第九話 王宮へ
都を囲う白い城壁に沿って歩いていくと、町への入り口らしき門があった。今は大きな木の扉は開け放たれ、扉を覆うための金属の格子は引き上げられていた。
ぼくの横を干し草を積んだ荷馬車がすり抜けていく。行き交う人はみな革袋を下げ、短剣を差し、膝までもあるブーツを履いていた。
門の目の前に広がる目抜き通りには、石づくりの建物が並んでいた。どれも平家建てで、白く四角い建物が並ぶ姿は、まるでブロックを敷き詰めたようだ。ガラスのはまっていない窓からは、ひまを持て余した猫が顔を出している。春の穏やかな日差しは、ひび割れた石壁をより白く見せていた。
それは、ぼくの知っているどこの景色とも違った。本のなかか、よく知らないけれど、ずっとずっと古い時代にタイムスリップしたのかもしれなかった。
ぼくはただ唖然としていた。開いた口がふさがらないでいるのを、シーアは街の大きさに驚いていると思ったようだ。彼は得意そうに笑って言った。
「大きいだろ。むこうに見えるのが居住区、右奥に見えるのが大神殿だ」
大神殿と呼ばれた建物はそれほど高さはないが、名前のとおり大きい。三角屋根を支える大理石の柱が、荘厳な雰囲気を醸し出していた。袖を合わせたローブ姿の人たちがいそいそと出入りしているのが見えた。
「そして」
シーアが言うよりも先に、ぼくはつぶやいていた。
「あれが……王宮」
目抜き通りの一番奥に、町を見守るようにしてそれは建っていた。大神殿と同じような形をしているが、圧倒的な高さだ。町には他に高い建物がないのでそう見えるのかもしれない。
腰に差した大きな剣と屈強な体格から、王宮の入り口の前に立っている男たちは「兵士」と呼ばれるものだとすぐにわかった。
てっぺんに毛がついた変な兜をかぶっていて、あれじゃまるでモヒカン頭だ。
「じゃ、俺はこれで」
「えっ」
ぼくは思わずシーアのほうを見た。
そうだ。都まで連れて行ってもらうっていう約束だったもんな。都に着いたらもうお別れだ。でも……。
「品物売るところまで手伝うよ。ほら、仕事手伝うって言ったし!」
無理に頼んで都まで連れてきてもらったんだ。このまま別れるのはなんだか悪いような気がした。しかし彼は軽く追い払うような仕草をして言った。
「いいよ別に。今はたいして売るもんもないし。それより王宮に用事あるんだろ? 早く行けよ」
「うん……。ありがとう、シーア」
彼は肩を軽くすくめたあと、踵を返しさっさと歩き始めた。もともと人間嫌いだと言っていたくらいだ。彼らしく、淡白な別れ方だった。
でも、もう二度と会えないかもしれない。
ほんのすこし寂しい気持ちになりながら、王宮に向けて歩き出そうとしたときだった。
「あっ。そうだ」
シーアはふと思い出したようにこちらを振り返った。
「持ってけ」
腰のベルトからなにかを取り出し、数歩離れたところから投げる。
落とさないように気をつけながら受け取り手のなかを確認すると、小さな短剣があった。
複雑な組み紐模様のついた黒い鞘が印象的なそれは、シーアがワイバーンと戦ったとき使っていたものだ。
「やるよ。丸腰じゃなにかと不便だろ」
ぼくがワイバーンと戦うとき武器がなくて困っていたのを知っているんだろうか。
熱いものがこみあげてきて、ぼくは叫んでいた。
「シーアー! いろいろとありがとうー! 元気でねー!」
再び向きを変え歩きだそうとしていたシーアに向けて、大きく手を振る。
彼は後ろを向いたまま、そっけなく手を振り返した。そして元来た城門をくぐり、銀色の髪の少年の後ろ姿はついに見えなくなった。
きっとまた会える、ぼくはそんな気がしていた。
いや、と首を振る。もうこんなわけのわからない世界に留まりはしない。ぼくはプネウマの鏡を割って、母さんを取り戻して、元の世界に帰るんだ。
「さて、と……」
ぼくはもらった短剣をズボンのベルトに差し込むと、市場のにぎわいを横目に王宮へと続く石畳の道を歩いていった。
いろいろあったけど、ついにここまで来たんだ。
