第六十一話 対峙
シーアがしばらく一人でいたいと言うので、ぼくはリュクルゴスのところまで戻ることにした。地面をよく見ると、白い石のかけらがたくさん落ちている。きっとタレスで見た「人魚の石」だ。ただしほとんどが砕けていて、もとの形はよくわからなかった。
リュクルゴスは巨大な岩のそばに座って、干し肉を食べていた。全身をすっぽりと覆う大きな影のなかに、ぼくも並んで座る。
「弓が使えるやつが仲間に入ってラッキーだったな!」
リュクルゴスは指を立てて、わざとおどけて言った。もちろん、彼がシーアの弓の腕目当てに同行を許可したわけではないことはわかっていた。ぼくたちがチュートニアに行くことをシーアに話したのも、リュクルゴスだという。きっと彼は、シーアが一緒に来てくれるようにそれとなく促したんじゃないかな。
「ありがとうリュクルゴス」
ぼくが言うと、リュクルゴスはくつくつと含み笑いをしながら手紙を取り出した。それは、キッソスの司祭がリュクルゴスに手渡していたものだった。ぼくは手紙の内容を知らない。都からの連絡かなにかだと思っていたけど。
「キリエから届いたんだ」
そう言って、彼は手紙を読んでくれた。
そこには、キッソスの町でのシーアに関する出来事が子細に書かれていた。さらに、暴漢と戦った勇敢な少年の活躍が、まるで英雄譚のように綴られていた。少年は友人の窮地を放っておけず、背丈の倍はあろうかという大男に果敢に挑みかかり、ついには膝をついて命乞いさせたそうだ。
「俺はお前を見くびってたよ」
ぼくは赤面した。きっとキリエさんの悪ふざけだ。だいたい彼はぼくやシーアの話を聞いただけで、直接の戦闘は見ていないはずだ。
「これは大げさすぎるよ。それはともかく、シーアが大変な目に遭ってるのはほんとなんだ」
リュクルゴスは真面目な顔になった。
「ああ。冗談でなく、エルフに会えたらいいと思ってる。無事に暮らしていればいいんだが……」
もしかしたら、自分のウタイ人としての境遇と重ねているのかもしれない。彼としても、エルフのことを放っておけないのだろう。
シーアの戻りがやけに遅いので、ぼくは心配になった。やっぱり海に沈んでしまったんじゃないだろうか。ふと胸騒ぎがして、様子を見に行くと、彼は水に向けて矢を放っていた。
「な、なにしてるの?」
「見りゃわかるだろ。魚を獲ってるんだよ」
魚まで矢で射るなんて。こんなところでも狩人の血が騒ぐのか、なんて呆れているうちに、彼は器用にも二、三匹の魚を手に入れていた。
感心しつつふと視線を町へと移したとき、ぼくは違和感を覚えた。町のすぐそばに小さな島があったのだ。逆光によってつくられたシルエットのなかに、こんもりと浮かび上がっている。
「さっきはあんな島あったっけ?」
驚くべきことにその島は、ゆっくりと移動しているように見えた。ぼくが指差す方向を見て、シーアも目を丸くした。
そしてその「島」はむくりと立ち上がると、町に上陸してしまった――言葉にするとおかしなことだが、本当に文字どおりのことが起きたのだ。
ぼくたちは顔を見合わせた。
「大変だ!」
ぼくたちはリュクルゴスに知らせると、すぐさま馬に乗った。全速力で町まで駆けていく。
焦っていたぼくたちは、騎乗したまま町に飛び込んだ。謎の生物の襲来に、町には不安に満ちた空気が広がっていた。まだ入り口のあたりに被害はなかったが、石畳で綺麗に舗装された目抜き通りは人であふれ返っていた。家にこもるべきか、避難すべきか、様子を見に行くべきか。混乱した町の人たちがあっちへ行ったりこっちへ行ったりしてぶつかり合っている。
ここエゲアポリスは大きな町であるため、討伐隊の駐屯地があるようだ。町の門をくぐると、すでにそれらしき格好をした男たちが町に繰り出し、大きな声を上げながら住民を誘導していた。
「人が多くて馬を進められないな。それにどうやって港のほうに向かえばいいのか……うわっ」
