第三十四話 家族
夜もすっかり更けたころ、ぼくたちはリュクルゴスの住む町アロにたどり着いた。今晩はリュクルゴスが家に泊めてくれるそうだ。彼の家がどんな感じなのか気になっていたし、野宿はいやだったので、ぼくは嬉しかった。
草原の中にある小さな森に食い込むようにして、その町はあった。馬を下り、三人で町の中へと入る。
さすがにこんな時間だから人は見当たらなかったが、ぼくはもの珍しさにキョロキョロとあたりを見回していた。
町、とは言うがほとんど村に近い。確かにパーンの森の村とはちがい道などが簡単に舗装されてはいたが、家は多くても二十軒くらいだろう。都やヒエラポリスのような石壁の家ではなく、二階建ての木組みの家が目立つ。
それぞれの家の前には木の柵で囲まれた小さな畑があり、ちょうど食べごろらしいキャベツがぽつぽつと実っていた。
その素朴な風景にぼくは心が和んだ。むしろぼくにとっては、都よりもこっちのほうが馴染みある光景かもしれない。それは、ヨーロッパの田舎の風景によく似ていたからだ。
「ここだ」
リュクルゴスが、そんな素朴な家のひとつを指差した。
「可愛い家だね」
ぼくは率直な感想を漏らした。他の家と同じように二階建てで木組みのその家は、赤い屋根をしていた。一階と二階に二つずつある窓にはそれぞれに可愛らしい花が飾られていた。
週に一度しか帰らないと言うから、「帰って寝るだけ」というような粗雑な家を想像していたのだが、実際はすごく手入れが行き届いている、そんな印象の家だった。
リュクルゴスの兄弟姉妹や親が住んでいるのかもしれない。それなら週に一度、わざわざ帰るというのもうなずける。
思った通り、彼は「ただいま」と中の住人に声をかけながら家のドアを開けた。
ドアの内側はすぐに居間になっている。簡素な木のテーブルと椅子が置かれ、床には赤色をした暖かそうな絨毯が敷かれていた。奥の壁で仕切られた空間は台所らしく、ふわりと良い香りが漂ってきた。
「おかえり! あれっ、しんかんさま。それと……」
ぼくたちを迎え入れたのは存外に小さな男の子だった。五歳くらいだろうか。
彼は居間のテーブルに座ってぐりぐりと何かを描いていたが、ぼくたちに気づくと、あわてて玄関に駆け寄ってきた。そのくりっとした黒い目をいっぱいに見開いて、ぼくとアーサーをもの珍しそうに見ている。
リュクルゴスはそんな彼をひょいと抱き上げると、リュクルゴスと同じ黒髪の頭をなでて、こぼれ落ちそうなほど幸せそうな笑みを浮かべた。
「おおロム! いい子にしてたか? ママを困らせなかったか?」
「うん。あのね、いっぱい、いっぱい、お手伝いしたんだよ!」
ロムと呼ばれた男の子は「いっぱい」と言うときに小さな手を精いっぱい広げてみせた。リュクルゴスはうんうんとうなずきながら、その可愛らしいしぐさに目を細める。
すると奥から、さらに小さな男の子が転がるように走ってきた。
「パパ~!」
「レム! 元気にしてたか?」
男の子が今にも転ぶというところで、リュクルゴスはすばやく大きいほうの男の子を手から下ろして、今度は小さいほうの男の子を抱き止めた。
ぼくはそんな微笑ましい光景を、素直に受け止められずにいた。
今、この子、リュクルゴスのことをパパって呼んだ?
