第三話 森の狩人
心地よい風が吹く。木々の葉がこすれる音がする。先ほどのように冷たい風ではない。どこか優しく、暖かい風だ。
そっと目を開くと、徐々に視界が鮮明になり、そこが森であることがわかった。青々とした緑が陽の光を受けて輝いている……。
「森!?」
とっさに飛び起きる。頭や体の上に落ちていた葉っぱが、衝撃で舞い上がった。
「川原にいたのに……どうして森に?」
ぼくの町の近くには確かに森があるが、今の季節はこんなに緑豊かではない。それに、どう考えても自分の足で森まで歩いてきたとは思えなかった。
頭が混乱したまま、とりあえず立ち上がろうとすると、ふいに背後の茂みで物音がした。
「な、なに……!?」
身をこわばらせて、次の反応を待つ。
耳を澄ますと、何者かの息づかいが聞こえた。かなり呼吸が荒い。妙に湿りと熱を帯びた音だ。
おそるおそる後ろを振り返る。すると、一匹の異様な姿をした生き物がぼくの目に映った。
角は三本。顔の正面に一本、左右に一本ずつだ。体は獣らしく毛に覆われているが、その毛は淡い黄緑色をしていて、ぼくが今まで見たどの生き物とも一致しなかった。
背丈はかなり大きい。四足歩行の状態で、ぼくの身長と同じくらいだろうか。
背に亀のような甲羅を背負っていて、それに刻まれた六甲模様の隙間から雑草が生えている。しかもところどころ花まで咲かせているもんだから、その姿はおかしくて、愛らしいと言えなくもない。
しかし今のぼくに愛らしいなんて言っている余裕はなかった。
ぼくとそいつとの距離は今、一メートルにも満たない。飛びかかられたりでもしたら、完全にアウトだ。
とはいえ見るからに鈍そうな動物だ。そいつはぼくをちらりと見たあと、まるで興味なさそうにあくびをした。ぼくは、そいつを刺激しないよう静かに後ずさった。そうしてそっと体の向きを変えようとしたとき……。
ぼくの動きのなにが気に入らなかったのか、そいつはザッザッ、と音を立てながら前足で勢いをつけると、いきなりぼくに向けて突進しだした。
「うわああああ」
もはや気が気じゃない。ぼくは意味不明な言葉をわめきながら、森の奥へと走った。
獣は地面を震わせながら、しっかりとぼくの後を追いかけてきた。息が切れて、喉もカラカラだが、止まったり振り返ったりすることはできない。
足がもつれ始めてもう限界かと思ったとき、ぼくは突然なにかに蹴つまづいた。急に勢いをせき止められて、あわや転ぶというところで、もう一方の足でなんとか踏みとどまった。見れば、地面にロープのようなものが這わせてある。
考えている間もなく、今度は頭上からなにかが降ってきた。それを見上げた瞬間、ぼくは目を見開いた。
木の杭だ。先は鋭く尖っている。ぼくは短く悲鳴をあげ、一本をうまくかわした。
「なんだよこれ!」
しかし杭の落下は続いた――大きな円を描くように、何本も何本も。ぼくはその円の中心に逃げ込んだ。
降ってきた木の杭は、うまい具合に地面に突き刺さっていった。
ようやく木の杭の雨がおさまったころ、ぼくは腰を抜かして、地面にへたり込んでいた。八本くらい降っただろうか。幸い、この木の杭におびえて獣は追跡をやめたようだ。グルル、と喉を鳴らしながら、二、三メートル離れた木の陰からぼくのほうを見ている。
しかし、ぼくは木の杭でつくられた円に閉じ込められる格好になってしまった。
奇妙なことに、杭のあいだあいだには網が張られていて、ちょうど杭同士をつなぎ、囲いをつくるようになっていた。
とにかく一息ついて、あたりを見回す。
よくよく見ると、間近の木の枝に果物の束のようなものがぶら下げてあった。果物を網でできた袋に入れて、誰かが木の枝にぶら下げたようだ。
ぼくは気づいた。そうか、これは罠だったんだな。
