第一話 はじまり
ふしぎな夢を見た。どこかの国の王さまが、魔法の水晶で自分の国の新しい王さまを探すのだ。
ピピピ……。
まだ夢と現実のはざまにいるぼくの耳元で、目覚まし時計がけたたましく音をたてた。
――うるさいな。黙れよ。
小さな声でつぶやいてみたが、ひとりでに音が止むはずはなく、なおも鳴り続けた。ぼくの言葉に怒ったのか、なんだかさっきより音量が増したような気がする。
ぼくはしきりに落ちようとしてくる上まぶたと闘いながら、目覚まし時計のレバーを下ろそうと手をのばした。
「……?」
下りない。というか、すでに下りている。
多くの目覚まし時計がそうであるように、ぼくの時計はセットするときはレバーを上げ、止めるときは下げる、という仕様になっている。
レバーはすでに下りている。だが目覚まし時計は鳴り続けている……。
「わぷっ」
突然、顔に変なものが当たった。妙に温かくて、モサッとかワサッとかいう感触だ。
おそるおそる目を開くと、舞い落ちる黄色い羽根が目に入った。
「ピピッ」
ここでようやく目が覚めた。目の前にいたのは、トサカのように羽がピンと立った、黄色い鳥だった。
音をたてていたのは目覚まし時計ではなく、一羽の鳥だったのだ。ベッドのサイドテーブルには大きな鳥かごが置かれていて、扉が開いてしまっていた。
昨日目覚まし時計をかけ忘れたな、なんてことをぼんやりと考えながら、ぼくは呆然としていた。
ぼくの顔に突進してきたそいつは、ときどき黄色い羽根を散らしながら、部屋中を嬉しそうに飛び回っていた。
種類はなんだろう。大きさはぼくの顔ほどもある。鳥に詳しくはないが、オウムか何かの類いかもしれない。そもそも、だよ。なんでぼくの部屋に鳥が?
そんなことを考えていると、階下から母さんの声が聞こえてきた。
「エンノイア? 起きてるんだったら下りてきなさーい」
「あ、はーい」
この鳥をどうすべきか悩んだが、不思議なことに自然とぼくの手にとまってくれた。
ぼくはそいつを肩にのせて部屋を出た。
一階へ下りると、母さんは朝食の支度をしていた。
てきぱきとテーブルに皿を並べる母さんはいつもどおり、茶色い髪をくるくると一つにまとめて、パーカにジーンズというラフなスタイル。全然化粧っけもないのに十は若く見える童顔で、友達からはよく可愛いお母さんだなんて言われる。とはいえぼくまで母さんに似て童顔になっちゃったんだから、息子の立場としては複雑な気分だけど。
母さんは階段を下りてきたぼくに気づくと、振り返って言った。
「あら、そのコ、気に入った?」
ぼくはその言葉の意味をすぐに理解した。
「気に入った、って。もしかしてプレゼント!?」
どういう風の吹き回しだろう。今まで何度ペットが飼いたいって言っても、いつも却下されてきたのに!
