第五話 闇からの襲来 part 1
目の前にスープと一切れのパンが置かれている。スープの入った皿を両手で持つと、じんわりと温かさが伝わってきた。小さく刻まれたキノコが浮いただけの質素なものだが、それでも今のぼくにはごちそうにちがいなかった。
焚き火の爆ぜる音が心地いい。ぼくの頭には、夏休みのキャンプで焚いたキャンプファイアーのことが浮かんでいた。
――もっとも、あのときのキャンプファイアーはもっとずっとにぎやかだったけれど。
今は肩の上でうつらうつらしているデュークを除けば、隣に少年が一人座っているだけだ。
彼の横顔は彫刻のように美しく、非現実的にさえ感じられた。長い睫毛が頬に深い影を落とし、両肩に落ちたシルバーブロンドの髪は焚き火のゆらめきを映し出していた。
彼の名はシーア・ユークリッド。
各地の森を転々としては動物を狩り、そこから得た骨や皮を街で売りながら暮らしているらしい。
まだ高校生くらいの年齢だというのに、なぜそんな暮らしをしているのか。気になったが、そこまでは聞くことができなかった。
もしかしたらこの国では普通のことなのかもしれないけど。
なぜ彼と一緒にご飯を食べているのかといえば、話はぼくがコウモリに襲われているのを彼に助けてもらったところまでさかのぼる。
助けてもらったあと、彼が照れ隠しに言い訳していたのがおかしかったのと、緊張が一気にゆるんだのもあって、ぼくは笑いが止まらなかった。
「何がおかしいんだよ!」とか、「笑うのをやめないと怒るぞ!」とか、なにやらわめいていたシーアだったが、突然、笑っているぼくに両手で抱えるほどの大きなカゴを投げつけてきた。
「わっ。いきなり何するんだよ!」
「薪集めてこい」
「は? 薪?」
「仕事、手伝うって言ったろ?」
全くわけがわからない。確かに仕事を手伝うとは言ったものの、それは都に連れていってもらう交換条件として言ったんだ。あ、あれ? ということは……。
ぼくははっとした。見れば、シーアは照れくさそうにしていた。
「一緒に行っていいの!?」
「まあ、この際しょうがないだろ」
なにがしょうがないのかよくわからないが、とにかく連れていってもらえることになったようだ。
「さっさと薪集めてこいよ!」
そんなわけで、ぼくは彼と都に行くことになったのだった。
そしてなんとこのスープ、彼がつくってくれたのだ。
シーアは荷物の袋からいそいそと鍋を取り出すと、ぼくが集めてきた薪を使って焚き火を起こし、あっという間にスープをつくってしまった。
これが、すごくおいしい。きっといつも森で生活しているから、こういうことに慣れているんだろうな。温かさが全身に染み渡るのを感じると、なんだか元気が湧いてきて、ぼくはこの銀髪の少年ともっと話してみたくなった。しかし「おいしいよ」と表情でアピールしてみせても、シーアはこちらを見向きもせずに黙々とパンを口に運ぶだけだった。
「ピピッ」
ぼくの肩の上で眠りかけていたデュークが目を覚まし、シーアのほうへ飛んで行った。
「お、お前も食うか?」
シーアはデュークに気づくと、手元のパンを細かくちぎり、デュークに食べさせ始めた。満面の笑みを浮かべてすごく楽しそうな様子だ。
彼が笑うのを初めて見た気がする。そういえば彼は初めて会ったとき、デュークのことを「かわいい」と言っていたしな。
「動物が好きなんだね」
ぼくが言うと、シーアはぼくがその場にいることを忘れていたかのように驚いた。
「ま、まあな」
かなり決まりが悪そうだ。そして彼はふと表情を曇らせると、なにかを思いつめるように、自分の思考のなかに入ってしまった。そして聞こえるか、聞こえないかくらいの声でつぶやいた。
「動物は裏切らないからな……」
「え……?」
人生の悲しみを全て詰め込んだかのような声の調子に、胸を掴まれるような思いがした。その言葉の意味はわからなかったが、シーアはそれ以上なにも語ることなく、食べ終わった皿を片づけ始めた。
「さて。明日も歩くし、そろそろ寝るか」
シーアは荷物の袋から薄い布を二枚取り出すと、それを地べたに布団のように敷いた。促されるまま、そのなかに潜り込む。
「あれ、シーアは寝ないの?」
てっきりもう一組布を出すのかと思ったら、シーアは木にもたれて座ったままだ。
「俺は火の見張りだから」
そうか。ここにはあの変な怪物がいるから火を絶やしてはいけないんだ。
というか、それをシーア一人に任せていいんだろうか?
