第三十六話 千年前の遺構
――泣かないで母さん。ぼくがついてるから。ぼくが、ずっと母さんを守るから。
ピピピ……。
夢と現実の狭間を行き来するぼくの耳に、目覚まし時計の音がけたたましく鳴り響いた。
「うるさいな……。起きてるよ……」
時計に向かって言い訳しながら、音のするほうを探る。
なんだか柔らかいな。それに随分と小さい。
「ぶっ!?」
なかなか音が止まらないので何度もそれを叩いていると、顔面に激しい攻撃をくらった。慌てて目を開くと、黄色い羽をまとった何かがぼくの顔の上にのっている。
「なっ、と、鳥!? あ、あああ、なんだ、デュークか」
そ、そうだ、こいつはロバートにもらった鳥で、ここはリュクルゴスの家だ。
疲れのせいか、夢の内容のせいか、ぼくの頭は相当こんがらがっていたらしい。いつの間にか夜は明けていて、カーテンの隙間から眩しいほどの朝日がふりそそいでいた。こんなに小さな町でも、朝は人々の話し声や、牛や馬の鳴き声で少しは賑やかだ。
「よう、やっと目覚めたか」
一階へ降りると、もうみんなはとっくに朝食を食べ始めていた。この様子だと、ぼくはずいぶんと寝過ごしたらしい。
子供たちが小さな手で、バスケットに入れられたパンを次々と取っていく。このままではなくなってしまうと思い、慌てて席に着こうとすると、エルザがすかさずパンを追加してくれた。
食い意地が張っているのがばれたようでちょっと恥ずかしい。照れ笑いをしながらエルザの顔を見たとき、ぼくははっとした。
目が、真っ赤だ。エルザはぼくの視線に気づいて、慌てて顔をそむけたが、ぼくにはわかった。
昨日女の人の泣き声が聞こえたような気がしたのは、夢じゃなかったんだ。いや反対に泣き声が聞こえていたからこそ、あんな夢を見たんだろう。
「いやあ、このベーコン最高だな。おかわりをもらおうかな」
「そう? ありがとう」
リュクルゴスとエルザの何気ない会話が、心なしか空元気のように思えた。
おそらく――。
昨晩、リュクルゴスはこれからルイーズを探しに行くこと、それは長い道のりになるかもしれないこと、そのために一時的とはいえ討伐隊長をやめざるを得なかったこと――そういったことをエルザに話したんじゃないかな……。
朝食をとった後、身支度をして、ぼくたちは早々に出発することにした。これから向かうのは、ここから北に進んだところにあるテラスティア時代の遺跡だという。そこに司祭が言っていた「宝玉」のひとつがあるというわけだ。しかし実際に宝玉を目にしたものはいないというから、本当にそれが手に入れられるのかは行ってみなければわからない。
「じゃあ、みなさん。お気をつけて」
「パパー! いってらっしゃーい」
「ばいばーい」
エルザと子供たちが、町の出口まで見送りに来てくれた。リュクルゴスは軽くうなずいただけで、あっという間に向きを変え、馬に拍車をかけた。
リュクルゴスの馬の後ろに乗りながら町のほうを振りかえると、ずっとこちらを見続けるエルザの姿が見えた。町がみるみる小さくなっていき、お互いの表情が見えない距離になっても、彼女はそこを動くことはなかった。
――あえて二人がそっけない別れ方をしたように思える。
なぜリュクルゴスは奥さんを悲しませてまで、ルイーズを助けに行くのだろう。
『そりゃ、あなたのためなら地の果てだって助けに行きますよ』
バイバルスに捕らわれたルイーズを助けたとき、リュクルゴスが語った言葉。ぼくはその意味を履き違えていた。彼はアイオリアの一個人として――一人の恋人としてルイーズを助けにいくのだと、そう思っていた。でも、エルザへの態度を見るに、それはきっとちがった。
自分の国の王だからといって、普通、そこまで尽くせるものだろうか。少なくともぼくには考えられない。一番愛する人を――例えば母さんなんかを――置いて王様を助けに行くなんて。
いつか彼にそのわけを聞いてみよう……ぼくはそう思った。
行けども行けどもなだらかな草原が広がるばかり。時々草に埋まるようにして遺跡のような白い瓦礫が見え、あれがそうかと思えばリュクルゴスとアーサーの馬は全く興味を示すことなく通り過ぎるのだった。
今日も良い天気だ。春らしい暖かな日差しと単調な景色に、ぼくの上まぶたはだんだん下まぶたと仲良しになってきた。
このまま寝てしまっては馬を操作するリュクルゴスに悪い。しかし、どうにも眠い。世界中の眠気がぼくに押し寄せているような気がする。
そうだ。十秒間だけ目を閉じることにしよう。眠るわけじゃない、目を閉じるだけだ。
十秒だけ……。
「おい、眠ってる場合か!」
