第五十一話 決着
「ほらほらどうした。震えてるぜお坊ちゃん」
バンダナの男は楽しむように言った。その言葉は正しい。ぼくの足は今、他人の体になったかのように勝手に震えていたからだ。
先に動いたのはデュークだった。きいきいと鳴きながら、二人の間に立ちふさがる。
「なんだあ?」
男はうっとうしそうにデュークの体をつかむと、乱暴に投げ捨てた。痛々しく地面に叩きつけられるデューク。彼は短い悲鳴を上げたあと、ぐったりしたまま動かない。
怒りでおかしくなりそうなのを必死でこらえる。わかっている、デュークはこんなことで死んだりはしないって。
そして男は、シーアをかばうようにして立つぼくに斬りかかってきた。
まだ手が動くのは幸いだった。いや、ほとんど無意識の動きに近かったかもしれない。かろうじて刃を防いだ腕は、じいんとしびれた。
そうして幾太刀かを防ぐ。何度目かに剣を交えたところで、再び押されているのがわかった。
ぼくも負けじと押し返すが、さっきと同じ手には乗らない。かすかな筋肉の動きも見逃さず、ふっと向こうの手首の力が抜けたのがわかった瞬間、こちらも力を抜く。思ったとおりすぐさま振り下ろされた剣を、やはりすぐさま防ぐ。
相手はかすかに驚いた表情をした。
「ひ弱そうに見えてなかなかやるじゃねぇか。これならどうだ」
そう言って歩を横に進める。男はさっきからやたらと横移動ばかり繰り返していて、側面からの攻撃を防ぐためには、それに合わせてすこしずつ移動しなければならなかった。執拗に繰り出される攻撃に、ぼくはかすかな違和感を覚えていた。
黒く光る瞳は、血に飢えた野獣のようだ。なにを企んでいるというのか。ほんのささいな変化も見逃さないよう、注意深く相手の目を見つめていた。そしてあるとき、ほんの一瞬だけ視線がこちらからそれたことに気がついた。
ぼくは目を見開いた。その視線の先にはシーアがいる。知らず知らずのうちにシーアから引き離されていたのだ。
そう思った瞬間男は大きく剣を振り上げたかと思うと、ぼくを素通りし、まっすぐにシーアのほうへと向かっていった。
転がるようにしてシーアのいる場所へと駆け戻る。すばやい判断が効を奏した。こちらのほうがわずかに早かったのだ。ぼくの腕に引き寄せられたシーアはまだ意識を失っていたが、剣には当たらなかった。
顔すれすれに、男の剣は木の幹に突き刺さる。さっきまでシーアがもたれかかっていたところだ。
「卑怯もの……っ」
精いっぱい憎しみを込めて放った声は、男には届かなかったようだ。男はつまらなそうに刺さった剣を引き抜いた。
冷静になるんだ。圧倒的に強いこいつに勝つにはどうすればいい?
ぼくは今までこいつと張り合うようにして剣を防いでいたが、それはまちがいだったかもしれない。力では絶対にかなわないからだ。
こいつとぼくには大きな身長差がある。活かせるとしたらそこしかない。
――次の一手で決める。
動きを見極めるように、キッと正面を睨み付ける。
男は再び剣を振り上げた。ぼくも同時に剣を振るう。しかし刃の交差する一瞬前に身を低くして、男の下に潜り込んだ。驚きの声とともに、標的を見失った剣が空を切る。
そして、ぼくの剣は男のすねをとらえた。確かな手応えとともに、カーキ色のズボンに血をにじませる。
派手に転び、足を押さえて苦しむ男。ぼくはすかさずその上に馬乗りになった。
「やめろ! 俺が悪かった。話し合おうじゃないか」
早まる胸の鼓動を抑えつつ、剣を逆さに持ち、首もとに突きつける。勝利を確信していた。
しかし、そこで予想外のことが起こった。ぼくの手はどんなに力を込めても、それ以上一ミリたりとも動かなかったのだ。
動かそうとすればするほど、冷や汗が出てくる。
今さら話し合おうなどという言葉を信じたわけじゃない。でもこんな姿勢で、相手の顔を見ながら、この手のなかの剣を突き出す勇気はぼくにはなかった。
恐怖する男の表情が次第に怪訝な表情へと変わり、やがて勝ち誇った笑みに変わる。
ためらうぼくの腕に、突如ぞっとする感覚が骨まで伝わった。男はいつの間にかぼくの腕をつかんでいたのだ。
「う……あっ」
そうして見る間にありえない方向へ曲がっていく。ぼくは悲鳴を上げて、剣を落とした。肘から先は自分の腕でなくなったかのように感覚がない。ついでに蹴り上げられ、身体の上から転げ落ちる。
男は汗をぬぐいつつ、剣を拾い上げた。左右に回転させながら、嬉しそうに眺める。
「変わった剣を持ってるじゃねえか。俺がもっと上手く使ってやる」
千年前に作られたとは到底思えない鋭い剣先に、あたりの景色が映り込む。ぼくは呆然とその様子を見ていた。
しかしそこにシーアの顔が映し出されたとき、ぼくの心に最後の火がともった。
よろよろと立ち上がり、男が剣を振るうより先に素手でつかみかかった。矢を受けたところを狙って腕をつかむ。顔を引っ掻き、腹を殴る。
「おい、なんだっ。やめろ」
引き剥がされても、何度も何度もつかみかかった。殴られて口から血がにじんできたけど、絶対に離れなかった。
もはや勝ち目なんかない。逃げろ。
頭の奥で、そう叫ぶ自分がいる。ぼくはそれに抗うように、声を振り絞った。
「いやだ! 絶対にシーアを守るって、決めたんだ!」
そのうちぼくは転んだ。しかしすぐにやつの足をつかんだ。
予想外の行動に慌てた男は剣を使うことさえ忘れて、必死に引き剥がそうともがいている。しかし頭を小突かれても、腹を蹴られても、ぼくは絶対に手を離さなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。ふいに男の動きが止まった。そのままの姿勢でかたまり、ぐらりと倒れる。ぼくは踏み潰されそうになって、慌てて身をひいた。
気づけば男の背には何本もの矢が刺さっていた。シーアのはずはない。意識はあるのかわからないが、彼はいま木の下で倒れたままだからだ。矢だってもう残ってはいない。
木々の向こうから複数の人間が走ってくるのが見える。先頭の一人は弓のようなものを持っている。わけのわからないうちに彼らは駆け寄ってきて、バンダナの男をあっという間に取り押さえた。
彼らはぼくに向かって何事かを叫んでいた。しかしその声はもはやぼくの耳には届かない。
どんどん世界が遠のいていく。
白んでいく視界の隅に、リュクルゴスのマントが見えたような気がした。
――ああ、やっぱり来ちゃったんだ。ぼくって信用ないんだなあ……。
ぼくはそんなことを考えながら、ついに意識を手放した。