王宮に入ったぼくは驚いた。入り口のすぐ先は大広間になっていたのだが、そこにあふれんばかりの人がいたのだ。
都の住人らしいエプロン姿の人から、いかにも旅人という袋を背負った人まで、様々な人たちが王宮の大広間に詰めかけていた。
荘厳な外観とのギャップに、ぼくはすっかり拍子抜けしてしまった。
どうして王宮のなかにこんなに人がいるんだろう。ぼくは近くにいた人に尋ねてみることにした。
黒いベストに腰だけのエプロンをした彼は、見るからに人のよさそうなおじいさんで、ぼくを見てにっこりほほえんで答えてくれた。
「お前さん、よそから来たのかい? 王さまは毎日この広間にいらっしゃってはわしらの質問や要望に直接応えてくださるんじゃ。だからみな王さまに話を聞いてもらおうと詰めかけとるんじゃよ」
王さまといえば玉座にふんぞり返っているイメージだったから、ぼくは少なからず驚いた。
「おじいさんはなにを話したいの?」
「わしはただお顔を拝見しに来ただけじゃよ。なんだか元気が出る気がしてな」
そう言って、おじいさんはしわしわの顔をゆるめた。
「まあ、いつも会えるとは限らんがの」
「会えない日もあるの!?」
それは困る。思わず声を荒げたぼくに対し、なぜか彼はおかしそうに目を細めた。
「ご本人には、な。ほら、いらっしゃったぞ」
彼が指さした先に、それらしき人物が見えた。
周りを兵士に守られながら、一段高くなった場所に立っている。
外見も王さまというイメージからはずいぶんかけ離れている。全身をすっぽり覆った無地のローブという、質素な出で立ちだ。白いベールを目深に被っているので、顔はよく見えない。
王さまらしき人物が現れたことで、一気に広間が騒がしくなった。
おじいさんの言ったとおり、広間にいた人々は一斉に王さまに詰め寄り、質問や要望を投げかけていた。聞き取れる限りだと、税、とか、麦、とかいう単語が聞こえる。
王さまは大勢に詰めかけられても動じることもなく、ゆったりとした語り口で一人一人に応対しているようだ。
「さて、わしも頑張るとするか」
そう言うと、おじいさんは人をかき分けかき分け、前に進んでいった。
ぼくははっとした。どうやってプネウマの鏡を探そう。この様子だと、とても王さまに近づけそうにない。
「あっ、デューク。どこに行くんだよ!」
そのとき、肩にとまっていたデュークが、勝手に飛び立ってしまった。王さまに話しかけようと詰めかけていた人々も、興味をひかれたようにデュークを見上げる。王さまもかすかに顔を上げ、ベールからのぞいた薄い唇がかすかに驚く形をしたように見えた。
「ちょっと、すいません!」
周りにひしめいている人々を必死にかき分けながらデュークを追うと、彼は広間の脇にある廊下へ向かったようだった。
勝手に王宮の内部へ入っていいのかどうか一瞬悩んだが、このままデュークを放置するわけにもいかないので、ぼくは後を追うことにした。
広間の先は回廊になっていて、その内側は中庭になっていた。特に咎められはしなかったので、ここは開放されているんだろう。
真ん中には優美な噴水があり、周囲には豊かに茂った広葉樹が植えられている。花壇には可憐な白い花が咲いている。
ぼくは中庭に見とれているうちに、デュークを見失ってしまった。
――木の枝にでもとまったのかな。
そう思って植えられた木を見回していると、一本の木の下に誰かが立っているのに気がついた。
どことなく王さまに似ていなくもないが、柔らかな体つきから、遠目にも女の人だということがすぐにわかる。腰のところを紐で留めた白いワンピースは肌が透けて見えそうなほどに軽やかで、質素というよりは上品だ。そして頭には、絹でできたベールをかぶっていた。
その姿には見覚えがあったが……そのときはそれがなんなのか、思い出すことができなかった。
ぼくは彼女にデュークを見なかったか、尋ねることにした。
「あの……」
声をかけると、彼女は優雅な動きで振り返った。
