第三十五話 片想い
食事を終えたアーサーとぼくは家族たちとしばらく話したあと、二階の寝室に案内してもらった。
討伐隊長という立場上、人を招くことが多いらしく、この家には客人用の寝室がある。あまり広くはないためふたつのベッドがほとんど部屋中を占拠していたが、寝るだけなら充分だ。
ぼくは勢いよくベッドに飛び込んだ。布団の弾力に体が押し返される。
まともなベッドに寝るのは何日ぶりだろう! ごく平凡な布団なのに、極上のもののような気がするからふしぎだ。
枕側には外から見えていた窓があり、ガラスの向こうに飾られた花が見えた。エルザはよほど花が好きなのか、ふたつのベッドの間に置かれたサイドテーブルにも花瓶が置かれている。
花が好きで、料理が上手で、ちょっぴり恥ずかしがり屋さんで。本当に、絵に描いたように可愛い奥さんだ。
リュクルゴスは食事のときも話しているときも、ずっとエルザのことを目で追っているようだった。まるで、彼女の仕草ひとつひとつを愛でるように。エルザもまたそうだった。週に一度しか会えない夫を目に焼き付けるように、じっとリュクルゴスのことを見つめていた。
本当に「愛し合っている」というのは、こういうことを言うのかもしれない。
――ルイーズの片想い。
ぼくにはそれしか思い浮かばなかった。
「そうでしょ?」
ベッドに腰かけ、持参した本を開こうとしていたアーサーを問い詰める。
「さあ……。俗世を離れて久しいわたしには男女のことはわかりません」
それだけ言って、彼は何事もなかったように本を読み始めた。
「わからないなんて嘘だ! 食事のときぼくが言いかけたことはわかったくせに」
話をはぐらかせまいと、ぼくは彼の本をひったくった。
個人的なことを根掘り葉掘り聞いたりして、失礼なのはわかっている。それでもなぜだか、ぼくはルイーズのことが知りたくて仕方がなかった。
アーサーはやれやれ、と首を振ると片手で軽く招くような動作をした。その瞬間ぼくの手に握られた本がひとりでに飛んでいき、彼の手に吸いつくようにして戻った。
ぼくは一瞬質問のことなど忘れ、驚きのあまり口をあんぐりと開けていた。
今のはきっと……「魔法」だ。
「もしかしてアーサーも魔法が使えるの!?」
アーサーはにっこりと笑った。
「もちろん、神官ですから。炎、雷、風……いろいろ使えますよ。もっと見せましょうか?」
ぼくは思わず「見たい!」と叫びそうになり、はたと気がついた。これじゃ彼の思うつぼだ。
「そんなことじゃだまされないよ! 質問に答えてよ」
アーサーは大きくため息をつきながら答えた。
「エンノイアくんはいささか好奇心が強すぎるようですね。『片想い』でしたっけ? そのとおり、陛下の片想いです、と言えば満足ですか? ならば、そういうことにしておきましょう。ですが、実際はそう単純なものではないと思いますよ」
「どういうこと?」
「人の心は片想いか両想いか――そんな裏表がはっきりしたものではないということです」
アーサーは謎かけのような言葉を残し、また本を読み始めた。
ぼくは不満だった。イエスかノーで答えてほしい。ぼくにとって大事なのは、ルイーズがリュクルゴスのことを好きなのかどうか、そしてリュクルゴスはどう思っているのか。それだけなのだ。
アーサーはぼくと話したあと、しばらく黙って本を読んでいたが、やがてランプの火を吹き消し寝てしまった。しかたなくぼくも布団をかぶったが、なんだか静かすぎて落ちつかない。
車が走る音もしなければ、遅くまで騒ぐ兵士たちのキャンプのように人の声が聞こえるわけでもない。アーサーの静かな寝息と、時折虫の声がする以外は何の音もない。
この町には夜更かしをする人はいないのだろうか。もっとも、遊ぶ場所もないんだろうけど。
「デューク。起きて。眠れないんだ」
退屈になり、枕元でうつらうつらしているデュークを指でつついてみた。するとデュークはびくっと体を震わせ、あわてて周囲を見渡し、気のせいか、と胸をなでおろした。そしてまた舟を漕ぎ始める。ぼくは声がしないように、喉の奥でくつくつと笑った。面白いので、また起こす。するとデュークはまた同じ反応をした。そしてまた起こして……。
「うわっ!」
何度もそんなことをしていたら、デュークは怒ったようにぼくの顔の前で羽ばたくと、とうとうぼくの手の届かない天井の梁の上に飛んでいってしまった。
まったく、神さまだかなんだか知らないが、薄情なやつだ。
仕方なくぼくはアーサーが読んだあと机に置いたままにした本に手を伸ばした。普段は本なんてまったく読まないが、今はこれしかすることがない。
ずいぶんと年季の入った本で、開くとパリパリと音がする。描かれている絵などをざっと見る限り、植物かなにかの本のようだ。
ランプの火は消えているが、窓から射す月の光でなんとか読めそうだ。
異様に細かい文字列にめまいがしながらも、光に照らしさあ読もうと思ったとき、ぼくは思いがけないことに気がついた。
字が、読めないのだ。
古びた質感の紙の上に、見たこともない文字が――おそらく手書きで――書かれていた。アルファベットにどことなく似てはいるが、どれもちょっとずつ形がちがううえ、単語などはまるで意味がわからない。当然読めるはずもない。
今まで言葉が通じたというのがそもそもおかしな話だったのだ。ここは、おそらくぼくが住んでいたものとはちがう世界なのだから。しかしどう考えてみても、ぼくにはどうしても彼らが自分と同じ言葉を話しているようにしか思えなかった。
その理由を考えているうちに、ぼくはようやくまどろんできた。
完全と思えた静寂の中に、微かに女の人の泣く声が聞こえたような気がした。
しかしそれは夢だったのかもしれない。なぜならその夜ぼくは、父さんの帰りを待って泣く、母さんのことを夢に見ていたのだから。