それに今日は誕生日でもクリスマスでもない。母さんはなんでもない日にプレゼントをくれるほど甘い人間じゃない。そんなにお金持ちな家でもないし。
ぼくが笑顔で答えを待っていると、母さんはぼくに負けず劣らず満面の笑みで答えた。
「そ。ロバートがあんたにって」
聞きたくもない名前が登場して、ぼくは心底がっかりした。だが、母さんはまだ嬉しそうに続けた。
「優しいよね。会ったらお礼言うのよ」
確かに他の人が見たら、可愛い母親だと言うかもしれない。母さんは初恋に心踊らせる女の子みたいに頬をほんのり赤くして、うきうきと弾んだ調子で言った。
そんな様子の母さんとは裏腹に、ぼくの口から漏れたのは盛大なため息だった。
「……どうでもいいけど、カーテンぐらい開けなよ」
ぼくははぐらかすように窓辺に寄った。射し込む朝日に目を細めながら外を見ると、ちょっと気の早い木が花を咲かせている。レンガ造りの閑静な住宅街には、まだ人っ子一人見当たらなかった。
「やっぱり、引っ越してきてよかったわねぇ」
いつの間にやら隣に立っていた母さんが、そう呟いた。
三年前、母さんと父さんが離婚して、ぼくたち二人はロンドンからこの小さな町に引っ越してきた。ちょっと田舎だけど、確かにぼくも車の音がうるさい前の家より、今の家のほうが好きかもしれない。
もっとも、母さんはぼくとはちがった意味でここに来てよかったと思っているようだ。
ロバートというのは母さんの今の彼氏で、こっちに来てから知り合ったらしい。なんでも新進気鋭の設計技師なんだそうで、母さんに言わせれば、「誠実で優しい」人。
母さんは今のとおりロバートに熱をあげているようだけど……ぼくはロバートのことがあまり好きじゃない。
いや、けっこう、かも。
今日の朝食は軽くパンだけ。ぼくがバターを塗ったパンにかぶりついていると、母さんが向かいの椅子に腰かけながら、口を開いた。
「それでね、この前ロバートが」
「ごちそうさま!」
このまま席についているとまたロバートの話に戻りそうだったので、ぼくは急いでパンを口に押し込み、身支度をするためそそくさと洗面所に引き揚げた。
「ちょっと、皿ぐらい片づけなさいよね!」
母さんがダイニングルームでなにやら文句を言っていたが、ぼくは気にせず父親ゆずりのブロンドの髪を整えはじめた。
しばらくして、母さんが洗面所に入ってきた。
「ところでエンノイア」
「わかったよ。今片づけるから……」
「そのことじゃないのよ……あのね」
母さんはぼくの言葉を遮ったが、何度もあのね、あのね、と言いながら、言い出しづらそうにもじもじしていた。そして相変わらず頬を赤く染めたまま、ちょっと気恥ずかしそうな、意味深な表情で言った。
「今日は早く帰ってきてね。大事な話があるから……」
「はあ?」
一体なんだろう? 戸惑いながらもぼくはうなずくしかなかった。
「へぇ、いいなぁ!」
「だろ? デュークって名前にしたんだ」
中学校へ行く道すがら、クラスでいちばん仲のいいスティーブに会ったので、ぼくは歩きながら早速今朝の出来事を話して聞かせていた。スティーブは、ぼくの話を目を輝かせながら聞いていた。彼も動物が好きで、そんなところも気の合う理由の一つかもしれない。
「それにしても、ロバートからもらったっていうのが気に入らないよ。あいつ、母さんにいいとこ見せたいだけなんだ」
ぼくは今朝からずっと心の中で呟いていた不満を口にした。
「ロバートのどこがそんなに嫌いなんだ? 俺、この前、お前んちに行ったとき会ったけどいい人そうだったじゃん」
「どこってわけじゃないけど……」
自分でもよくわからない。ただ、母さんとロバートが楽しそうに話しているのを見ると、なんだかイライラするんだ。
「ははーん。ヤキモチだな」
スティーブはニヤニヤ笑いを浮かべながら言った。
予想もしていなかった単語が出てきて、ぼくはスティーブのいたずらっぽい目を見つめたまま、ぽかんとなってしまった。
「ヤキモチ? どういうこと?」
「お前はそのロバート、に母ちゃんを取られるのが怖いんだろ。母ちゃんを一人占めしておきたいんだ」
「ば……ちがうよ!」
思わず大きな声が出てしまった。
周りの人たちが「なんだ?」といった様子でこちらを振り向きだしたので、ぼくはあわてて声を低くした。
「ヤキモチなんかじゃないよ。そんな、子供じゃあるまいし。だれだって、これから自分の父親になるかもしれない人間には慎重になるものだろ……」
思わずそこで言葉を途切れさせた。
自分で言ってゾッとした。ロバートが父親になるかも、だって? そんな、バカな!
「わかった、わかった。そういうことにしておいてやるよ」
スティーブは、さも自分だけがオトナだとでも言わんばかりに、ハイハイ、と手を振った。
その様子が余計に腹立たしかったので、さらに反論しようとすると、学校の方角から朝のチャイムが聞こえてきた。
「やばい、遅刻だ!」
話に夢中になっているうちに、けっこうな時間が経っていたらしい。ぼくたちは急いで学校へと駆けていった。
ぼくは授業なんかそっちのけで今朝の出来事を反芻していた。
ヤキモチなんかじゃないけどさ……。なんていうか、ロバートの澄ましたところが嫌なんだ。今朝のスティーブみたいに、自分は大人だからなにを言われても平気、だとでも言うような。母さんもあいつのどこがいいんだか……。
「あー、わからない!」
突然、それまで呪文のように聞こえていた先生の声が、ピタリとやんだ。不思議に思って顔を上げると、なぜかみんなが目をまん丸にしてこっちを見ていた。
あれ? 今ぼく、声に出して言った?
