんだ。
「普通に、潜って行けばいいと思うわ」
ぼくは苦笑した。
「いや、ぼくはきみたちみたいに潜れないから……」
「そうだったわね!」
「人間って不便!」
「やだ~」
人魚たちは手を叩いてキャッキャと笑い出した。ぼくたちがすこしいらつき始めたころ、黒髪の人魚が答えた。
「いい方法があるわ。こんなところで話すのもなんだから、ついてきて!」
そう言って、潤んだ瞳で見つめられる。黒髪の人魚が指した先には、神殿の壁だけをなくしたような、白い東屋があった。そこに、何人かの人魚がくつろいでいるのが見える。
ぼくはなぜかどきどきしてきた。リュクルゴスは肩をすくめると、ぼくたちに言った。
「仕方ない。ギブズも元に戻してくれたことだし、信用してみるか」
小さくガッツポーズをしたぼくとは裏腹に、うめき声を上げたのはシーアだ。
「……あんな女だらけのところに行くのか?」
「最高じゃない!」
ぼくが言うと、シーアは複雑な表情をした。