第六十三話 月の下
ひととおり準備を整えて海岸に向かうと、ギブズさんと二人の男たちが船出の用意をしていた。ぼくにはなんの作業をしているのかさっぱりわからないが、船の上や下を走り回っていた。今日の漁は終わったのか、他の船には誰もいない。
「これだけの人数で操縦するのか? 大したもんだな」
リュクルゴスが言うと、ギブズさんはすきっ歯を見せながらヘヘエと笑った。
ごく簡単に設えられた桟橋から船に乗り込む。甲板に足を踏み入れた途端、ひときわ強い海風に髪をあおられた。みんなが板を踏む音が心地よく響く。高いマストにくくりつけられた帆、無数に張られたロープ、クラシカルな操舵輪。本でしか見たことのないような光景に、ぼくは胸が高鳴った。
「ボウズ、忘れ物はないか?」
「うん!」
ギブズさんの言葉に力いっぱい返事をすると、船の下から間の抜けた声が聞こえてきた。
「わたしを置いていかないでくださいよ~」
見下ろすと、白いローブを着た人物が桟橋を駆けてくる。ああ、離脱していたアーサーのことをすっかり忘れていた。
錨を上げ、もやい綱を解くと、船はゆらりと動き出した。ギブズさんは高い高いマストに軽々とよじ登り、帆桁にくくりつけられているロープをほどいた。
「ほらなにぼさっとしてる! ロープを引けえ!」
とうもろこしのひげのような髪をひとつにしばった恰幅のいい水夫が、帆の下でロープを引きながら叫ぶ。命令されるいわれはなかったが、あまりの迫力にぼくはつい「へい!」と返事をしてロープを握った。まったく、さっきからロープを引いてばっかりだ。
空にぽっかりと浮かぶ雲や、エゲアポリスの家々と同じ色をした帆が勢いよく視界を埋め尽くす。船の動きはすこしだけ速度を増し、ゆっくりと岸を離れていった。ギブズさんによれば、今日は「順風満帆」だそうだ。
しばらくすると、岸を全力で駆ける小さな人影が見えた。ひどく慌てているのが遠目にもわかる。この船を追っているようだ。まだ誰かを置き忘れているんじゃないかと心配になったが、振り返ると船の上にはリュクルゴスとアーサーとシーアがいる。さすがに他に仲間がいた覚えはない。
「ばかやろー! 俺の船を返せ!」
人影は岸からものすごい大声で叫んだ。ぼくたちは「は?」という顔で、一斉に舵を握るギブズさんを見た。
「いやあ、一度こんな大きな船を動かしてみたかったんだ。言っとくが、おいらは隣のちっこい船を指さしたつもりだったんだぜ。あんたらが勝手にこの船だと思い込んだんだろ」
そう言ってギブズさんがぺろっと舌を出したので、ぼくたちは頭を抱えた。しかし今さら岸に戻るわけにもいかず、結局そのまま共犯になることにした。
「戻ったら詫び状を送っておくよ。それより、操縦は本当に大丈夫なのか?」
リュクルゴスは苦笑しながら言った。そうだ、慣れない大きな船を操作して大丈夫なのだろうか。なによりもそれが心配だ。
「もっちろん。おいらは生粋の船乗り、大船に乗った気でいてくだせえ。ああ、ほんとに大船でしたね。ぐわっはっはっは」
一人でウケているギブズさんを見て、ぼくは甚だ不安になった。
しかしぼくたちの心配をよそに、船は風を切って順調に進んでいった。生粋の船乗りだというのは本当だったようだ。白い町並みがゆっくりと水平線に消えていく。ぼくはその光景を、ずっとずっと眺めていた。
「おーい、船室に入ってみようぜ」
岸が見えなくなり、三六〇度が海に囲まれた頃、シーアが声をかけてきた。漁船とはいえ、この大きな船にはちゃんと休憩用の部屋がある。アディスまでは二日ほどかかるそうなので、ぼくたちはそこを使うことにした。
舵の後ろにある階段を下りると、左右に部屋があった。片方をぼくとシーアが、もうひとつをリュクルゴスとアーサーが使う。ギブズさんたちは甲板にごろ寝でいいそうだ。
ぼくの身長ほどしかない小さな扉を開けると、なかには質素な二段ベッドと机が置いてあった。丸窓から揺れる水面が見える。
「うわあい!」
