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第六十四話 予感

 鉛色の雲が空を埋め尽くす。浮いていられるのが不思議なほど、重量を感じる雲だ。暗雲は小さくちぎれたかと思うと、あちらこちらで寄り集まり、やがて何匹もの魔物の姿を形づくった。

 ぼくははっと息を呑んだ。それは、旅で幾度となく目にしたことのある魔物――ワイバーンだったからだ。

 彼らは一斉に炎を吐き、森を赤く染めていく。いや、森が赤いのは炎のせいばかりではなかった。口が耳まで裂け、いびつな形の剣を手にした魔物が、森の民を次々に凪ぎ払っていく。赤黒い液体と銀糸を思わせる髪が、森のまんなかを川となって流れていく。ぼくは悲鳴にもならない声を上げながら、ただ逃げ惑うことしかできなかった。

 地平線に沿うように現れた月は、地上の血を吸ったように赤かった。


 千年前の魔界との戦い。多くのエルフが犠牲になりながら、人々はついに魔界を抑え込むことに成功したという。

 一体、どうやって――?


「もう戻れよ。ここで寝たら風邪ひくぜ」

 シーアの声にはっと気づくと、遠のいていた波音が思い出したように耳を襲う。ぼくはいつの間にか、半分夢のなかにいたらしい。

 畳まれた帆が桁にぶつかり、寂しい音を立てる。風が出てきて、凍えるほどではないが、肌寒くなってきた。

「シーアは?」

「もうちょっと……」

 柔らかな髪が風にあおられて、ぼくとはちがう形をした耳があらわになる。寒がる様子もなく海を見つめ続ける彼の姿に、胸のなかの小さな波が揺らめいた。

「ちょっと待ってて」

 ぼくは部屋に戻ると、窓枠でうずくまっていたデュークを起こした。そして不機嫌そうな彼を肩に乗せ、再び甲板へ向かうと、それをシーアの手に押し込んだ。青紫色の瞳がまんまるくなる。

「すこしは暖かいでしょ」

 何事もなかったかのように手のなかで舟を漕ぎ始めたデュークに視線を落とすと、シーアはかすかに表情を和らげた。

 翌朝、ぼくは心地よい揺れのなかで目を覚ました。丸窓を二分する水面が、床に幻想的な光の模様をつくっている。伸び上がって上のベッドを覗くと、いつの間にかシーアが戻ってきていた。デュークと仲良く頬をくっつけ合って眠っている。やれやれ、すっかりシーアに懐いてしまったようだ。ひっそりと笑っているとまぶたがぴくりと動いたので、ぼくは急いで頭を引っ込めた。

 シーアが目を覚ましたあと、ぼくたちは甲板で朝食を摂ることにした。

 今日もいい天気だ。白い雲が軽やかに浮かび、帆はしっかりと風をはらんでいる。しかし甲板にはギブスさんたちの他には、リュクルゴスの姿しかなかった。

「アーサーは?」

「体調が悪いから休んでるってさ」

「ふうん。船酔いかな」

 そういえば、彼は昨日もあまり元気がないようだった。珍しいこともあるもんだ。

 水平線にはぽつりぽつりと島のシルエットが浮かんでいた。ギブズさんによれば、このあたりには名もないような小さな島がたくさん点在しているのだそうだ。彼は島々の形を正確に把握していて、それを参考にしながら難なく進路を定めていた。このまま順調に行けば、予定より早くアディスに着けるらしい。

 清々しい空気を胸いっぱいに吸いながら、各自思い思いの場所に座ってパンと干し肉を食べる。ワイルドな船乗りになった気分だ。

 ギブズさんは船の操縦を他の二人に任せ、釣りを楽しんでいた。

「ほーら、当たりだ!」

 しばらくして釣り竿を勢いよく引き揚げると、糸の先に十五センチほどのアジが掛かっていた。

 それから数分もしないうちに、ギブズさんは何匹も釣り上げていた。彼が漁師だったということを、今さらながら思い出した。

 細身の水夫がその一匹をさばいて、現れた白い身を焼きもせずそのまま口に運ぶ。

「生で食べるの?」

 これにはリュクルゴスもシーアも驚きの声を上げた。

「これが一番旨いんだぜ」

 彼がそう言うので、ぼくはパンに挟んで恐る恐る試してみた。意外と歯ごたえがよくて、噛むと旨味がにじみ出てくる。ほどよい脂が、パンと相性がよかった。

 おかげでぼくたちは思いがけず船上で豪華なごはんにありつけることとなった。シーアはあまりお気に召さなかったようで、細かく刻んでデュークにあげてしまったけど。


 それから小一時間ほど走った頃、舵を握っていたギブズさんが突然変な声を出した。すぐに走り出しかけて、思い出したように近くにいたシーアの手をひっつかんで舵を握らせる。