あの獣が、ここにある果物を求めて走る。すると地面に張られたロープに足を引っ掛ける。頭上から網を張った木の杭が降ってきて、獣を取り囲む。と、まあ、そういうことだろう。それにしてもだれがこんな仕掛けをつくったんだろう。
「伏せろ!」
ふいに、頭上から声がした。同時に、獣の激しい咆哮が聞こえた。頬に湿った息がかかる。
なんと遠くにいると思っていたあの獣が、すぐ目の前まで迫っていたのだ。口を大きく開いて、よだれが糸をひく牙を見せつけながら、今にもぼくに飛びかかろうとしている。いや、ぼくに飛びかかろうとしているのではなく、ぼくの後ろの果物を狙っているのかもしれない。どちらにしても危険な状況であることに変わりはなかった。
「伏せろって言ってるだろ!」
上から、今度はいらついた声が飛んできた。
ぼくが慌てて頭を下げると、ぼくの頭のてっぺんの毛をかすめて、なにかがものすごい勢いで飛び去った。直後、凄まじい咆哮が鳴り響く。
ぼくはそっと顔を上げた。それから獣の額の毛の間から生えるものを見て、ぼくは瞠目した。名前は知っているけれど日常では到底お目にかかれないもの――それはいわゆる「矢」だった。獣は額から血を流し、地面をえぐりながら狂ったように暴れまわっていた。
さらに二本の矢が頭上を飛んでいく。一本は獣の首に、一本は脇腹に命中した。
獣は恐ろしい悲鳴を上げながらしばらく暴れていたが、やがて派手な音を立てて横に倒れた。しばらく四本の足を宙でバタつかせていたが、次第に動かなくなった。
おそるおそる矢の飛んできた方向を見上げてみると、そこには大きな弓を持った少年がいた。
太い木の幹に腰かけて、不機嫌そうにこちらを見下ろしている。年はぼくよりも少し上のようだ。十五、六歳といったところだろうか。黒いベストの上に革の上着を着て、ブーツを履いている。
手に持った弓だけでなく、腰のベルトには短剣、ブーツには小ぶりのナイフをさしていた。
しかし、ぼくを驚かせたのはその弓の腕前でも、その妙に古風な装備でもなかった。
肩までたらされた髪が、真っ白なのだ。シルバーブロンドとでもいうのだろうか、ほとんど色のないその髪はあたりの葉の色を反射して、淡く緑色に輝いている。さらに角度によって銀色、紫色……と微妙に表情を変えている。顔立ちはひどく整っていて、儚げな髪色とは裏腹に肌は浅黒く、青紫の瞳には強い光が宿っていた。
ぼくが少年の方をぼうっと見ていると、彼が口を開いた。
「あーあ、罠を台無しにしやがって。生け捕りにしそこねたじゃねえか」
本当にその美しい容姿から放たれたのかと疑ってしまうほどぞんざいな口調だった。
ともあれ、彼が不機嫌そうにしている理由がわかった。この罠は、彼が仕掛けたものだったのだ――さっきの変な獣を捕まえるために。それが、ぼくのせいで失敗してしまったのだろう。
だけどぼくだって必死だったんだからな。ちょっとむっとしながらも、助けてもらったことにはちがいないので一応お礼を言っておくことにした。
「あの……助けてくれてありがとう。それで、ここは一体……」
ぼくが話し終える前に、少年が木の上から下りてきた。そしてぼくの前に歩み寄ると、網ごしにぼくの顔をじいっと見つめ始めた。手をあごに当て、なにかを考え込んでいる様子だ。
「な、なんですか?」
「……かわいいな」
ぼくは混乱した。
か、かわいいって……。確かにクラスの女の子に「エンノイアくんって、かわいい~」とか、言われたことあるけどさ。そういうことは、男には言われたくないっていうか……。
ぼくが一人でどぎまぎしているのにはかまわず、彼は続けた。
「羽がきれいだよなー」
ん? 羽? ぼくに羽なんかあったか?
「ひゃっ」
そのとき、背中に妙な衝撃があった。目の前に黄色い羽根が舞った。
そうだ、黄色い羽根といえば……!
