1話 指先0.5秒
新芽が色づく頃、白石 晴夏は、カルテに記された名前を見て首を傾げた。
(美澄 耀…まさかね。)
晴夏は副看護師長とともに病室の扉をノックし、彼女の後に続いて中に入った。
「おはようございます。美澄さん。点滴交換に参りました」
ベッドの上で微笑むあの人は、高校生の頃に2つ下の学年だった後輩だ。
「おはようございます。 …お久しぶりです、白石先輩。」
あの頃と変わらない、そこにいるだけで周囲の空気を静謐にするような清らかさを、今もなお身に纏っていた。
もしも晴夏が、『今までの人生で出会ってきた人のなかで、1番の努力家は、誰?』と聞かれれば、真っ先に美澄 耀の名を挙げるだろう。なぜなら入学式のスピーチで、命を守る仕組みを作り出したいと語った内容の通りに高校入学後すぐに投資同好会を設立し、1年後の秋には同好会の利益で病院への寄付を行なっていたからだ。
「いったい、どうして…」
「少し無理をしたら、体調を崩してしまいました。大学が春休み期間で良かったです」
晴夏は点滴交換準備を続けながら話しかけた。
「大学生活は順調なの?」
「はい、ゼミ仲間とも教授との仲も良好です。教授は、褒める時に相手を音楽家に例える癖があって。君は、投資界のモーツァルトだ!なんて言われた時は照れくさかったです」
「高校生の頃から凄かったものね。新聞の記事、読んだわよ」
「先輩も読んでくださったんですか?嬉しいです」
(…読むに決まってるじゃない。大事な後輩なんだもの)
あの記事は今も、晴夏が大切に保管している。
(両親が興奮しながら新聞の記事を見せてくれたあの時。あなたの事を誇らしく思うと同時に、受験の関係で同好会に入らなかった事を少し寂しく思っていたの)
「同好会を作った時は先輩は3年生だったから、お誘い出来なかったんですけど。…先輩もまずは貯金から、一緒にやってみませんか?」
「…誘ってくれて、ありがとう。私は止めておくわ」
(私の場合は、投資資金を貯めるよりも先に、生活防衛費を貯金するところからなんだもの…)
「それでは、交換しますね」
そう言って晴夏はテキパキと手順通りに動いていく。
(先輩、今まで頑張ってきたんだなあ…)
少し点滴のチューブが引っ張られているのに気づき、直そうとした2人の指先が一瞬触れて、耀はビクリと震えた。
「あ、ごめんなさいね」
晴夏が輝くような笑顔で謝るのを見て、耀は押さえ込んでいた気持ちが湧き出した。
(先輩の指先…温かかった。今までの頑張りが報われたような気持ちになりました…。ありがとうございます)
(この先会う事はもう無いと思っていたのに。実家で倒れて、運び込まれた先が先輩の働く病院だったなんて…。ずっと蓋をしてきた気持ちがまた溢れ出してきた)
晴夏と副看護師長が病室から出て行こうと歩き出した時、耀は呼び止めた。
「白石先輩、少しお話をさせてください。…私は、高校の時から先輩のことが好きです。先輩の輝く笑顔に何度も元気づけられました」
(清らかすぎる美澄さんを、穢したくない……!)
振り返った晴夏の顔は、薄化粧をしていても分かるくらい青ざめていた。
(どうしよう…。先輩を困らせたい訳じゃなかったのに…)
「わ、私…同僚15人から、告白されているんです。…だから、清らかすぎるあなたとは、付き合えませんっ!」
(…15人!?)
副看護師長は片眉を上げた。
「そうですか…。先輩、美人ですものね」
耀は、力無く笑った。
耀の病室を出て角を曲がったところで、副看護師長は晴夏に優しげな声で話しかけた。
「白石さん。美澄さんの担当を外れなさい。サブ担当は他の子に頼むわ」
「副看護師長…。ありがとうございます!」
それまで張り詰めた表情をしていた晴夏が安堵のため息をつくと、副看護師長は、ドヤ顔で親指を立てた。
(…ずっとついていきます。副看護師長!)
数日後。休憩室では、燿の噂話で持ちきりだった。
「502号室の患者さん、もうすぐ退院できそうで良かったね〜!」
「国立大学の学生さんなんでしょう?将来有望じゃーん!」
「うんうん。なんかね、お見舞いは家族だけじゃなくて、大学教授も高速飛ばしてお見舞いに駆けつけたらしいよ!」
「白百合みたいなイケメンもお見舞いにちょくちょくきてたよ。目の保養になったわ〜」
「…でもなんか最近振られちゃったらしいよ?」
「えー、可哀想。天使みたいに可愛いのに〜」
(あの時私が断ったから、噂になってる…。どうしよう)
その時あやちゃんが、休憩室に入ってきた。
「お疲れ様でーす。…なんか夜勤の見回りの子が、夜中も起きて株価確認してたって言ってましたよ」
「ええー!?過労入院なのに?」
「なんで命削ってまでそんなに打ち込んでるの!?」
「なんででしょうねー」
それから、飲み物を取りに行く途中で晴夏とすれ違う時に、囁いた。
「ハルちゃん…。美澄さんが退院後のシフトが被ってたら、休憩室でちょっとお話しよ?」
耀の退院後、休憩室。晴夏とあやちゃん、ももちゃん、鈴木さんも飲み物を持って座っていた。あやちゃんは個包装の焼き菓子を手渡しながら、晴夏に問いかけた。
「ハルちゃん…。美澄さんの告白を断ったのって、ハルちゃんでしょう?あの子、昔から素敵な子だったのに、どうして?」
「ええー!?2人とも美澄さんと知り合いだったの!?」
「同じ高校だったんですよー。2つ下なので、私は話した事はないんですけどね。ハルちゃんは、話しかけられてる所を何度も見た事がありましたよ?」
「そうなの?ハルちゃん、話聞きたーいっ」
晴夏の2つ隣の席に座っている鈴木さんは、彼女達の方に目線を向けながら、口を開くのを静かに待っていた。休憩室の隅でそれを見ていた、特技は隠密の看護師、三木はコーヒーを飲む真似をしながら内心ハラハラしていた。
(ハルちゃん、<スピーカー鈴木>が静かに注目してるわよ!彼女が噂を耳にしたら3日以内に全職員、患者さん達に広めちゃう〜!!速度は7G並みなのよ!誤解されるような事は、絶対言わないでー!!)
「…美澄さんは、私の偽物の笑顔を好きになってしまうくらい純粋な人なので、断らないとと感じて、嘘をつきました」
(ハルちゃーん!?)
三木は内心頭を抱えて絶叫した。