「お、お、お前、握ってろ!」

「な、なんだよいきなり」

 そして大急ぎで荷物を漁ると、望遠鏡を取り出し海の上を見た。尋常じゃない焦りようだ。

「な、なにか問題?」

「ああ、問題も問題、大問題だ!」

「ぼくにも見せてよ」

 ぼくは気になって気になって、ギブズさんにせがんだ。彼はじれったそうに、望遠鏡をぼくの手に押し込んだ。同じ方向を覗いてみるが、ただ青い海と空が広がっているだけでなにも見えない。ギブズさんはシーアから舵を取り返すと、それを大きく右に傾けた。

 船体は悲鳴のような音を立てながら、大きく旋回した。いきなり方向転換したもんだから、ぼくたちは思いきりバランスを崩した。

「一体どうしたんだ!?」

 リュクルゴスの声に、ギブズさんはこれでもかという大声で応えた。

「デッカイ魚がいるぞー!」

 船はさらに大きく動いて、ぼくたちは文字通りすっ転んだ。

「魚なんていいから、早くアディスに行ってよ!」

 しかしぼくたちの文句なんてお構いなし。結局彼はしばらく「デッカイ魚」を追い回した。


「ほんとにいたんだよ! これくらいのデッカイやつが!」

 ギブズさんは興奮ぎみに大きさを示していたが、ぼくたちは床に手をついたまま動けなくなっていた。すこし体を休めないと、さっきの魚が胃から出てきそうだ。

 ともかく、彼によると、十メートルくらいあるらしい。巨大な鳥や巨大な牛がいるくらいだから、巨大な魚もいるのかもしれない。しかし……。

「それはモンスターじゃないのか?」

 リュクルゴスも同じことを考えたようだ。

「だとしたら厄介ですね。とても食用にはならないと思いますよ。船が襲われるのがオチです」

 さっきの揺れでさすがに寝ていられなくなったのか、アーサーも甲板に出てきていた。体調が悪いと言っていたわりに、それほど顔色は悪くないようだ。

「魚にもモンスターがいるんだな。海にも月の光は当たるから当然と言えば当然か……」

「ええ。光が水に遮られるので地上の動物よりはモンスターへ変化するのに長い時間がかかるようですが」

 アーサーが説明していると、船の側面に大きな衝撃があった。

「きたか!?」

 リュクルゴスは剣を抜いて船縁に寄った。みんなは息を殺して、敵の気配を窺う。魚が跳ねるような水音が、徐々に速度を増しながら、船を取り囲む。シーアの肩に乗っていたデュークがなぜか騒ぎ始めた。

 水音は十分ほど続いた。集中力が切れかけたちょうどそのとき、大きな魚が勢いよく空中に飛び上がった。一瞬だけ姿を現したその魚は、玉虫色とでもいうのか、無限のグラデーションを身にまとっていた。日の光が、ベールのように透明な長いひれを映し出す。光沢のあるウロコの上を、水滴が玉のように転がっていく。

 そいつはぼくたちの目の高さほどまで飛び上がった。ぼくたちは見とれたまま、しばらく動けなかった。魚は重力に従って、スローモーションのように落下していく。リュクルゴスは我に帰ったように、目の前の奇妙な魚に向かって大きく剣を振り上げた。

「待て! こいつが斬るなと言ってる」

 シーアが叫びながら駆け寄った。デュークがなにかを訴えるように、鳴き声を上げている。

 リュクルゴスがシーアのほうを振り向いた瞬間、魚は激しい水音を立てて着水した。あれほどの巨体を持つ魚が、高いところから落ちたのだ。衝撃は凄まじいものだった。勢いで船が大きく揺れる。傾いだ船体が、元に戻ろうとして反対向きに強く傾く。それが再び戻ろうとして……。ぼくはとっさにマストにしがみついた。

「おーい、大丈夫か!?」

 ようやく揺れがおさまった頃、ギブズさんの声が聞こえた。魚はいなくなったようで、あたりは嘘のように静かになっていた。ぼくは船の上を見回し、異常がないことを確認した。ギブズさんたちはもちろん無事だ。それからリュクルゴスとアーサーと――。

「シーアがいない!」

 ぼくは叫んだ。

 デュークが船縁のあたりを飛び回りながら、困惑したように海を見下ろしている。最悪の予感に、目の前が真っ暗になった。ぼくは手すりに食いかからんばかりの勢いで駆け寄った。

 目を凝らして水面を見る。ゆるやかな波が、さっきの騒動の余韻で上下している。その波間に、一瞬だけシーアの手が見えた気がした。

「シーア!」

 日に焼けた手が時折現れては、また見えなくなる。

 外の海はこんなにも穏やかなのに、胸の奥では嵐のような波がうねっていた。

 周りの制止する声は、ほとんど聞こえなくなっていた。ぼくは手すりに足を掛けると、躊躇なく海に飛び込んだ。

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