「ぼくも交代で見張ろうか?」
ぼくが彼に申し出ると、彼はあからさまに呆れた顔をした。
「当ったり前だ。四時間したら起こすからな。さっさと寝ろ」
シーアは初めからそのつもりだったらしい。
しかし、ぼくはなかなか眠ることができなかった。寝ている地面が固すぎるせいもあるが、いろんな考えが絶え間なく頭をよぎって落ち着かなかったからだ。
――母さんはどうしているだろう。結局夜も帰らなかったことになる。きっと心配しているだろうな……。
――明日の学校はどうなるんだろう。今まで無断で休んだことなんてないのに……。
――そうだ、今日は見たい番組があったんだっけ。母さん録画してくれているかな。
どうでもいいことまでもが頭に浮かんできて、眠れない。
ふとシーアのほうを見ると、彼は木にもたれかかったまま顔を伏せていた。ぼくが声をかけると、すぐに伏せていた顔を起こす。眠っていたわけではないらしい。
どうにも考えがまとまらないので、彼に話しかけてみることにした。
「シーア、プネウマの鏡……って知ってる?」
意外にもすぐに返答がきた。
「ああ、聞いたことあるな。確か魔界と通じてるっていう……」
ぼくは驚いて、思わず布団からはね起きた。
「ちょ、ちょっと待って。魔界?」
シーアは自分が発した言葉に対して、べつに驚いてはいない。むしろ当然と言わんばかりにうなずいた。
「そんなものが存在するっていうの……?」
「さあな。でも、魔物は魔界から来るらしいぜ」
彼の口から、今度は「魔物」という言葉が飛び出した。
「この世には『モンスター』と『魔物』の二種類がいるのはお前も知ってるだろ?」
ぼくは呆然としたまま、首を振った。シーアは大きく溜め息をつくと、説明を始めた。
「モンスターっていうのは、長い間月の光を浴び続けた動植物が変化したものだ。俺がさっき捕まえようとしていた、三本角のアイツなんかがそうだ。トリプスっつう雑草のモンスターだな。多少凶暴だが、奴らの縄張りを侵さない限り普通襲われることはない」
ぼくの沈黙を理解したものと判断して、シーアは続ける。
「対して魔物ってえのは、魔界から来る、と言われている生き物で、知能が高く、町や村を襲うこともある。大抵は夜にしか出ないな」
ぼくは目を見開いたまま、固まっていた。モンスターに、魔界に、魔物だって? 非現実的にもほどがある。ふとした疑念が、ぼくに妙な質問をさせた。
「シーア……、イギリスっていう国を聞いたことは?」
ぼくはほとんど無意識に聞いていた。シーアは、なぜ突然、とでも言いたげな顔をしながら、しばらく首をひねった。
「そんな国は知らないな」
心臓の鼓動が早鐘のように胸を打つ。自然と息が上がってくるのがわかる。
「フランスは? 日本は? アメリカは?」
シーアは首を傾げるばかりだ。沈黙に耐えきれずに、ぼくは声を荒げた。
「答えてよ!」
「一体どうしたんだ?」
思わずムキになって尋ねるぼくに、シーアは困惑といらだちの入り交じった顔をした。そして、ふっと短い息を吐きながら答えた。
「悪いけど、知らねーな」
彼にふざけている様子はない。これらの国を知らない人など、今の世界にいるだろうか。ありえない可能性が、頭の奥を駆け巡る。
なんと聞けば、確信が得られるのだろう。いや、ぼくはなにに対する確信を得ようとしているんだろうか。それすらも、よくわからないまま。
「シーア……、ここは本当に地球なの……?」
震えるぼくの口から出たのは、そんなばかげた質問だった。
「なんだそりゃ。アイオリアはアイオリアだ」
シーアは一蹴した。
じゃあこの国は一体なんなのだろう。あの光に包まれた瞬間、ぼくは一体どこに飛ばされてしまったのだろう?
聞いたことのない国名、ぼくの知っている世界には存在しない異形の怪物たち、そして魔界。ぼくにはなんの実感も湧かなかった。こんな森の奥深くに住んでいるくらいだ、ひょっとしたら彼の頭がすこしおかしいだけなのかもしれない。そう思いたかった。
混乱した頭のままで眠れるわけないと思っていたが、さすがに精神的な疲れもあってか、シーアと話を終えるころには眠りに落ちていた。
もっとも、四時間後にはきっちり叩き起こされたけど。
見張りを交代し、あとは明るくなっていく空を眺めながら、朝までぼんやりと過ごした。
「私たち二人きりで暮らすことにしたの。エンノイア、あんたが邪魔なのよ」
母さんがロバートとどこかへ行ってしまう。
――嫌だ。ぼくを置いていかないで!
「母さん!」
叫びながら、母さんの背中を必死で掴む。
「母さん、行かないで!」
――やった、掴まえた……!
