第四十三話 洞窟の底
風をきって、どこまでも駆けていく。自分がまるで鳥になったかのように体が軽い。
ぼくはどうなってしまったんだろう。頭がぼうっとして、なにも考えられない。
けれどもほおに感じる柔らかい感触だけは、はっきりとわかる。
ぼくはこの感触を知っている。きっともう、ずいぶん長いことそばにいる。
柔らかくて、優しくて、あたたかい。あまりの気持ちよさに、このままずっと目を閉じていたいくらいだ。
しかし、ぼくのなかのなにかがそうさせなかった。
気づいたとき、ぼくは固い地面の上に倒れていた。
――ここは、どこ? どうしてぼくはこんなところに。
よろよろと起き上がると、軽い目まいと頭痛がした。視界も意識もまだはっきりしないまま、ぼくが最初に発した言葉は……。
「クサッ」
公衆トイレのような強烈なにおいに、すっかり目が覚めた。
「なんなの一体……」
なんだか、幸せな夢を見ていた気がする。まるで自分が、空を飛んでいるような。
それなのに、目が覚めたらトイレだったなんて。
鼻をつまんで頭を抱えながら、あたりを見回す。
意外にもそんなに暗くはない。暗闇に目が慣れてくると、地面のあちらこちらにおがくずのようなものがこんもり積もっているのがわかった。どうもそれがにおっているようだ。
どうにか立ち上がると、目の前に突如黒い壁が現れた。三メートル半ほど離れた背後にも同じような壁がある。
そこでようやく自分は溝に落ちたのだということを理解した。しかし見上げてみても、高い壁に阻まれて天井すらよく見えなかった。
あんなところから落ちてなぜ助かったのかわからない。体も全く痛まないし、怪我もしていなかった。
「うわっ」
不快な羽音を立てて、頭上を一匹のコウモリが飛んでいく。森でプテラスに襲われたことを思い出し、一瞬体がこわばる。
しかしコウモリはぼくを襲う代わりに、おがくずの山に黒っぽいものを落としていっただけだった。森にいたモンスターとちがって、こいつらは普通のコウモリのようだ。
シーアが以前、モンスターは動植物が月の光を浴びて変化したものだと言っていたっけ。たしかにこんなところでは、月の光も届かないだろう。
このおがくずみたいな山が何なのかということについては、深く考えないことにした。
「リュクルゴスー! アーサー!」
二人の名前を呼んでみるが、返事はない。
立ち尽くすぼくの間近で、再びなにかが飛んでいった。またコウモリかと思い、振り払おうと手をのばすと、なにか柔らかいものに触れた。
「ピイッ」
「デューク!」
それは、トサカのように羽をピンと立てたデュークだった。デュークはぼくの肩にとまって、なつくように体をすり寄せてくる。
「デューク……おまえってやつはいつもいつも……」
笑ったつもりだったのに、ぼくの目からは涙がこぼれた。
今までにもいろいろと危ない目にはあってきたが、今度こそはもうだめだと思った。ほっとすると同時に、自分の幸運さと危なっかしさに自分でも驚き、あきれた。
デュークはぼくのほおに体をくっつけたまま、泣きやむまでじっと見守っていてくれた。
柔らかい羽の感触は、どこかさっき見た夢に似ている気がした。
「そうだ」
それから十分ほどか。すっかり涙も枯れたころ、ぼくはあることをひらめいた。
シャツの袖をほんの少し裂き、それをデュークの足に結びつける。
「これはぼくが生きていることの証明。これをリュクルゴスとアーサーに見せるんだ。いいね」
考えたくもないが、もしかしたら二人はぼくのことを……生きていないと思うかもしれない。それだけは絶対にいやだった。
こころなしか、デュークがうなずいたように見えた。そして崖に沿ってすいすいと飛んでいく。しかし、突然思い出したようにぼくのほうを振り返った。
「なに? 忘れ物?」
そのとき、頭に声が響いた。
――迷うな。あきらめるな。世界はお前を待っている。
ぼくにとってすべての始まりとなった、あの声だ。
ふと地面を見ると、大きな羽根が一枚落ちていることに気づいた。見ているだけで幸せな気持ちになるような不思議な色。もしも天使というものがいたら、こんな羽をしているんじゃないだろうか、そんな美しさだ。
しかしそれは、デュークのものにしては大きすぎるものだった。それはちょうど、神殿の壁に描かれた巨鳥のような……。
「ア、アイオロス!?」
ぼくは思わず小さな影になっていくデュークに向かって叫んでいた。
――まさか、デュークがぼくを?
彼は返事の代わりに一声鳴いて、崖の上まで飛んでいった。
しばらくして、彼は戻ってきた。
足にはぼくがつけた布の切れ端がついたままだ。二人に会えなかったんだろうか?
取れと言わんばかりに布のついた足を差しだしてきたので、取ってやる。結び目を解いた瞬間、布がはらりとめくれて、ぼくははっとした。するどい石でひっかいたような文字で、うっすらと「がんばれ」と書かれていたのだ。
胸にじわりとあたたかいものが広がる。なぜぼくにも読める字で書かれているのか。いや、そんなことはどうでもいい。
こんなところで体力を使っている場合じゃない。どうにかして上に戻るんだ。
よくよく考えてみれば、天井の光も届かないほど深い谷だというのに、それほど暗くないのはおかしいんじゃないか。どこからか光が差し込んでいるにちがいない。
ぼくは光の元を探して、崖に沿って歩いてみることにした。
ちょうど竪穴の外周部分に近づいてきたとき、ほのかに青白い光がもれている横穴が見えた。どうやらこの光のおかげで崖の下全体がかすかに明るいようだ。
「う……わ!」
穴に足を踏み入れた途端、なかから一斉に黒い塊が飛んできた。
「なんだよお前ら……普通のコウモリじゃなかったのか……よっ」
ぼくが苦し紛れに出した声は、けたたましい羽音と鳴き声にかき消されていった。ぼくはいつかのように、コウモリにまとわりつかれてしまったのだ。
――プテラスは動くものを追う性質があるからな。出会ったら、あんまり動かない方がいいぞ。
ぼくの脳裏に、シーアの言葉が浮かんだ。コウモリたちを振り払いたくなる衝動を抑えて、どうにか体を丸める。そして、そのままじっと耐えた。
コウモリたちはぼくが動かなくなると、攻撃をやめた。そして興味をなくしたように、どこかに散らばっていった。
ぼくがおそるおそる顔を上げようとしたとき、リュクルゴスでもアーサーでもアイオロスでもない低い声が、横穴の中で響いた。
「何者だ」