謎と鼻血と恋心
赤いアーチを教室に作る女、桜山しのぶ、16歳。
そんな異名、全く嬉しくないのだけど、どうやら学園内では、桜山しのぶの赤いアーチにかかる虹を見た者は、幸運が訪れると噂が広まっているらしいよ!
(幸運って何よ、なんの根拠もない)
「都市伝説とかさー、ネットの不思議な話とか、そういうのって根拠とかないでしょ」
なっちゃんが生真面目に言った。
しのぶの鼻血にかかる虹がラッキーアイテムだってのも、都市伝説みたいなもんなんだよ。根拠なんかいらないんだよ、きっと。
鼻血を噴いて保健室に運ばれ、わたしはしゅんとしていた。何がラッキーアイテムよ。
ベッドで体を起こしたら、まだ寝ていた方がいいよと、なっちゃんに言われた。鼻の穴にティッシュを詰められた姿、とても乙女っぽくない。こんな姿を、わたしはもう何度、お慕い申し上げる服部君に見られているのっ。
保健室の白い天井を見ていたら、ほとほと悲しくなった。
「泣いてるのー、しのぶー」
気の毒そうになっちゃんが声をかけてくれる。なっちゃん、本当にいい友達。鼻血を噴いてぶっ倒れたわたしに付き添ってくれて、授業の方はいいんだろうか。ぼそっと聞いてみたら、てへっと照れられた。あ、そうか、と気づく。
なっちゃんには、素敵な彼氏がいるんだった。結城君なら授業の黒板をこまめにノートして、後で見せてくれるだろう。
いいなあ。
わたしの恋が成就する事なんて、この先あるんだろうか。
好きな人を眺めて鼻血を噴くなんて、まるで変態おやじじゃないの。
心に溜まってるもの、吐き出しちゃいなよ。なんでも聞くよー。
なっちゃんが聞いてくれる。
保健室は冷房がほどよく利いていて、教室よりよほど快適だった。鼻血を出し過ぎて貧血を起こしているのだろう、とてもだるいので、このまま寝てしまいそう。
半分ぼーっとしながら、心に鬱屈するものを、ぼそぼそ話してみた。
「もしね、鼻血を噴きながら告白されたら、なっちゃん、嬉しい」
ゆるい沈黙が落ちた。
わたしは恐る恐るなっちゃんを見る。丸椅子に腰かけ、ベッドのはしに頬杖をついたなっちゃんは、眼鏡の奥の目でにこにこ笑っている。
なっちゃんは言った。
「引く」
呼び出した放課後。がくがくぶるぶるしながら服部君を待って、彼が現れた瞬間に吹きだす鼻血ぶしゅー。
ぶしゅぶしゅ噴き出しながら、うちで練習してきた最高の笑顔で彼を見つめる。目があった瞬間に鼻血最高潮。赤いアーチ。
「好きです付き合ってください」
(ないわー)
自分でも分かっている。
ない。これは絶対に、ない。
服部君はとても優しくて頼もしくて、保健室までわたしを背負って運んでくれたのも彼だったらしい。
あの素敵なお背中にもたれて運ばれたのかと思うと、その記憶が自分にないのが歯がゆくて仕方がない。服部君の夏服の背中、温もり、ああ考えたらまた鼻血が。
(もし、服部君が、わたしの鼻血の理由を知ったら、今まで通り親切にしてくれるだろうか)
そう思ったら、もうたまらないほど不安が込み上げてきた。ぐらぐらぐらあ。血の足りない頭が更にぼうっとしてくる。良かった貧血で。こんなに動揺して、普段ならリミッターが外れて暴走しているところだ。
「しのぶの鼻血は、リミッターが外れるのを防ぐために、無意識に体が働いているものなんでしょ」
なっちゃんが優しい笑顔で言った。
うんそうなの、だから鼻血は必要悪なの。鼻血が出なくなったら、わたしはもう今までの桜山しのぶではいられない。肉食怪獣と呼ばれてしまうかもしれない。
鼻血は出したくない。だけど鼻血が出せなかったら肉食怪獣と化し、自分でもなにをするか分からない。がるるるる。
まるで自分の中に危険な爆弾を抱えているようなもの。いつか、音を立てて破裂してしまうんじゃないかと気が気でたまらない。
(服部君に出会う前は、ここまで頻回に鼻血を噴くことはなかったんだけどな)
ちょっとだけ、服部君が恨めしくなる。
ここまで苦労しているのに、当の本人に、恋心は全く伝わらず。切ない。
