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3話 私の笑顔で壊した先輩


 高校2年生の晴夏は、理系特進クラスに進んだ。あやちゃんとはその時からの友達だ。


「ハルちゃん、この間返ってきた模試の質問会は、来週末だよー!3年の有志の先輩方が教えてくれるんだって!いっしょに行こ?」

「うん、行こ行こー!」



 質問会当日、晴夏は黒川先輩と出会った。


「3年の黒川と谷村だ。よろしく頼む。…遠慮なく質問してくれよ?」


 そう言って黒川先輩は真っ白な歯を見せてニカッと笑った。


(黒川先輩、抜き身の日本刀みたいだなあ…)


 何故だか、目を離す事が出来なかった。


 2人の先輩は後輩達の質問に、にこやかに解説していった。


「先輩、この問題なんですけど…」


 晴夏が質問のノートをおずおずと差し出すと、黒川先輩は笑いをぴたりと止め、視線だけで式を追った。


 その一瞬、空気が変わった気がした。


「ああ、これはこう解くんだ」


(なんて鮮やかな解説…。わかりやすい!)


 晴夏は、いつのまにかニコニコしていた。


「ありがとうございます、先輩!」

「ああ。…またわからないところがあれば、質問しにおいで?」


 質問会が終わって、晴夏はあやちゃんに話しかけた。


「あやちゃんあやちゃん、黒川先輩って最初はちょっと怖い人かもって思ったけど、優しいね!」

「そうだね、ハルちゃん!あの2人、模試のA判定常連だし、前回のテニスの全国大会で、3位だったらしいよ!ダブルスのペアなんだって〜」

「すごいね〜!!」


 晴夏はふと振り返った時、黒川先輩が谷村先輩と話しながら、こちらを見ていた。


一瞬、目が合った。


(……やっぱり、怖い人かも)


 でもその視線は、どこか温かかった。参考書をきつく握る手が、少しだけ緩んだ。




(黒川先輩は、怖いほど真っ直ぐな人だった)

(目を合わせた時は、自分の中身まで見透かされるような気がした)




(黒川視点)


 質問会の教室に入ったとき、空気がやけに張りつめていた。緊張してる1年や2年の生徒たちが、プリントを握りしめたままこっちを見ている。


 谷村が軽口で場をほぐそうとしているのを横で聞きながら、黒川は一番前の席に座る女子を見た。友達と机をくっつけて、肩に寄りかかるようにして笑っていたが──


 その笑い方が少し不自然だった。


(雰囲気と笑顔がチグハグだ…)


「3年の黒川と谷村だ。よろしく頼む。…遠慮なく質問してくれよ?」


 自分でもわかるくらい、声を明るくした。

歯を見せて笑う。そうしておけば、大抵の人は安心する。


だけどその子 ──


 白石晴夏と名乗った女子だけは、ほんの少しだけ目を細めた。探るような、でも怯えてはいない瞳だった。


(……面白い目を、してる)


「先輩、この問題なんですけど……」


 晴夏が恐る恐るノートを差し出してきた。答えだけ見れば悪くない。けれど途中の式が、少しだけずれていた。


「ああ、ここな。展開を焦ったな。見て」


 ペン先で式を指しながら、要点だけかいつまんで説明する。晴夏の視線は、途中からノートじゃなく黒川の手元を追っていた。


「あ、なるほど……ここで符号の処理を変えれば──」


 途中で理解した瞬間の顔が、目に焼きついた。ぱっと光が差したように表情が明るくなって、次の瞬間には自分でも驚くくらい自然に笑っていた。


(この子、ちゃんと考えてる)


 黒川はわずかに目を細めた。そして、口の端を上げる。


「そう。今の考え方の方が正しい」


 彼女が嬉しそうに頷いたとき、胸の奥で何かが小さく鳴った。


 理解される、ということの気配。


 自分が教えているのに、何故か“教えられた”気がした。



 質問会が終わった後、谷村がからかうように言った。


「お前、さっきの白石って子、めっちゃ見てたな」

「……そうか?」


 黒川は笑ってごまかしたが、胸の奥で鳴った小さな音が、気になって仕方なかった。




夏。地区大会決勝。


 照り返す太陽の下、汗が黒川の額を伝う。ラケットを握る手がいつもより重い。


(集中しろ。考え事してる場合じゃない)