「だれが母さんだ」
掴まえたのは母さんではなかった。
寝ぼけ眼をこすりながらよく見ると、それは呆れ顔をしたシーアだった。ぼくは間違って、シーアの上着を掴んでいたらしい。
なーんだ、夢か。てっきり母さんが、ぼくをおいてロバートとどこかへ行ってしまうのかと思った。
文句を言いながらぼくの手を振りほどいたシーアはとっくに起きて、てきぱきと朝ごはんの支度をしていた。
あれ? そういえばぼくが見張りをしていたと思うんだけど。
ぼくはいつの間にか木にもたれかかったまま眠っていたようだ。そしてこれまたいつの間にかぼくの上には、布団代わりの布が掛けられていた。
近くに川があるそうなので、顔を洗いに向かう。シーアに言われた方向に歩いていくと、果たして川はあった。
爽やかな風が木々の葉をくすぐり、川面がきらきらと光を反射する。夢のように綺麗な光景にぼくは溜め息をついた。
――こちらは夢ではなかった。目が覚めても、ぼくはこのふしぎな世界に置き去りにされたままだった。
人工物の気配のない川は透き通っていて、覗き込むと鏡のようだった。ひんやりとした水に手を入れると、鏡は壊れていった。
ぼくははっとした。昨日のシーアの話によれば、少なくとも「プネウマの鏡」というものは実在するらしい。それを割れば、なにかが変わるのかもしれない。ここがなんであっても、今のぼくにできることはそれしかないんだ。
今は進むことだけを考えよう。プネウマの鏡だけが、この国とぼくの世界を繋ぐ唯一の鍵のように思われた。
「それで、あとどのくらいかかりそうなの?」
昨日の残りのスープを食べた後、ぼくたちは早々に出発した。
「三日ってとこかな……」
「三日!? もうちょっと早く行けないの?」
三日も留守にするなんて。喧嘩して飛び出してきたとはいえ、いくらなんでも母さんが心配する。下手すると捜索願いなんか出されちゃうかもしれない!
「無茶いうなよ。馬でも一日かかる距離なんだから」
馬を基準に言われてもよくわからなかったが、とにかく遠いということらしい。
だしぬけに、森のなかから葉をこする音がした。シーアの顔に、明らかな緊張が走る。
ガサッガサッガサッガサッ。
姿は見えないが、木から木へ、飛び移っている気配がする。
三本角の「トリプス」ではなさそうだ。もっと身軽なやつだ。
一瞬昨晩のコウモリたちが頭に浮かぶが、少なくともあのような大群ではないだろう。
「シーア……」
「しっ。黙ってろ」
シーアは弓を構えていた。
そうしてソイツがぼくらの横を通りすぎた気配がしたとき、シーアが矢を放った。放たれた矢はまっすぐ飛んでいき、木々のなかに吸い込まれていったかと思うと、黒い物体を伴って落ちてきた。
シーアと共に、その物体に駆け寄る。
よく見ると、それは小さなドラゴンだった。
いや、実際のところ、ドラゴンなんて見たことがないけど、それは、物語なんかでよく見るドラゴンにそっくりだった。
ただし、すごく小さい。それから、足と翼は持っているが、手はないようだった。
「コイツは魔物だな……」
ドラゴンのような姿をした小さな生き物を見て、シーアが呟く。
ぼくは昨日の説明を思い出していた。魔物とは、魔界から来る、と言われている生き物で、知能が高く、町や村を襲うこともあるという。
しかし、確かシーアは魔物は夜にしか出ないと言っていたはずだが……。
ぼくがそのことを口にすると、シーアは顔をしかめた。
「ああ。近ごろ明るいうちから魔物が出ることがある。今のところ、弱くて小さいやつだけだけどな。これはなにか、この国でおかしなことが起こっているのかもしれないな……」
ただでさえこの国に来てしまったことが「おかしなこと」だというのに、これ以上おかしなことがあってたまるものか。ぼくはぞっとした。
ぼくらはそれから、日が暮れるまで歩き続けた。
辺りが夕闇に包まれたころ、目の前にひとつの集落が現れた。木造の小さな家々が森の開けた場所に寄り集まるようにして建っていて、まるで絵本の世界のようだ。家の前に積まれた薪や無造作に置かれた木を伐るための道具が、森とともに暮らす村の雰囲気を物語っていた。
本当に人が住んでいるのか一瞬疑ってしまったけれど、洗濯物を手に持つ女の人が扉を開けて出てくるのを見て、ぼくはほっとした。ブラウスとロングスカートにエプロンをした姿は妙に古風だったが、少なくとも見た目には普通の人間にちがいなかった。
今日は晴れていたというのに、ぼくもシーアも雨に降られたように汗でびっしょりだ。早く柔らかいベッドで休みたかった。
「さあて、ここらへんでひと休みするか」
しかし、そう言いながらシーアが荷物を置いた『ここらへん』とは、まだ村に入りきらない森の地面の上だった。
そして昨日と同じように、焚き火を組み立て始めてしまった。
「む、村に入らないの!?」
ぼくが慌てて聞くと、シーアはさも当たり前のように答えた。
「言ったろ。俺は人間が嫌いだって」
「で、でもっ」
足が棒になったように疲れていても、滝のように汗をかいていても、村の宿で休むことを拒否するほど人間嫌いだなんて。
「それに、宿に泊まる金なんかねえし」
確かにぼくは家に財布を置いたままだし、向こうのお金がこの国で通用するとも思えない。民家に泊めてもらえるよう交渉することもできたかもしれないが、もうぼくにそんなことをする体力は残っていなかったし、ぼく一人で話が通じるのかどうかも不安に思った。
「じゃあ、ぼくも野宿する……」
ぼくは心底がっかりしながら、了解した。
シーアはそんなぼくの様子なんか気にも留めず、早速晩ごはんの支度をしていた。