悶々と保健室の布団を噛みしめている横で、なっちゃんはしきりに何かを考えている。眼鏡が蛍光灯の光を反射して白く輝いていた。
時々なっちゃんは、何を考えているのかわからなくなる。頭が凄く良い子だからかもしれない。くるくる回る思考に、ぽやっとしたわたしは着いてゆけない。
ふいになっちゃんは言った。
「戦国学園の七不思議も、なんの根拠もないものばかりなのかなあ」
七不思議。うちの学園の。わたしはぽかんとした。
なっちゃんは眼鏡を光らせながら考え込んでいる。
「夕暮れ時に四階に行ったらおかしな世界に連れて行かれるっていう七不思議。あれって、確か七番目のやつだったと思うんだけど、一つだけニュアンスが違うんだよねー」
ニュアンスが違う。どういう意味だろう。わたしはぽかんとした。鼻血で染まったティッシュを詰めながら。ぽやぽやっ。
少し考えたら、なっちゃんの言う意味がなんとなく分かった。
他の六つはどれも具体的で、どこの学校でも聞かれていそうなものばかりだ。トイレの花子さんとか、赤いちゃんちゃんことか、首つり自殺したいじめられっ子の霊だとか。
けれど、七つ目の四階の怪だけは、なぜか漠然としていて、なにがどう怖いのか分からない。なるほど、おかしな世界に連れて行かれるのは怖いけれど、一体それがどんな世界なのか、どういう経緯でそんな怪奇が起きるのか、肝心なところは語られていないのだ。
言われてみれば、ひとつだけ色が違う。不自然だ。
なっちゃんはぽそっと怖いことを言った。
「四階の怪だけ、本当のことだったりしてね」
眼鏡が冷たく光った。
ぞくう、と鳥肌が立つ。
なっちゃんが話を続けるより早く、がらっと保健室の戸が開いた。やばい、保健の先生が見に来たんだ。わたしとなっちゃんは顔を見合わせて黙り込んだ。具合が悪くないならすぐに出て行きなさいと怒られそうだ。
しかし、さあっとカーテンを開いて顔を覗かせたのは、先生ではなく服部君だった。逆光になってお顔がよく見えなかったけれど、服部君を正面から目にしただけで、またかっと顔が熱くなってしまう。落ち着けしのぶ、ノーモア鼻血。
「桜山、今日はもう帰るでござる。拙者が送るでござる」
相変わらずの、ござる言葉。
服部君がござる言葉を喋ろうが、関西弁の人だろうが、素敵であることには変わりがない。だけど本当に不思議なんだが、どうして誰も不自然さに気付かないのだろう。
なっちゃんなんか、服部君は別に古風でもなんでもない、普通の男の子だ、とか言っている。観察眼の鋭いなっちゃんが。
(こっちのほうが、七不思議よりよっぽど不思議だわ)
白い褌をきりりと締めた、ござるボーイ。
そつのない身のこなし、優秀な学力と運動神経。端正なお顔だち。
いいなあ、ぐふ、ぐふぐふ。
なっちゃんが、ちょいちょいと突っついた。早く支度しなよ、と、無言で訴えている。口元がにやにや笑っていた。
やったじゃん、脈あるんじゃないの、ラッキー。
なっちゃんはそう思っているに違いない。
服部君。どうしてそんなに優しくしてくれるの。
みんなから冷やかされたら、どうするの。
けれど服部君は、まるで当然のことをしているかのように凛として、照れもせず、淡々と、歩けないなら背負ってゆくがと言ったのだった。
**
まだ午後の授業が残っているので、帰り道はしいんとしていた。
戦国学園を後にして、前を歩く服部君と数歩離れたところを、わたしはとぼとぼ歩いた。
こうやって一緒に下校するなんて憧れだったけれど、側に近づいたらまた鼻血が出るんじゃないかと怖くてたまらない。時々貧血でふらふらするけれど、その度に服部君は素早く察して振り向いてくれた。目が合ったら金縛りにあったみたいに動けなくなる。できるだけ何気なく視線を逸らすようにしているけれど、不自然になっていないだろうか。
夕暮れにはまだ遠いけれど、お日様は少しずつ傾いていて、服部君の足元から伸びる影は細長かった。