「デューク!」
なんと、そこにいたのはデュークだった。いつの間にか近くにいたらしい。デュークは嬉しそうにぼくのまわりをくるくるとまわり、肩にとまった。
毎度のことながら神出鬼没だな、こいつ……。
ぼくは困惑しながらも、ほっとしていた。ここがどこだかわからないけど、一人じゃないってだけでずいぶんましだ。
「それで、ここは一体どこなの?」
はまっていた罠から出してもらったあと、ぼくは目の前の少年に問いかけた。
「なんだ、お前よそ者か? ここはパーンの森。アイオリア島の南端だ」
「アイオリア!?」
ぼくは耳を疑った。
アイオリアって。そう確か、あの天の声が言っていた言葉。母さんをロバートから取り戻す代わりに、ぼくに課せられた条件。
「アイオリア国」の「プネウマの鏡」を壊せ、と……。ぼくはその聞いたことのない国、アイオリアに来てしまったというのか?
そんな、ばかな。あまりにも一瞬すぎるし、一体だれがどうやって連れてきたというのだろう。まるで狐につままれた気分だった。
しかしぼくはそのとき、ちょっとした違和感を覚えた。自分でも、そんなことが気になったのは変だと思う。一瞬にして空間を移動してしまったことを思えば、じつに些細なことだからだ。
ここがアイオリアという国だとすれば、なぜぼくはこの少年の言葉がわかるのだろう、ということだ。
「あのさ」
ぼくがそのことを尋ねようとすると、弓の少年は目の前でおもむろにブーツにさしていたナイフを取り出し、さっき彼が倒した獣の皮を剥ぎ始めた。
「な、なにをしてるの?」
突然の行動にぎょっとしたぼくは、本来の質問などふっとんでしまった。
「皮を剥いでるんだよ。皮は都で売れるからな。生け捕りなら家畜として高く売れるんだが」
「へえ……」
曖昧にうなずきつつ、ぼくは少年の言った「都」という言葉が気になった。
――アイオリア国の国王が持つ『プネウマの鏡』を割ってほしい。
あの天の声、アイオロスとか言っていたっけ、あいつが言っていたことだ。
国王って都にいるものなんじゃないかな。こうして「アイオリア」に来てしまったのなら、やるべきことはひとつのような気がした。
「よし、決めた」
なんだ、という感じで少年が振り返る。
「この人に都まで連れて行ってもらおう!」
少年がドテッとわざとらしくよろけた。意外にノリのいい人だ。
「なんだそりゃ、勝手に決めんな! だいたいなんで俺がお前を都に連れてってやらなきゃいけないんだ」
彼がもっともなことを言った。でもぼくはあきらめないぞ。ぼくは祈るようなポーズで、必死に食い下がった。
「お願い。どうしても都に行かなきゃならないんだ。でもぼくは道もわからないし、さっきみたいな化け物もやっつけられないから……」
「だめだな」
少年はあっさりと否定した。
「都に行くためならなんでもするよ。仕事も手伝うよ!」
「そういう問題じゃねえよ。そもそも、俺は今すぐ都に行く気はねえし。だいいち……」
少年がぼくの襟首をつかんだ。
「俺は人間ってのが大嫌いなんだ。とっとと失せろ。俺がお前に優しくしてられるうちにな!」
軽く突き飛ばされて、転んだ勢いで後ろの茂みにぶつかった。頭の上から葉がぱらぱらと降ってきた。
「じゃあな。気をつけて行けよ」
そう言って、少年は立ち去ってしまった。一人取り残されて、ぼくはデュークと顔を見合わせた。
いけそうだったのに。口は悪いけど、なんだかんだでいい人だったし。人間が嫌いって……じゃあどうしてぼくを助けてくれたんだろう。
ぼくはそんなことを考えながら、とにかく歩き出すことにした。
ここがアイオリアの南端と言っていたから、北に歩けば森の外に出られるかもしれない。今は夕方だから、太陽が沈みかけている方角が西。ということは、太陽に向かって右向きに進めばいいのか。
ぼくはそんな曖昧な方向感覚で、この見知らぬ大地を歩き始めた。