小さな女の子とぶつかりそうになって、リュクルゴスは慌てて手綱を引いた。馬のいななく声に、みんなが振り返る。
「こらこら、勝手に町に入るんじゃな……」
口を開きかけた兵士はリュクルゴスを見るなり、目を輝かせた。
「リュクルゴス隊長!」
あたりにいた兵士たちは一斉に歓声を上げた。隊長はゾアに変わってしまったけど、彼への信頼はいまだ厚いようだ。リュクルゴスは馬上から声をかけた。
「何事だ?」
「我々にもわかりません。急に島が近づいてきたと思ったら、港に上陸してきたのです」
兵士の一人が、ぼくが見たままの光景を説明した。
「とにかく港へ案内してくれ」
討伐隊のみんなはすぐに道をあけ、一人の兵士がぼくたちを先導した。家々で直線的に区切られた道を駆けて、町の深部へと入っていく。
一歩踏み入れただけで、都に匹敵するほどの大きな町であることがわかる。この国特有のまっ白な壁に、鮮やかな水色の雨戸が取りつけられた家々が整然と並んでいる。それに薄ピンクの石畳が加わり、美しい三色のコントラストをなしていた。それからこの町は漁が盛んなのか、あちこちに魚が吊るされていた。きっとタレスの魚もここから運ばれていたのだろう。
「あれ、すごい……」
ぼくは周囲の家々より明らかに頭ひとつ抜けて高い建物に目を奪われた。まぶしいほどにまっ白な、円筒形の塔。五十メートルはあるだろうか。この国に来てから、初めて見る高さだった。
「鐘楼だ。恐らくアイオリアでは一番高い建物だな」
隣を走っていたリュクルゴスが言った。
次第に潮の臭いが濃くなってくる。それと同時に地響きが聞こえてきて、音がするたび、馬が左右に揺れた。ぼくは嫌な予感がした。
連なる建物群が途切れたとき、ようやく海が現れた。三日月形の港に抱かれるように、何隻もの大きな帆船が停泊し、それに沿うようにたくさんの建物が立ち並んでいる。
港で暴れていたのは、文字通り「島」だった。まるで絵に描いたようなドーム型をしていて、全体を覆うように下草が生えている。てっぺんには三本の木が生えていた。帆船やあたりの建物を踏み潰しながら、それは歩いていた。
しばらく観察していると、島の片側が思いきり持ち上がった。そして再び着地したとき、凄まじい衝撃が地面を揺らし、ぼくたちは馬から放り出された。
一瞬だけ島の裏側が見えて、ぼくは事態を把握した。こいつは島を背負った巨大な――亀だったのだ。地面部分の下に亀の顔と、四本の足が申し訳程度に覗いている。こいつは甲羅の代わりに、島を背負っていたのだ。
討伐隊のみんなは亀に群がり首に剣を突き立てたりしていたが、象のような色をした皮膚は分厚いらしく、あまり効果はないようだった。神官たちも炎の魔法などを浴びせていたが、こちらもあまり意味がないようだ。
さっきの衝撃で、何人かが海に落ちたらしい。周りの兵士たちは浮くものを投げたり、ボートで助けに行ったりしていた。重そうな足の下には倒れて動かない人もいて、ぼくはぞっとした。
「あれも魔物!?」
「そのようだな。昼間の襲撃が、ずいぶんと増えたもんだ……」
リュクルゴスは長い剣を抜き、亀に向かっていった。それに続こうとすると、突然デュークが騒ぎ出した。
「なんだよ、この忙しいときに」
彼が袖を引っ張る方向を振り向き、ぼくは我が目を疑った。白い町並みのなかに浮かびあがる影。まるで墨を落としたかのように、一軒の建物の屋上に漆黒のローブを着た男が立っていたのだ。爽やかな港町に似つかわしくない重そうなローブを海風にはためかせながら、こちらを見ている。
忘れもしない姿だった。彼は――。
「バイバルスだ!」
ぼくが叫んだ声は、戦闘の声にかき消された。
またあいつの仕業だったんだ。ルイーズをさらい、ヒエラポリスの司祭を殺害した男。タレスのレイス騒動も、この亀も、彼の仕業かもしれない。胸の奥底から苦いものがこみ上げてくる。
ぼくはリュクルゴスに知らせようと思った。しかし彼は亀と戦っていて、それどころではない。いつの間にか、シーアともはぐれていた。