ぼくは息を呑んだ。
憂いを帯びた青い瞳を縁どる、長いまつ毛。真っ白な肌、すんなりとした鼻、きゅっと結ばれた赤い唇。振り向きざま、ふんわりといい香りがした。
ぼくよりも頭ひとつほど背が高く、体は適度にふくよかで、まるで大輪の花のようだ。それでいて決して下品ではなく、優雅という言葉は彼女のためにあるかのようだった。
ぼくはこれほどまでにきれいな女の人を見たことがない。美人なんて言葉じゃ足りない。
このときの気持ちをなんと表現したらいいんだろう。ぼくは、一目で彼女のとりこになってしまったのだ。
彼女がかぶっていたベールをとると、日の光を直に受けて白い肌がますます際立った。あまりの美しい光景にクラクラしながらも、ぼくはあることに気がついた。
髪の色が、水色だったのだ。こんな髪の色は、見たことも聞いたこともない。しかし、空と同じ色をしたその髪は、彼女の美しい顔立ちに違和感なく溶け込んでいる。
彼女は唇の端を上げて、クスリ、と笑った。
「なにかわたしに用があるのでは?」
なんて美しい声だろう。ぼうっと聞き惚れていると、彼女はほんのすこし困った顔をして、小首を傾げた。その姿がまた愛らしくて――。
「あっ……すいません!」
彼女に見とれて、声をかけた理由を忘れるところだった。
「黄色い鳥を見ませんでしたか!? こう、トサカみたいな羽の立った……」
すると、彼女は惚れ惚れするようなほほえみで答えた。
「それは、この子のこと?」
彼女が軽く手を挙げると、ふしぎなことに、どこからともなくデュークが飛んできて、彼女の手にとまった。
「どうもありがとう!」
無事デュークを見つけたぼくは、本来の目的を忘れ、木の下に腰かけて、水色の髪をした彼女とおしゃべりをしていた。
「ぼく、エンノイアっていいます! あ、こいつはデュークで」
ちゃっかり自己紹介しておく。
「ふふ。わたしはルイーズよ。よろしくね、エンノイア、デューク」
そう言って、ルイーズはぼくの手を握った。
ふわああああ。
ぼくは思わず変な声を出してしまった。なんて柔らかい手なんだろう。ずっと握っていたいくらいだ。
ぼくは、彼女が母さんと同じくらいの歳かもしれないことに気がついた。つまり、三十歳くらい。だけどカジュアルで童顔な母さんとはちがって、かなり大人っぽい。要するに、なんていうか、色っぽい。
その「大人の魅力」みたいなものに、ぼくは終始ドキドキしっぱなしだった。
「さてと、そろそろ行かなくっちゃ」
ルイーズが立ちあがった。
そのとき、ぼくは突然電撃が走ったように閃き、無意識にある言葉を発していた。
「もしかして……王……さま……?」
ルイーズが驚いたように目を見開いて、ぼくを見ている。
自分でもなぜそう思ったのかわからない。王さまはさっき広間にいたじゃないか。服装も違うし、時間的に考えても、さっき広間にいた王さまらしき人物がルイーズだとは思えない。
それなのに、直感とでもいうのか、ルイーズこそが「王」だ、という気がしてならなかった。
しばらくの沈黙。変な人だと思われたかもしれない。ぼくは不安になってきた。すみません、思いちがいでした、とでも言ってしまおうか。
しかしルイーズは、気の抜けるような明るい声で言った。
「あら? どうしてばれちゃったのかしら?」
手を顔に当てながら、いたずらっぽく笑っている。
「ええっ!?」
ぼくは自分でもまぬけと思えるほどの、すっとんきょうな声を上げた。
「そ、それって、どういう……」
すると、彼女は笑いながら言った。
「広間にいたのはわたしのイトコよ。わたしたち、姿が似ているから、面倒なときは時々ああして代わってもらうの」
「イ、イトコって……」
おいおい、王さまがそれでいいのか、なんてつっこみをする気力もなく、ぼくはすっかり緊張の糸がほどけてしまった。
いいや。気が抜けている場合じゃないぞ。
ルイーズが王さまとわかれば、やるべきことは一つ。
ぼくは、意を決して聞いた。
「プネウマの鏡を見せてください……!」