第六十話 波音
シーアはぼくたちに魚料理を振る舞ってくれたあとも、頻繁に町に出入りしては獲物を売ったり旅支度をしたりしているようだった。別れが近づいていると思うと、ぼくは切なくなった。
リュクルゴスとアーサーがこの一件を都に報告したようで、事態の整理のため近隣の町から神殿関係者が来ることになった。この町に滞在し始めて十日ほど経ったころ、数人の神官を引き連れて神殿にやって来たおじいさんの顔を見て、ぼくは嬉しくなった。
「キッソスの司祭さん!」
「お久しぶりです。お元気ですか?」
彼はタレスの前に立ち寄った町、キッソスの司祭だ。ぼくたちの手当てをして、シーアの境遇に心から同情してくれた人だ。
シーアもここにいればよかったのに。きっと彼も司祭に会ったら喜んだだろう。
司祭は早速人払い――ぼくとアーサーは部屋に残されたが――をして、リュクルゴスと話し始めた。
「このたびはお疲れさまでした。まさかタレスがこんな事態になっていようとは。これほど近くにいながらお役に立てず、本当に申し訳なく……」
「いやそれはもういいんだ。それより、都のことを教えてくれないか。この一件で、長いこと討伐隊と連絡が取れていない」
謝罪と後悔の言葉を口にする司祭に、リュクルゴスは促した。それを聞いた司祭はすぐに謝るのをやめ、初めからわかっていたかのように手際よくメモを取り出した。その様子に、リュクルゴスは苦笑した。
キッソスの司祭は優しい人物でもあるけど、執政官の動向を探っていたり、シーアの素性を見抜いていたりと、食えない人物でもあるようだ。
以前キッソスで彼と話したときもなにか深刻な事態のようだったけれど、今回もまた、司祭は厳しい表情で言った。
「副隊長が新しい討伐隊長として任命されたそうです」
彼が口にした言葉に、ぼくたちは絶句した。リュクルゴスは隊長をやめるとは言ったものの、ルイーズを助けたのちは再び隊長の地位に戻るつもりだったはずだ。しかし、新しい隊長が立つとなれば、彼の立場はどうなるのだろう?
副隊長といえば、あのちょっとおしゃべりで、ぼくにいろんなことを教えてくれたゾアだ。彼はリュクルゴスのことをとても慕っているようだった――少なくともぼくにはそう見えた。リュクルゴスが戻ったら、彼は快くその地位を譲るのだろうか。ぼくはかすかな不安を覚えた。
リュクルゴスは眉根を寄せ、目を閉じた。
「……ずっと隊長不在のままでは討伐隊も具合が悪かろう。それより……」
リュクルゴスは別のことを気にしているようだった。司祭はそれを察しているようで、言葉を引き継いだ。
「はい。執政官と議会が決定したのです」
それきり、二人は黙り込んでしまった。
「それが、なにか問題?」
待ちきれずぼくが尋ねると、リュクルゴスは疲れたような顔で笑った。
「軍の役職の任命には王の承認が不可欠なんだ」
その王が不在。それなのに……。
「勝手に決めた、ってこと?」
リュクルゴスと司祭は深刻な顔でうなずいた。それは、なにを意味するのだろう?
「頼むぞゾア……」
リュクルゴスは、祈るように言った。
出発の朝、小部屋で旅の支度をしていると、シーアが訪ねてきた。もしかしたら見送りに来てくれたのかもしれない。そう思うと、ぼくは胸が締めつけられるような気がした。
「ごめん、シーア。もう出発なんだ」
シーアはぼくの言葉には応えず、荷袋に食糧を詰めていたリュクルゴスをじっと見据えて言った。
「俺にも王サマの救出を手伝わせてほしい。弓なら役に立てるぜ」
ぼくは耳を疑った。あんなに一緒に来るのを拒んでいたのに、急にどうしたというのだろう。
リュクルゴスは一瞬手の動きを止めて、面食らったようにシーアを見たが、すぐに優しい笑みを浮かべた。
「ああ、もちろん大歓迎だ。心強いな。アーサーはどう思う?」
「エンノイアくんの友だちならわたしの友だちも同然ですよ!」
アーサーと友だちになりたいかどうかはともかく、二人が快く受け入れてくれたので、ぼくはほっとした。それから、急な話で実感がなかったけれど、じわじわと嬉しさがこみ上げてきた。あんなに心を閉ざしていたシーアが、ついに一緒に来てくれるんだ!