このままでは、やつに逃げられてしまう。考える間もなく、足が動いていた。
ぼくはいくつかの建物の脇に屋上へと登る階段があることに気がついた。よく見れば、建物と建物は平らな屋上でつながり合っているようだ。すぐそばにある商店の階段を駆け上がる。
五軒ほど先の建物に、バイバルスは立っていた。久しぶりに目にした姿に、心臓がひやりとする。彼はぼくが屋上に立つやいなや、別の建物へと走り出した。
「逃がすもんか!」
黒いローブ姿の影がまっ白な建物の上を跳ねるように走り回る。しばらく追いかけたところで建物が途切れ、ぼくはしめたと思った。ぐんぐん距離を縮めていく。そして、ついにバイバルスと同じ建物にたどり着いた。目の前には、さっき見かけた高い塔の壁が迫っていた。ぼくは剣を構えながら、やつに近づいていった。
「バイバルス、ルイーズはどこだ!」
ぼくが叫ぶと、バイバルスはゆっくりと振り向いた。相変わらずフードを目深にかぶっていて、皮肉っぽい笑みを浮かべた口元だけが覗いている。
「安心しろ、陛下はずっと安全な場所で眠っている。ずっと、ずっとな……」
「ど、どういう意味?」
妙な言い方に、ぼくは鳥肌が立った。バイバルスはぼくの言葉には答えず、フフンと笑う。そして、彼が手を上げたと思った瞬間、足元の床が音を立てて崩れた。
「う、そ……」
声を出す間もなく、ぼくの体はストンと建物のなかに落ちていった。
「いたっ」
お尻が潰れるんじゃないかというほど激しく叩きつけられる。震える視界が落ち着いてくると、部屋の様子がわかってきた。木でできたタンスに、机に、ベッド。どこにでもあるような家のなかに、上半身が裸の若い男と、彼よりは明らかに年のいってそうな女の人が立っている。
ぼくは瞠目した。まったく、外には魔物もバイバルスもいるってのになにやってるんだ。ぼくもびっくりしていたが、向こうも相当びっくりしたようだ。
「き、きみの子か!?」
「いやあね、違うわよ!」
二人は大騒ぎしていたが、ぼくはそれどころではなかった。慌てる二人を押しのけて外へ飛び出す。バイバルスを逃してたまるもんか!
黒いローブ姿は、まだ屋根の上にあった。ぼくの姿をちらりと確認すると、彼は躊躇なく塔の壁に向かってジャンプした。
「な、なにを……」
ぼくが驚いている間に、やつは明かり取りの窓から塔内部のらせん階段に着地する。呆れるほど身軽なやつだ。
ぼくは目の前の塔に入り、すぐさま後を追った。どうやらバイバルスは上に向かったようだ。
目が回るほど登ったところで、ようやく階段は途切れた。足をふらつかせながら外に顔を出すと、強い風に髪があおられる。風に押されるように一歩を踏み出したぼくは、周りの光景を見てひやりとした。てっぺんには壁がなかった。屋根を支える四本の柱のすき間から、町並みが箱庭のように小さく見えた。
まん中には大きな鐘が吊るされていて、その向こう側にローブ姿が見えた。ついにやつには逃げ場がなくなったのだ。
バイバルスは一切たじろぐ様子がなかった。考えてみれば、ぼくが落ちている間に逃げればよかったのだ。わざわざてっぺんに登るあたり、やつは本気でぼくから逃れる気などなかったのだろう。
柱のすき間を通り抜ける風の音だけがする。
港からずいぶん離れてしまった。そばにはリュクルゴスもシーアもいない。誰もここまで助けに来ることはできない。突然一人きりでバイバルスと対峙していることに気づき、足が震え出した。
「……ルイーズを返せ!」
震える声で叫びながら、剣を構える。鐘を回りこむようにして、ぼくはゆっくりとバイバルスに近づいていった。
バイバルスはぼくのことなど意に介する様子もなく背を向け、懐から石を取り出した。港の方向から、いくつもの白い光が飛んできて石に吸い込まれていく。ぼくは王宮で同じ光景を目にしたのを思い出した。あのとき、炎に包まれ炭と化してしまった兵士たちから抜け出た魂が、バイバルスの手のなかに吸い込まれていった。