その影につま先をそっと触れては、どきどきしている。さっきから一言も会話を交わせていない。どうしよう、毎朝中庭で修練中の彼には気軽におはようを言えるのに。
「拙者、なにか悪いことをしたのであろうか」
と、服部君が言った。えっと見上げたら、服部君が足を止めて振り向いていた。さらさらの前髪から覗く麗しい目。じっとわたしに注がれている視線。
いけない心臓、止まれコサックダンス。服部君はわたしの不自然さをいぶかしく思い、どうしてかと直接聞いて来た。こういう時はどうするべきだろう。
胡麻化すか――やあね服部君、なにもないわよ、気にし過ぎよ。
いきなり逆切れるか――ああん、悪いことをしたかだと、てめーの胸に手を当てて考えてみやがれこの鈍感野郎。
どれも違う。
ティッシュで押さえられているけれど、鼻血は暴れ始めている。
しのぶ、未熟者。わたしは目を閉じて深呼吸した。鼻血よりももっと優先すべきことがある。服部君は真摯だ。わたしも真摯にならなくては。
ぬるい風が吹き抜けて、モスグリーンのスカートが揺れる。服部君の前髪も揺れる。
「悪いのは服部君じゃないよ。わたしが悪いの」
と、わたしは言った。
服部君の目が鋭くなった。じっとわたしを観察している。納得がいかないという目だ。
「悪いとはなんのことか」
と、まるで決闘を申し込む時代劇の侍みたいな調子で言うので、わたしは今にも崩れそうになった。
「鼻血を出したり、服部君をまともに見ることができないこと」
と、わたしは正直に口に出した。そして、自分の言った際どい言葉に、ぶはっと鼻血を噴射させた。詰め物はコルク栓のように吹き飛び、ぴしゅっと赤い飛沫が散った。
幸い、思い切り鼻血アーチを出した後だから、もう威力はない。服部君に届くことなく、鼻血の噴水は短く途切れた。
鼻血を流しながら涙をこぼすわたし。
それを見つめる服部君。
鼻血さえなければ、絵になったものを!
(ちくしょう鼻血)
「よくわからぬが、桜山の鼻血が早く止まると良いと思う」
服部君は気の毒そうに言った。わたしは項垂れた。ありがとう服部君、と言ったら、いや、心からそう思う故、と切り返された。
わたしのカバンを持って、数歩先を服部君は歩く。
その隣に並んで歩けたらどんなに幸せだろう。
成宮姫子さんみたいに、颯爽と服部君の横を、肩が触れ合う程の距離で歩いて行けたなら。
もうすぐ桜山に着く。家が近づくにつれ、わたしはどんどんブルーになる。ああ、またおばあさまに怒られてしまう。それに、こんなに鼻血を噴いた日でも、修練は休めない。
毎日帰宅後、わたしはおばあさまが見守る中、桜山のお屋敷の秘密の道場で修練をする。それは、小学校の時に、桜山に住むようになってから毎日続いていることだ。
「しのぶ、桜山の女である限り、強く、かつ美しくあらねばならぬのです」
ぶいんぶいんぶいん。重たい丸太が何本も天井からぶら下げられて振り子のように揺れるのを、避けたり蹴ったりしながら防ぐ修練とか。
ばばばばばっ。いきなり壁から無数の矢が飛び出してくるのを、避けたり手刀で叩き落したりする修練とか。
その日によって、なにが待ち受けているやら分からない。何度、めげそうになったことか。
あーあ、憂鬱。桜山のうちを継ぐなんて。
こういう時、ママが生きていた、遠い昔に戻りたくなる。
もうすぐ桜山のお屋敷の屋根が見えるところで、服部君は足を止めずに言った。
「桜山、単刀直入に聞くが、貴殿は秘伝の書がどこにあるのか、よもや知るまいな」
秘伝の書。あの、汚い巻物か。
服部君に聞かれたら、うんわたし持ってる、とペラペラ言いたくなるけれど、今日はそんな気分にはなれなかった。
成宮姫子の件や、転校生の風間君のこととか。
服部君まで秘伝の書のことを言うなんて、なんだか悔しくなった。
「知るわけがないよ」
と、わたしは答えた。
そうでござるか、と、服部君は淡々と答える。
桜山の門が見えて来た。うう。おばあさまのお小言が待っている。空は薄っすら、赤味がかっていた。