12話 誰かを傷つけないために
晴夏は、表情の抜け落ちた顔で、谷村に問いかけた。
「彼女さんは……?」
「ああ、いたさ。チア部の可愛い後輩がな。…あの日から女性が信用出来なくなって、別れたよ」
谷村の氷の瞳は、少し揺らいでいた。
「黒川とは、いっしょに理三に行こうって約束してたんだ。あいつは俺よりも成績が良かったのに…。受かったのは俺だけだった」
言葉が、出てこなかった。
(私、何も知らなかった…)
「ほら、落としたぞ」
谷村は紙袋を拾い上げて、晴夏へもう一度手渡した。
「中身、ちゃんと確認したか?」
「婚姻届と、結婚指輪と、婚前契約書…」
「ああ。白石のハンコは100均で売ってたから、先に押しておいた」
婚姻届を確認すると、後は晴夏が記入するだけになっていた。晴夏の保証人欄には、『黒川 誠』の記載と捺印がされていた。
「保証人欄の、黒川って…」
「あいつの親父さんだ。黒川は、心を壊してから海外に行ったきり。ほとんど連絡も無いそうだ」
谷村はアイスコーヒーを啜ってから続けた。
「…これ以上誰かが苦しい思いをするのは、ここで終わりにしなきゃならない」
婚姻届を書き終えた晴夏は、婚前契約書の内容確認に移った。
<契約内容>
・GPSアプリをスマホに入れ、24時間切らさない事
・市立病院で経験を積んだ後、36歳からは谷村の実家の病院で働く事
・後継確保の為、2人以上出産する事
それまでは夜勤を禁止とする。体質的に困難な場合には、養子を取る事に同意する事。なお、谷村や他の医師が不妊治療が必要と判断した際は、受け入れる事。
・上記を守る限り、谷村は衣食住や子供の養育費等を保証する
・違反時は親権は谷村に譲り、3000万円を支払う事
「これでもう、誰かを傷つけなくて済みますよね……?」
「俺がそんな事は絶対にさせない」
晴夏は、契約書へサインをした。
「1枚はおまえが持ってろ。スマホ貸せ」
谷村は彼女と連絡先を共有してから、晴夏のスマホにアプリを入れるように指示し、GPSを彼のスマホと共有させた。
「次は顔合わせと人前式の準備だ。両親に伝えておけよ?」
「はい。…母は昨年末に亡くなりました」
「そうか。式にはあやちゃんも呼んでいいぞ。母校が見える場所を予約するつもりだ」
晴夏は、凪のように微笑んだ。
「ありがとうございます……」