 ネット際で谷村と目配せし、サービスを叩き込んだ。相手コートに鋭い音が響く。観客席からの拍手が聞こえる。


(白石の笑顔。あの理解した顔……)


 視界の端で誰かが揺れた瞬間、ボールが足元に落ちた。


「黒川!」


 谷村の声で我に返る。取りこぼした。彼らのダブルスは、2位を確定させた。



「2位か…。俺達なら、余裕で勝てただろ」


 谷村がペットボトルを投げてくる。黒川は受け取らずに地面を見る。


「春までより動き鈍いぞ。最近ずっとだ」


 谷村の声が低い。


「集中できてないだけだ」


 目の下のクマを隠すように黒川は笑った。


「嘘つけ。あの子と会ってからだろ」


 谷村が地面を蹴り、黒川は言葉を失った。


「もう会うな。テニスも勉強も、お前壊れるぞ」



 9月、模試の結果が返ってきた。志望校の隣にはD判定の文字。


(前回までは、A判定で、5位だったのに…)


 全国5位だった自分が、惨めなアルファベットに並ぶ。テニスも勉強も、ダメになった。



 晴夏は、ボランティア部の活動後、部員からの情報が気になって、黒川の事を心配していた。


「大変だ!黒川先輩、A判定からD判定になったらしいぞ!」

「うそ!?」


(先輩…。先輩…!)


(3年生の教室…。見つけた!)



 放課後。黒川は自分の席に突っ伏していた。パタパタという足音が聞こえたかと思うと、ドアが静かに開いた。のろのろと顔を上げると、走って頰を上気させた白石晴夏が近くに立っていた。


「先輩…。…大丈夫ですか?」


 胸の奥で何かが砕けた。


「…来ないでくれ」


 掠れた声。それは、黒川の壊れかけの願いのようだった。晴夏は立ち止まる。でもその背の丸まり方が、どうしても気になった。


「先輩……」


 一歩近づき、覗き込む。


 黒川のいつもキラキラ光っていた瞳は、日本刀のような輝きを失い、揺れていた。目の下の影が深く、触れたら崩れてしまいそうな顔。いつもきっちりとセットされていた前髪は、崩れていた。


「心配なんです」


 その言葉に彼の理性が切れた。


 ゆっくりと立ち上がり、晴夏の肩に、驚くほど優しく手を置く。黒川の指が、壊れ物を扱うように震えている。


 息がかかる距離。静寂の中で、二人の鼓動だけが聞こえた。


「黒川先輩?」


 晴夏がきょとりと彼を見上げた次の瞬間、唇がグッと押しつけられた。

抑えきれない衝動。熱と力。


「…っ!」


 晴夏が息を呑む音が、教室に響いた。彼女の胸の奥で、薄氷が割れるような音がした。



 黒川の手が肩から滑り落ちる。


 2人の影が離れた時、晴夏は何かを言おうとして口を開いたが、何も言えずにドアに向かって走り出した。


 彼女の後ろ姿を、黒川は追えなかった。自分で何をしたのか理解した顔で、床に座り込んだ。


 夕方の光が教室を橙に染める。蝉の声が遠くで鳴り続けていた。


 谷村の言葉が、頭の中で繰り返す。


「お前、壊れるぞ」


 もう、壊れてしまっていた。



 夕陽の中、晴夏は公園まで必死に走った。公園には誰もいなかった。砂場には、先程まで子供が遊んでいたような跡が残っていた。


「私…。わたし、もう…誰も、…好きには、ならないっ…」


(私が、あの人の目から輝きを奪ってしまった…)


 その場で座り込んだ晴夏は、幼子のように泣きじゃくった。



 月日は流れ、卒業式の喧騒が遠くに聞こえる中、谷村先輩が晴夏を見つけた。


「よぉ、白石。噂のエリートキラー本人だな」

「…え?」


いつもの軽口。でも、目だけが氷のように冷たい。彼の切れ長の目がキュッと細まり、嘲るように問いかけた。


「無自覚エリートキラー。黒川もその一人だろ?」


 晴夏は言葉に詰まる。谷村は笑顔のまま、続ける。


「噂は本当になったな。あいつ、壊れちまったよ」

「……それは」


 谷村は地面の草を踏み、皮肉っぽく笑う。


「ま、卒業したしな。…せいぜい気をつけろよ。」


 彼の背中が遠ざかっていった。晴夏は自分の手を見下ろした。


 確かに、何かを壊す手のように見えた。



(私は、エリートキラー……)



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