ぼくは思わず歓声を上げて、下段のベッドに飛び込んだ。シーツはほころびだらけ、布団は帆布をそのまま使っているんじゃないかと思うほど重くてざらついている。決して快適とは言いがたいけれど、初めての長い船旅に思いを馳せて、ぼくはわくわくした。
こうして横になると波を直に感じられる気がする。船の揺れに合わせて、ふわりふわりと体が上下する。まるで、水の上に寝ているかのようだ。
お腹のなかの赤ちゃんってこんな気分なのかなあ――リュクルゴスの子どものことを聞いたからか、そんなことを思った。
「なんだ、下がいいのか。じゃあ俺が上な」
ぼくが「ずるい!」と叫ぶのにも構わず、シーアはいそいそと上段のベッドに荷物を置き始めた。
その日の夜、ぼくはふと尿意を感じて目が覚めた。窮屈なベッドに寝ていたせいで、起き上がると体が軋む。部屋はすっかり真っ暗になっていた。デュークが丸窓の縁に器用にとまって、くちばしを羽に突っ込みながら眠っている。その窓から差し込むかすかな月の光を頼りに立ち上がり、部屋を出る。
甲板へと続く扉を開けると、ひんやりとした夜風が吹き込んできた。黒雲が星々を覆い隠し、いびつな形をした月だけが煌々と夜闇を照らしている。海には長い光の道が敷かれ、月はまるで意志を持っているかのような迫力があった。それに引き寄せられるかのように、一斉に波が引いていく音がする。ぼくはすこし怖くなって、身をすくめた。
この船にはトイレがないので、まあ、つまり、直接だ。用を足して船室に戻ろうとすると、波音に混じってかすかに歌が聞こえてくるのに気がついた。小さな子どものように高く、儚い声だ。どうやら船の前方から聞こえてくるようだ。
声のするほうへ行くと、一人の少年が月を背にして船べりに腰かけていた。月光が端正な横顔を縁取る。紫の髪は、今は銀色にしか見えなかった。彼は一切無駄な動きをすることなく、絵画のようにそこに存在していた。あまりに見事な光景に、知らずため息が出た。
「シーア……」
ぼくは声をかけようとして、ためらった。
信じられないことに、歌声は彼の口から紡ぎ出されていた。床板を軋ませて歩いてきたというのに、ぼくの存在に全く気づいていないようだ。視線は甲板でも海でもなく、どこかちがう場所を見ていた。
――きっと、彼の目にはチュートニアの大地が映っているんだ。
彼は今、はるか遠き故郷のことを想っている。そう思うと、ぼくの心はさざ波のようにざわめいた。
歌詞はぼくの知らない言葉で歌われていた。波音と混じりながら生み出される幻想的な旋律に、ぼくは立ち尽くしたまま聴き入っていた。
どれくらいそうしていたのだろう。気づいたときには、シーアと目が合っていた。
「なに見てんだ」
相変わらずのぞんざいな口ぶりだが、その表情は意外なほど柔らかい。
「いや、きれいだなと思って……」
ぼくは無意識にそう答えた。彼があからさまに怪訝な顔をしたので、慌てて言葉を足す。
「月がね」
ぼくは彼にならい、手すりに座った。体をひねり、海を見る。真っ暗な海は、すっかり空との境界線をなくしていた。波音だけが、その存在を確かなものにしている。
「うわったったっ」
「おいおい、落ちるなよ」
ずっと見ていたら、危うく暗闇に吸い込まるところだった。シーアがあきれながらぼくの首根っこをつかまえる。
「さっきの、エルフの歌?」
気を取り直して改めて尋ねると、シーアは小さくうなずいた。
「千年前、テラスティアが魔界に侵食されたとき、中心になって魔界と戦ったのはエルフたちだった。これはそのときの歌なんだ」
そう言うと、彼は再び同じメロディーを歌い始めた――ただし今度は、ぼくにもわかる言葉で。
闇が我らの森を覆い尽くす
赤い月 月よりも赤いのは
天を貫く頂に注ぐ
幾千幾万の血
儚い歌声にはふさわしくない、ぞっとするような歌詞だ。魔界との戦いは熾烈を極めたのだと、容易に想像ができた。
「でも、一体どうやって魔界を封じたの?」
「さあ、そこまでは……」
それきり、シーアはぼくの存在を忘れたかのように、再び自分の世界に入っていった。