次に目を開いたとき、ぼくの視界には十秒間とは思えないほどの変化が起こっていた。上空から羽音のようなものが聞こえる。その音の主を探そうと首をまわすと、緑色の草にまぎれて、ひときわ太陽の光を反射する石の建物が見えた。
「あ……あれがテラスティアの遺跡!?」
よく見れば神殿のようだ。立ち並ぶ柱が三角の屋根を支えている姿は、都やヒエラポリスのそれによく似ている。しかし千年も昔の遺跡だというのに全く寂れた様子はなく、むしろ白大理石が自ら光を放っているようにさえ見える。不思議なことに、まわりには蔦一本纏っていないのだ。
「そうだが、今はそっちじゃない!」
ぼくがその建物に見とれていると、リュクルゴスにグイと首の向きを変えられた。上空から断続的に聞こえる羽音に合わせて、強い風が吹きつける。
さっきとは違った意味で再び目を閉じてしまいそうになるのを必死にこらえて空を仰ぎ見ると、デュークが何百匹と集まっても及ばないほどに巨大な――鳥がいた。
ぼくは思わず感嘆にも似た声をあげてしまった。優雅に上下する巨大な翼は、ある種の高揚感さえ感じさせてしまう。握り拳ほどもある巨大な目は、射抜かれてしまうのではないかと思うほど凶悪な目つきだ。それよりも恐ろしいのは、大きく鋭い鉤爪。あんなものに当たれば、肉などひとたまりもなく裂けてしまうだろう。
自分自身のおぞましい想像に、ぼくは身震いした。
「うわっ」
その鳥はぼくの考えを見透かしたかのように、その鋭い爪をこちらにつきつけて、急降下した。しかしすんでのところで、再び急上昇する。
馬に乗ったままだったぼくは風圧で紙屑のように草の上に投げ出された。ぼくの肩の上にのっていたデュークもころころと転がり落ちる。
「威嚇しているのかもしれないな」
馬にしがみつき風をやり過ごしたリュクルゴスがつぶやいた。
「モンスターは本質的に争いが好きなわけではない。人間が奴らのテリトリーに入ったときにだけ、襲ってくるんだ。しかし俺たちはあの遺跡に入らないと……。申し訳ないが、倒すしかないだろうな」
簡単に言うが、あんな化け物を倒すことなんてできるんだろうか。
ぼくの心配をよそに、リュクルゴスは剣の柄に手をかけ、躊躇なく草原に飛び出した。緊張しながら見守っていると、鳥は彼を迎えるように地面に降りてきた。リュクルゴスはそこにすかさず一太刀あびせようとするが、刃が届く寸前に鳥は急上昇する。体勢を崩した彼の背後から、鋭い鉤爪が迫っていった。
「リュクルゴス、危ない!」
ぼくの声より早いか、彼は振り向きざま剣を振った。しかしちぎれた羽がはらはらと舞っただけで、鳥は難なくその攻撃をかわした。そしてまた上昇する。
鳥は地響きとともに、今度は神殿の屋根にとまった。鉤爪が石に食い込む。重圧で神殿が壊れてしまうのではないかと思ったが、意外にも頑丈につくられているようだ。柱と屋根の間の装飾がわずかにひしゃげただけで、神殿がその屋根を落とすことはなかった。
しかしこれではリュクルゴスの攻撃が届かない。
「あれ、そういえばアーサーは?」
リュクルゴスの茶色い馬のそばにアーサーの白い馬がいるが、当のアーサーが見当たらないことに気がついた。
仕方なくぼくのところへ戻ってきたリュクルゴスは、無言であごで指し示した。
アーサーはぼくたちから数メートル離れた草原の上に立っていた。自分の背ほどもある巨大な杖をもち、白いローブを風にはためかせる姿は、いつもの穏やかな彼とは違う威厳を感じさせる。
彼はためらうことなく鳥の舞い降りた神殿に近づいていく。その気迫に鳥はわずかにたじろいだが、威嚇するようにかなきり声を上げた。
声までがその図体に負けず劣らず大きいものだから、ぼくは思わず耳をふさいだ。
鳥は再び羽ばたくと、アーサーに向けて足を突き出しながら勢いよく降下した。今度は威しではない。鉤爪が容赦なく地面をえぐる。しかしぼくが悲鳴をあげたとき、アーサーはすでに鳥の攻撃を回避して、何か呪文のようなものを唱え始めていた。
ことあるごとに思わず駆け出そうとするぼくの体を押し留めながら、リュクルゴスが言った。
「大丈夫。アーサーは国でも一流の神官だ。ここは彼に任せよう」
アーサーは呪文を唱え終わると、杖を強く地面についた。
途端晴れ渡っていた空の雲行きが怪しくなっていく。そしてまるで周囲の空からかき集めたかのように、鳥の上空にだけ黒雲が集まっていった。雲の合間にはピリピリと閃光が走っている。
ぼくははっとした。この光景に見覚えがある。初めてシーアと一緒に都へ来たとき、いや正確には都に着く少し前、村を襲ったワイバーンが都に接近していた。
そのとき例の雲が現れ、ぼくたちが必死に追い払ったあのワイバーンを、一瞬にして打ちのめしてしまったのだ。
そして今、目の前に現れた黒雲からもまた、神殿の上の巨鳥に向けて一筋の稲妻が放たれた。