驚きを共有したくてアーサーの顔を見たが、彼はあいかわらずにこにこしているだけで、別段驚いている様子はない。
そんな中リュクルゴスはさっきと同じように、今度は小さな男の子を抱き上げ、なでていた。
「よしよし。ママはどこにいるかな?」
「いまね、ごはん作ってるの。あ、来たよ!」
男の子の言葉通り、奥から若い女の人が、腰にかけたエプロンで手を拭いながら出てきた。
金色の長い髪を一本の三つ編みにして、首の横から前に垂らしている。その顔には、聖母のように優しい微笑みをたたえていた。この家の雰囲気にマッチした、フリルつきの可愛らしいワンピースを着ている。
「あらあなた、お帰りなさい。明日帰るかと思っていたわ」
リュクルゴスは眉を下げて、今までで最高の笑顔を見せた。ルイーズに向けた笑顔とも、ぼくに向けた笑顔ともちがう。こんなに甘い表情のリュクルゴスは見たことがない。今の彼を見たら、だれも彼が討伐隊長だとは思わないだろう。
「ああ、ちょっと予定が変わったんだ。ただいま、エルザ」
そう言ってためらうことなく彼女を抱きしめると、頬に軽くキスをした。ぼくがその様子を呆然と眺めていると、なぜか目の前に二人の男の子が立ちはだかって、「見ちゃだめ!」と言われてしまった。
エルザと呼ばれた女性がその様子に気づき、リュクルゴスの肩越しにぼくとアーサーを交互に見て、みるみる顔を赤くしていった。ついには耳まで真っ赤になりながら、リュクルゴスを押しのけて、あわててアーサーに頭を下げた。
「神官さま! 変なところをお見せしてすみません……! ああもう、神官さまが見えるならそう言ってくれればよかったのに。さ、どうぞ奥へ!」
あたふたとアーサーを奥に招いた後、ふしぎそうにぼくの顔を見た。
「この子はエンノイア。すまないが、泊めてやってくれないかな。詳しいことはあとで話すよ」
リュクルゴスが気をきかせてぼくを簡単に紹介した。それからリュクルゴスはさっきの男の子たちを呼び寄せて、ぼくに至極わかりきった説明をした。
「こいつらは俺の子供たちだ。上が五歳のロムルス。下が三歳のレムスだ。そして……彼女が妻のエルザ」
リュクルゴスはそう言って女性の肩をさするように抱いた。もう愛おしくて愛おしくてしょうがない、そんな感じだ。
ぼくはマヌケにも口をぽかんと開けたまま、終始驚きっぱなしだったのは言うまでもない。
ぼくとアーサーは、家族と一緒に夕食をごちそうになることになった。しばらくして運ばれてきた料理の数々に、ぼくは息を呑んだ。きのこのスープにハーブの香るソーセージ、胡桃のパン、色とりどりの野菜が入ったサラダ……ひさしぶりのまともな食事に、なみだが出そうになった。しかも、どれも超がつくほどおいしい。
母さんはこんなに料理が上手じゃなかった。母さん自身も苦い顔をしながら食べていたっけ。
それでも、不思議と食卓からは同じ香りがしていた。穴の空いた中古のダイニングテーブルも懐かしい。母さんと食べたのはほんの数日前なのに、ずっと昔のことのような気がした。
デュークが床で、もらったパンをつっついたり転がしたりしている。
「それにしても、まさかリュクルゴスが結婚してたなんて……」
ソーセージにフォークをつき立てながら、ぼくは言うまいと思っていたことを、思わずつぶやいてしまった。
「なんだ、俺が結婚してちゃおかしいのか」
向かいに座っていたリュクルゴスが、ちょっと不満そうに口をはさんだ。
「おかしくはないけど……」
そりゃあ、結婚していてもおかしくはない年齢だし、だれも彼が独身だとは言っていなかった。でも。
「リュクルゴスは王様と恋……痛っ!」
言いかけたところで、となりで静々とスープを飲んでいたアーサーに、テーブルの下で思いきり足を蹴とばされてしまった。
「ああ、すいません。足が当たってしまいました」
当たったってレベルじゃなかったぞ……。勢いでテーブルに置かれた皿がガチャンと音を立てたほどだ。
なんだなんだとみんながざわつくドサクサにまぎれて、アーサーは小声でぼくにささやいた。
「エンノイアくん、空気読みましょうね」
そう言って、ウインクしてきた。おどけた仕草だが、へんな威圧感がある。おとなしそうに見えて、なんなんだこの人は!?
「で、俺と陛下がなんだって?」
リュクルゴスがしつこく追及してきた。料理を運んできてくれたエルザも興味深そうにこちらを見てくる。
確かにこんなところで、奥さんの前で、「リュクルゴスは王様と恋人同士に見えた」なんて言ったらまずいよなあ……。さすがのぼくでもそれはわかる。ぼくは空気を読んだ。
「ううん。リュクルゴスは王様を結婚式に呼んだのかなあ、って話」
明らかにぼくはさっきとちがうことを言っていると思うのだが、リュクルゴスはそうか、とだけ言ってまた食事に戻った。一度追及してきて、それでもごまかすと、ちょっと傷ついたような顔をしてあきらめるのが彼のくせのようだ。
しかしふと思い出したように言った。
「確かに陛下は結婚式に来てくださったぞ。なあ?」
エルザはぽっと顔を赤らめてうなずいた。へえ。王様といえど、けっこう親密な付き合いなんだな。
それからぼくたちは彼らの馴れ初めを問いただしたりなんかして、それなりににぎわった。
簡単に言うと、リュクルゴスが任務の最中にこの町の近くで怪我をして動けなくなっているところを、彼女が見つけて手当てしてくれたのだそうだ。
今でもこの町に住んでいるのは、となりに住むエルザの母親が病気で、離れられないから。
エルザについて語るときのリュクルゴスは本当に幸せそうで、いわゆる浮気、とか、どうしてもそういった嘘や偽りがあるようには見えなかった。
そもそも彼の性格から言って、そんな裏切りは考えられない。
だとすれば、ルイーズの――母さんがロバートを見るときと同じ――あの表情は何だったのだろう。
ぼくはひとつの可能性に気がついて、胸が痛くなった。