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第六十五話 隠された神

 絶え間なく小さな山を形づくっては崩れる波が、無情にもエルフの少年をさらっていく。気を失っているのか、彼は流れに抗おうともしなかった。

 ぼくはやみくもに水面をかいた。向こうの世界では、泳ぎは得意なほうだった。だからきっと、大丈夫だ。妙な確信が、ぼくの身体を前に進ませた。足のつかない海で、服を着たまま泳いだことなどなかったが、そんなことを考えているひまはなかった。ゆったりとした白いシャツをつかんだ瞬間、ぼくは安堵の息を吐いた。

 しかし彼の存在はぼくにとって、あまりにも重すぎた。水中で持ち上げることなどできるはずもなく、袖をつかむやいなや、容赦なく水面下に引きずり込まれる。片方の腕でシーアを抱え、もう片方の腕をどれほど振り回そうとも、体が浮上することはなかった。

 口を上に向け懸命に空気を補給するが、すぐに波に飲まれてしまう。口が水面と同じ高さになると、一気に海水が侵食してきた。大量の水分と塩分が頭に染み渡り、意識と体温を奪っていく。そしてぼくたちの体は、飲み込んだ水のぶん重さを増したかのように、さらに暗黒の海へと消えていく。

 シーアの胸元に、金色の光が輝いていた。光は波に揉まれ、ぼくの心を翻弄するように揺れ動いた。

 ――お前にだけは見せるけど。

 エルフの指輪を見せてくれたときのシーアの顔が、一瞬にして脳裏を駆けた。

 一緒に来てくれたことが、その理由を話してくれたことが、ぼくは嬉しかったんだ。他人を拒絶していたシーアが、ほんのわずかにだけ見せてくれた信頼。ぼくはそれに応えるため、この手を離すわけにはいかなかった。

 ぼくたちの眼前を、大きな影が横切った。視界ははっきりしないけれど、船を襲った、あの魚であることはひと目でわかった。獲物に狙いをつけるサメのように、影はぼくたちの周りをゆっくりと回った。

 隙を見せるわけにはいかない。ぼくはシーアの身体を握る手に力を込め、まるで視線が刃となって飛んでいくとでも言うかのように、巨大魚を睨めつけた。ふしぎなほど、あたりは静かだった。まるでときが止まったかのように、ぼくと巨大魚はじっと見つめ合っていた。

 ――エンノイア。

 そのとき、身に覚えのある声が聞こえた。頭のなかに直接語りかけてくるような声、これはデューク、いや、アイオロスと同じ……。

「だれ!?」

 ぼくは声を出せることに気がつき、目を大きく見開いた。そういえば、息が苦しくなくなっている。いつの間にか大きな泡がぼくたちを包んでいて、ぼくたちの身体はゆっくりと浮上し始めていた。

 ぼくは頭のなかに響く声に意識を傾けた。デュークは、アイオロスは、この場にはいない。語りかけてくるとすれば、目の前のこの魚しかいなかった。

 ――封印を解け。運命の王よ。

 姿のはっきりしない巨大魚は、泡の向こうからさらに語りかける。「運命の王」という言葉を口にする巨大魚に、ぼくはひとつの確信を抱いた。

 ――我が名はポセイドン。

 魚は大きな尾ヒレで水をかいた。すると、揺らめく水の向こうに白い建物が見えた。ずいぶん崩れてはいるが、見覚えのある三角屋根と円柱だ。

「あれは……」

 そのとき、突然の水音が緊張を打ち破った。海鳥のように勢いよく泡のなかに飛び込んできた黒い影の正体は、デュークだった。デュークはぼくたちを守るように、魚との間に立ちはだかった。魚はデュークの姿を認めると、気を削がれたように去っていった。

 ポセイドン、それはどこかで耳にしたことのある名前だった。そしてあの建物はきっと……。

 魚の影が見えなくなると同時に、ぼくの意識も薄れていった。


 次に目を開けたとき、ぼくは固い地面の上に寝ていた。抜けるような青空が、開いたばかりの目にはまぶしい。はっとして身を起こし、周りを見渡すと、そこは船の甲板の上だった。頭がずきんと痛んで、視界が回転する。よろけたところを強引に引っ張られ、だれかに抱き留められる。

「ばかやろう、いきなり飛び込むやつがあるか!」

 そう言って、ぼくを抱き留めた腕の主は、ぼくの髪をぐしゃぐしゃとかき回した。顔を上げると、心配を前面に出したリュクルゴスがいた。

「リュクルゴス……」

「アーサーとギブズが助けてくれたんだ。あいつもな」

 リュクルゴスが指さした方向を見ると、シーアが寝かされていた。ぼくは急いで駆け寄った。

「水は飲んでないみたいだな」

 ギブズさんはそう言って、手際よく状態を調べ始めた。ぼくはその様子を、祈りながら見つめるしかなかった。しばらくして、シーアは咳き込みながら目を覚ました。

「ああ、よかった!」

 ぼくは、半身を起こしたシーアに思わず抱きついた。エルフの指輪がまだ首元にあるのを確認してほっとする。彼とエルフをつなぐ唯一の証だ。こんなところで失うわけにはいかない。

「い、一体どうしたんだ?」

 目を覚ました途端みんなに囲まれているわ、抱きつかれるわで、かなり戸惑っているようだ。シーアは目を白黒させていた。

「覚えていないかもしれないけど、さっき海に落ちたんだよ。ギブズさんたちが助けてくれたんだ」

「そうか。……悪い」

 シーアはみんなを見回し、最後にぼくを見た。

「それで、お前はなんで濡れてるんだ?」

 ぼくは決まり悪く頭を掻いた。

「いや、助けようと思ったんだけど……だめだったみたい」

 いつもそのパターンだ。ぼくは自分の無力さに、ほとほとうんざりした。

「勇敢なのはいいが、すこしは冷静になることも覚えたほうがいいぞ? でないと、守るものも守れないからな」

 リュクルゴスがからかう。シーアの口角がわずかに上がって、ふっと笑い声が漏れたような気がしたが、それがどういう種類の笑いなのかはぼくにはよくわからなかった。

「それにしても、神官さまはすげえや。こいつらが泡に包まれてプカプカ浮いてきたときには驚いたぜ。あれが魔法ってやつかぁ」

 アーサーが、いえいえ、と首を振った。

「一番の功労者はあなたですよ。わたしは泳げませんからね」

 あの泡はアーサーの魔法だったんだ。泡で浮かんできたところを、ギブズさんが泳いで助けに来てくれたらしい。ギブズさんは鼻の下をこすりながら言った。

「海のことなら任せてくだせぇ。しっかし、今回はさすがのおいらでもだめかと思いましたぜ~」

 リュクルゴスが感心しながらうなずく。

「さすがだな。でも、それより驚いたのは……」

 リュクルゴスがデュークを連れてくると、羽を濡らした彼は、嬉しそうに顔に突進してきた。頬に水しぶきがかかる。

「はは、やめろよ。冷たいだろ」

「海に飛び込む鳥なんて初めて見たよ。まったく、飼い主に似るというか。こいつもお前を助けたかったんだな」

 ぼくはただの鳥にしか見えないデュークの頭を撫でながら、さっき見た光景を反芻していた。

 ーー我が名はポセイドン。

 ポセイドンは、神の一人だ。そして、水の向こうに見えた建物。あれはきっと、テラスティアの神殿だと思った。

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