あのお方がもっと多くの魂を集めよ、と仰るのでね――バイバルスは以前そう語っていた。やつはこうして町に魔物を放っては、死者の魂を回収しているのだろうか。
尊い命が、簡単にバイバルスの手のなかにおさまっていく。やつはそれを淡々と受け止めていた。
「みんなの命を返せ……!」
ここでやつが魂を回収するのを阻止したって、死んだ人たちが戻ってくるわけじゃない。それでも、やつに魂を持っていかれるのは我慢ならなかった。ぼくは無我夢中で彼の背中に剣を振り下ろした。激しい衝撃が起こり刃を跳ね返す。ぼくは剣ごと弾き飛ばされ、鐘に激突した。かすかに揺れる鐘の音が、頭にぐわんぐわんと響く。
「負ける、もんかあ……!」
痛む体を無理やり起こし、今度は助走をつけて斬りかかる。
しかし今度も見えないバリアに弾き返された。ぼくの体は高く跳ね上げられ、視界がめちゃくちゃになった。気づいたときには眼下に四角い家々の屋根が広がっていた。
「あ……」
全身をぞわりと嫌なものが駆け抜けていく。景色はあまりにも速く移ろっていった。ぼくは塔から放り出され、箱庭のような景色のなかに勢いよく吸い込まれていった。あそこにぶつかったら痛いだろうか、ぼくは漠然とそんなことを考えていた。
しかし突然、現実に引き戻されるかのように体が強く引っ張られた。いつの間にかぼくの腰には、幾重にも黒い糸が巻きついていたのだ。ぼくはそのまま引き上げられ、乱暴に塔のてっぺんへと戻された。
白い床に投げ出される。驚きと恐怖で立ち上がれないまま這いつくばっていると、ローブの下の黒い靴がぼくの手を踏みつぶした。指先がじんと痺れ、感覚がなくなる。苦悶の声を上げるぼくを、バイバルスは無表情で見下ろしていた。
「わたしに勝てると思っているのか? この世界はいずれ魔界が支配する。全てわたしに任せていればいい」
バイバルスは低い声で言った。圧倒的な威圧感に、ぼくは動くことができなかった。
――やっぱり、だめだ。ぼくは、やつにかなわないんだ。
そのとき、鋭い軌跡がぼくのそばを横切った。気づけば、バイバルスの胸に矢が刺さっていた。ローブの下から滴り落ちた血が、ぼくの手を伝う。
「くそ……この距離で射るとは……」
バイバルスは胸を押さえながら、ふらりと後ずさりした。そして彼は――そのままふちから落ちてしまった。
「ま、待て!」
ぼくは無意識に立ち上がり、駆け出していた。痺れた手をつき出し、バイバルスをつかもうとする。
――ルイーズを返してもらうまでは、死なせるわけにはいかない。簡単に死なせてたまるもんか。
しかし、虚しくも漆黒のローブはぼくの手をすり抜けていった。ローブをはためかせながら、あっという間に小さくなっていくバイバルスの姿に、ぼくは目を覆うことしかできなかった。
しかし、いつまで経ってもぼくが予想したような音は聞こえない。その代わり、なぜか羽音が聞こえてきた。目を開けると、ワイバーンに乗るバイバルスの姿があった。
そうだ、やつは魔物を呼び出すことができたんだ。ルイーズをさらったときにも使った手段だった。下からワイバーンめがけて矢が飛んでくるが、全てバリアのようなものに弾き返されてしまった。
「エンノイア!」
しばらく呆然と立ち尽くしていると、シーアが息を切らしながら階段を上がってきた。
「あいつがバイバルスとかいうやつか!? どうして一人で行ったんだよ!」
シーアが非難を込めた口調で言う。バイバルスの胸に刺さった矢――あれはシーアが助けてくれたんだ。ぼくは宙を見つめたまま、ごめん、と言った。
シーアに感謝しつつも、ぼくは別のことを考えていた。なぜバイバルスは、ぼくを助けたのだろう。本当に殺す気なら、塔から落とせばよかったのに。
まだ絡みついたままの黒い糸をほどきながら、ずっとそのことが頭から離れなかった。やつを取り逃がしたことに気がついたのは、ずいぶんあとのことだった。