「エンノイアくん……そりゃわからないだろうね。遅刻してきたんじゃあ」
先生がでかい腹を揺らしながら皮肉っぽく笑った。
「立ってなさい」
ぼくは教室の前のほうの、窓際の隅に後ろ向きで立たされてしまった。
まったく、今どき「立ってなさい」なんて言う先生いるか?
ぼくは心のなかでブツクサ文句を言っていた。と、そのとき、だれかが小さな声でぼくの名前を呼んだ気がした。それもけっこう近くで。
まわりを見渡しても、先生はぼくの存在を忘れたかのように教科書を読んでいたし、他の生徒が呼んだ気配もない。
気のせいか。そう思い、再び前に向き直ったとき。
「エンノイア」
今度は確かに呼ばれたような気がした。不思議なことに声ははっきりと聞きとれるのに、それが男の声なのか女の声なのか、はたまた大人なのか子供なのか、それすらよくわからない。窓側から呼ばれたような気がして、そちらのほうを見ると……。
「デューク!?」
なんと、開け放した窓にデュークがとまっていた。デュークは名前を呼ばれた瞬間飛び立ち、教室の中に入ってきた。
「なんだ、鳥!?」
「大きいぞ!」
「こっち来るな!」
当然ながら、教室の中は大混乱だ。
デュークはひとしきり教室のなかを旋回した後、前のほうに戻ってきて、ぼくの手にとまった。
「デューク、どうしてここに?」
聞いてもしょうがないと思いつつ、聞かずにはいられない。するとデュークの代わりに、怒りに震えた先生の声が返ってきた。
「エンノイア・グノーヴァー。それはきみのペットかね?」
おそるおそる顔を上げると、最悪なことに、デュークは先生の頭の上に大変な落とし物をしていた。
「あーあ。しぼられた、しぼられた!」
ぼくは家へと続く道を、怒りにまかせてずんずんと歩いていた。
放課後、ぼくは二時間みっちりお説教を食らった。遅刻したうえ授業はうわの空、ペットまで連れてくるとはけしからん、ということらしい。前二つはともかく、デュークはぼくが連れてきたわけじゃないぞ。
デュークはなに食わぬ顔で飛びまわっているし。どこで見つけたのか、パンくずみたいなものを食べていた。
ぼくは、母さんに早く帰れと言われたのを思い出した。川のほとりに建てられた時計台を見上げると、時刻はもう六時を回っていた。
すっかり遅くなっちゃったな。ぼくが帰るまで待つなんて、一体なんの話だというのだろう。
ぼくは傾いた日を背にしながら、歩調を早めた。
家の玄関ドアを開けると、居間のほうからなにやら話し声が聞こえた。母さんの声と……ちょっとハスキーなこの声は、ロバートだ。
ぼくは居間をそっと覗いた。見れば、母さんがロバートに紅茶を淹れているところだった。普段は髪をまとめて化粧もしない母さんが、今は髪をたらして、妙にめかしこんでいる。ソファに腰かけたロバートは三つ揃えのスーツを着ていて、栗色の髪は気持ちが悪いほどきっちりと櫛目が通っている。ロバートはいつもフォーマルな服装をしているが、ここまであらたまった格好というのは珍しい。
二人はぼくに全く気づくこともなく、楽しそうに話していた。
なんだ。ぼくには早く帰れと言いながら、自分はロバートとお喋りか。
なんだか無性に腹が立ってきて、ぼくはそのまま居間を素通りして、二階の自分の部屋に上がろうとした。しかし、階段を昇る音を聞きつけられて、母さんに呼び止められてしまった。
「エンノイア? 帰ってるんだったら、こっちへ来なさーい!」
ぼくは仕方なく居間へ向かうことにした。