第三十八話 アイオロス神殿
ヒステリックな鳴き声を聞きながら、神殿の入り口まで必死に駆ける。ほんの数メートルの距離なのに、草に埋もれた白壁がなかなか近づいてこない。膝下まで生えた草に足をとられて、走りにくいせいかもしれない。
鳥のいるほうを確認すると、もう少しで足が神殿の屋根から離れそうだが、それ以上に紐のほうが危なそうだ。ブチブチと嫌な音がして、紐の繊維一本一本が逆立っていく。
「あっ」
「エンノイア!」
よそ見をした瞬間、ぼくは小さな石につまずき、転んでしまった。すでに神殿の正面の柱までたどり着いていたリュクルゴスが慌ててぼくのほうに駆け寄ろうとするので、ぼくは首を振って彼を留めた。
「来ないで、大丈夫だから……ああ!?」
すぐに立ち上がろうと顔を上げたぼくの目の前で、ついに紐が裂けてしまった。綱引きに勝利した鳥が、何のためらいもなくこっちに突っ込んでくる。
日の光を受けて鈍い光沢を放った鉤爪がみるみる大きくなっていく。ぼくはその光景を見つめたまま、鷹の前の雀のように凍りついていた。
鳥の背後でリュクルゴスがこちらに走ってきているのが見えたような気がしたが、全てが夢の中の出来事のようにスローモーションだった。
ものすごい勢いで風が吹き、もみくちゃにされた。とてつもなく近い場所で鳥の叫び声が響いたかと思うと、視界が激しく揺れて、全身に痺れるような衝撃が走る。
もうだめだと思ったとき、ぼくの腕に何かの液体が伝うような、奇妙な感触があった。ようやく視界が鮮明になってくると、ぼくの白いシャツの袖が真っ赤に染まっているのがわかった。
これは、血……? けれども痛くはない。指の先と肩がじんじんと痺れているだけだ。あまりの衝撃に痛さを忘れてしまったのだろうか。
しかしぼくの手には何かが握られていた。そういえばあの瞬間、ぼくは剣の柄に手をかけて……。
「エンノイア!」
耳慣れたリュクルゴスの声がして、ぼくは我に返った。その瞬間、先ほどよりも切迫した鳥の鳴き声が頭上からふってきた。ぼくの真上で、浮上しようとじたばたと巨大な羽と片足を振り回している。
しかしもう片方の足はまるで動いていなかった。地上に繋ぎ止めるように、ぼくの握った剣が突き刺さっていたからだ。そこから流れ出た赤い液体が、剣を伝い、ぼくの腕にまで垂れている。
これはぼくの血じゃなかったんだ。ぼくが無意識に構えた剣は勢いのまま、鳥の足に突き刺さったらしい。
はあ……もう、なにがなんだか……。ふっと気を失いそうになった瞬間、リュクルゴスがぼくの手を剣から引き剥がし、ぼくを荷物のように肩に抱えて走り出した。
神殿の柱の下にいたアーサーと合流する。ぼくたちは鳥がこちらへ向かってくる前に、すぐさま神殿の中へと入った。
急いで扉を閉めると、中はさっきまでの騒動が嘘だったかのように静けさに包まれていた。
みんなの息つく声が室内に響く。神殿のひんやりとした空気が、ぼくのすっかり火照った顔を冷ましていった。
肩から下ろしてもらったぼくは、腰を抜かして床に座り込んでしまった。袖についた血が変に冷やっこくて、気持ちが悪い。
「ハアハア……大丈夫か?」
ぼくを担いで走ったリュクルゴスは、顔を真っ赤にしてぼく以上に額から汗を噴き出していた。
「うん……ありがとうリュクルゴス」
誰もいないはずなのに、そこはかとなく漂う厳かな雰囲気になぜか声をひそめなければならないような気がして、ぼくたちは小さな声で話した。
構造はヒエラポリスのものと似ていて、入ってすぐに丸い形の小部屋になっていた。
「どうやら元はアイオロスの神殿だったようですね……」
アーサーがそっと呟いた。確かにだいぶん剥がれてはいるが、曲線を描いた壁にはアイオロスらしき巨大な鳥――といっても、さっきのモンスターとは別物――の絵が描かれていたであろうなごりがあった。
しかしアーサーの声が落ち込んだものに聞こえるのは、気のせいではないだろう。なぜならこの部屋には、明らかに侵入者の形跡があったからだ。部屋の中央には寝泊まりしたらしい布団、鍋や皿、焚き火の跡があった。壁や床の剥げた部分も明らかにナイフでえぐられていて、自然の風化ではないのがわかる。つまり、誰かが先にこの遺跡に入り、持ち去ったということだ。
もしかすると、「テラスティアの宝玉」も……。他の二人も同じことを考えたのか、次第に諦めと絶望の表情になっていった。
「とにかく奥のほうも調べてみよう」
そう言って、リュクルゴスが小部屋の奥の扉を調べ始めた。
それが、なんとも奇妙な形をしている。なんというか、この空間にはひどく異質だったのだ。
しかしぼくには不思議と見覚えのあるものだった。そう、これはまるで……。
「ねえ、これって、アレみたいじゃない?」
「なんだアレって」
「ええっと……」
ぼくは相応しい言葉を探そうとしたが、うまく思い出せなかった。