「でも、どうして急に?」
「面白そうだからな」
喜ぶぼくとは裏腹に、シーアはそっけなく答えた。「面白そう」だなんて、あまりにも彼らしくない理由だ。せっかく仲良くなれたのに、また彼との間に溝ができたような気がした。
その日、ぼくたちは早朝のうちに町を発った。リュクルゴスとぼくとシーアで町の門をくぐる。アーサーは死者を弔うのを手伝うため、もうすこし町に残るそうだ。
キッソスから乗ってきた馬は、司祭の好意でずっと貸してもらえることになった。一人で馬に乗れないぼくは、またシーアの後ろに乗せてもらう。
心なしか、初めこの国に来たときよりも気温が上がってきている気がする。それにこのあたりはすこし乾燥しているようで、都の周りなどと比べると草木が少ない。汗はかかないけれど、むき出しの地面からの照り返しが余計に暑く感じさせた。
ぼくは上に着ているチュニックを脱いで、シャツの袖をまくった。シーアは革の上着を脱いでいた。黒いベストの下には袖がゆったりとした上品なシャツを着ていて、まるでどこかの国の王子さまのようだ。
シーアの首に、金属のチェーンが光っているのが見えた。以前はつけていなかったから、この前買っていたものだろうか。
太陽がちょうど真上に差しかかったころ、ごつごつとした山並みを過ぎると、あっという間に視界が開けてきた。
「海だ!」
ぼくは馬上から歓声を上げた。まるで地平線の上に青いラインを重ねたかのように、細長い海が広がっている。それはみるみる近づいてきて、厚みを増していく。まだ幾分か距離があるにもかかわらず、反射する光が眩しすぎるくらいだった。
「あれが港町だ」
海へと近づきながら、リュクルゴスが海岸線に沿って数キロ先に広がる建物群を指差す。かなり大きな町のようだ。広い範囲に渡って、大小の四角いシルエットが立ち並んでいる。逆光で真っ黒にしか見えないが、海に面したところでは帆船のような影が行き来するのが見えた。
「このまま海岸に沿って走っていけば町に着くが……その前に、海を見てみたいだろ?」
リュクルゴスの言葉に、ぼくは大きくうなずいた。シーアも異論はないようで、町を見ていた馬の首を海のほうへと向けた。ぼくたちは町へ行く前に、海を目指すことにした。
ゆるやかな傾斜を下ると、すぐに砂浜が見えてきた。軽く湾曲しながら、見渡す限りどこまでも続いている。強い向かい風が吹きつけてきて、つんとした潮の香りを運んできた。
「ねえ、波打ち際まで行ってもいい?」
「溺れるなよ。俺は岩の陰で休んでるよ」
砂浜には人間よりも大きな岩がいくつも転がっている。リュクルゴスは馬を引きながら、そのひとつに向かっていった。
ぼくは馬から飛び下り、砂に足を取られそうになりながら、海に向けて走った。背後に気配を感じて振り返ると、シーアも走ってきていた。ぼくと目が合うと、ちょっと照れくさそうにしながら、薄く笑ったように見えた。
波音が急激に音量を増してくる。遠目には凪いでいるように見えたのに、近くに寄ると意外と波があることに気がついた。小さな山をつくりながら押し寄せる水が、砂にぶつかっては砕けている。
ブーツを脱ぎ捨て、裸足で海に浸かった。ひんやりとした白い泡が、火照った足をさらっていく。塩分が溶け込んでいるとは思えないほど、なめらかで、透明な水だ。
――これが、この世界の海なんだ。
ぼくは、嬉しいような切ないような不思議な気持ちがこみ上げてきた。ぼくが知っている海と、なにも変わりはしない。この海の先には次の宝玉が眠る地、アディスがある。その先には、まだぼくが知らない別の国が広がっているのだろう。
そしてその先には……ぼくの国があるのだろうか。向こうの世界とつながっているのだろうか。ふとそんなことを思った。
――帰っておいで。
水平線の彼方を見つめていると、母さんの声が聞こえてくる気がした。
横を見ると、シーアがブーツのまま海に入っていた。呆然と水平線を眺めながら、なにかに導かれるように深いほうへと歩みを進めていく。彼の故郷もまた、この海の向こうにあるのだ。
「シーア……」
ぼくは、なぜか彼がそのまま海に沈んでしまう気がして、彼の背に声をかけた。
シーアは立ち止まり、ゆっくりとぼくを振り返った。海風が長い髪をもてあそぶ。それをうっとうしそうに払いのけて、彼は首にかけていたチェーンを引っぱりだした。
「お前にだけは見せるけど……」
チェーンの先には指輪が通されていた。促されるまま、それを覗き込む。たぶん男性用の、大きな指輪だ。表面に精緻な組み紐模様が彫られていた。ぼくは、その模様に見覚えがあった。
「これ、シーアがくれた短剣と同じ」
パーンの森で出会ったときからシーアが握りしめていた短剣。あれにも、同じ組み紐模様が彫られていたのだ。
シーアはうなずく代わりに、長いまつ毛を伏せた。
「チュートニアに面する海岸に流れ着いていたらしい。……これはエルフが自分たちのものに彫る模様だ」
ぼくははっとした。シーアの村が襲われた年、チュートニアは飢饉に見舞われていたらしい。キリエさんは、自分の村も襲われるのではないかと恐怖を感じてアイオリアに逃げ出したという。そして、エルフたちが今どうなっているのか、彼にもわからないと言っていた。しかしこんなものが流れ着くということは、彼らが今でもチュートニアで生活しているということを意味している。
「リュクルゴスに聞いたけど、お前たち、チュートニアに行くらしいな」
ぼくはうなずいた。
これから行くアディスにはひとつの宝玉が、そしてチュートニアには二つの宝玉がある。だからぼくたちはいずれ、チュートニアへ足を踏み入れることになる。
チュートニアはアイオリアと国交がなく、簡単に行き来することができないため、シーアは昔、アディス経由でアイオリアに逃れてきたのだという。今回は、その道をさかのぼることになる。
エルフに出会えるとは限らない。それでも、宝玉を探すぼくたちについていけばもしかしたら――それが、彼が突然旅への同行を決意した理由だ。
シーアは、それらのことを、ぽつり、ぽつりと語ってくれた。
「身勝手だと思うか?」
「まさか」
ぼくは首をぶんぶんと振った。ぼくは、彼が自分から理由を話してくれたことが嬉しかった。
「もう、忘れたと思っていた。だけど、確かめたくなったんだ。自分が、何者なのか」
シーアは、波音にかき消されそうな声で言った。