好きでござる
ふおおーお、ふおおーお。
どこかで聞いたことがある音。そうだこれは、ホラ貝の音だ。今にも戦が勃発しそうな不穏な曇天の下、草原は広がる。
見渡す限り風に揺れる草の海。だけどよく見たら、あちこちに折れた矢のようなものが突き立っていた。変なにおい。そして、何だろうこの、うっすらと煙るようなもの。
わたしは茫然と立ち尽くす。
ここには前にも来たことがあった。髪の毛が風になぶられ、制服のスカートもはためく。
心細い。なんだか怖いことが起きそうな気がする。服部君、服部君、どこにいるの。
(そうだった)
ふと気づく。わたしは服部君を追って、四階までやって来た。そして美術準備室に入る彼を見て、自分も中に入った。
それからいきなり、こんな場所に飛び出してしまった。
わたしはただ、徹夜で思いのたけを書いたラブレターを彼に渡したかっただけ。
気持ちを知ってほしいだけ。できればわたしのほうを向いて欲しい、笑ってほしい、名前を呼んでほしい、桜山、ではなく、しのぶ、と。
手には大事なラブレターが護られているはずだった。けれど、なんだか感触がおかしい。
あれっと見ると、それはそれは汚らしい巻物が手に握られていた。
「それを寄越せ」
ひゅっと黒い影が目の前に現れて、いきなりわたしを組み敷こうとする。
「ふんっ」
不意打ちに反応し、リミッターが素早く外れる。わたしは相手より早く動き、敵の背後を取る。すぱこーん、と、回し蹴りをかますと、黒装束のひとはじたばたと草の中に転がった。
その手には、わたしのラブレターがしっかり握られているではないか。
「あんたこそそれ寄越しなさいよっ、なに奪ってんのよっ」
おんどりゃああああっ。
わたしはすかさず相手にとびかかる。黒装束氏は覆面の下で、目を血走らせている。やばいこのオナゴやばい。何か言っている。煩い黙ってそれを返せ。
「おぬしは何者ぞ」
と、ラブレター泥棒の分際でそいつは言う。まともな現代語で喋るが良い。こんな覆面こうしてやるわ。
わたしは相手の両手首を片手で固定し、もう片方の手で顔の半分を覆っている覆面をはぎとろうとした。「んー、んー」まるで暴漢に遭遇したかよわい女子みたいに覆面男はイヤイヤをしている。
ジャニーズっぽい良い顔立ちしてるみたいだけど、涙ぐんだって通用しない。
「成宮の手の者だな」
と、覆面男ははぎとろうとするわたしの手を右に左にかわしながら言った。
勝手に決めつけないでいただきたい、成宮の手の者ってなんだ、わたしはごく普通のおっとり女子高生なのよ。
「この書状がそれほど大事か。ということは、これはやはり、成宮の秘伝の書のひとつなのであろう。断じて返すわけにはいかぬ」
覆面男はそう言った。
秘伝の書?
なに言ってんだ、それはわたしが徹夜で書いたラブレターフォア服部君。
「わけわかんないこと言ってないで返しやがれ」
と、なかなか覆面を外せなくていらいらしていたわたしはブチ切れる。ふんがふふ。いけない、リミッター第一弾が外れた後の、第二弾が近い。だからわたしを怒らせてはいけないのよ。
ぶしゅー、ぶしゅー。頭のてっぺんから湯気が立ち上る。どうしてくれるのよ、このままだとわたし、取り返しがつかないことになっちゃう。
そうだ、ラブレター。
はっとした。覆面よりもラブレターだ。この野郎、わたしの大事な命がけのラブレターを、どこに隠しやがった!
どかんと衝撃が走って、わたしは目を覚ました。ベッドから転がり落ちていた。
ふとんを抱きかかえて転がりまわっていたみたい。ねぼけまなこでカーペットの上に座り込んでいたら、足音が近づいてきて、瀬戸川さんが血相をかえて部屋の襖を開いた。
物凄い音がしましたが、大丈夫ですかしのぶお嬢さんっ。
かっぽう着姿で、慌てて飛んできたんだろう、瀬戸川さんは片手にオタマを握りしめている。
「大丈夫です。ごめんなさい」
わたしは慌てて立ち上がる。
瀬戸川さんは心配そうにしていたが、台所が忙しいのだろう、すぐに引っ込んで戻っていった。
時計を見ると、七時を回ろうとしている。いい加減、身支度をして朝食の席に行かなくては、またおばあさまに怒られる。
**
パジャマから制服に着替えている時、さっきまで見ていた変な夢のことを思い出した。
美術準備室から繋がる、戦国時代みたいな変な世界。そこで出会ったおかしな黒装束。奪われたラブレターと、間違ってわたしの手に渡った汚い巻物――今その巻物は、なっちゃんに言われた通り、勉強机の鍵のかかる引き出しにしまわれていた。
このあいだの土曜日、うちに遊びに来てくれたなっちゃんが、巻物を現代語訳していたっけ。レポート用紙に一生懸命書きつけながら、目をきらきらさせていた。
「魔道霊濡の作り方」とか、書いてあったけれど、なんだろう魔道霊濡って。時空を行き来できる爆薬だとなっちゃんは言っていたけれど、そんなもの本当に作ることができるのかな。
あの黒装束の忍者は、巻物を秘伝の書と言っていた。
ああ、それからわたしのラブレターも、秘伝の書だと勘違いしていたみたい。なんて言ったか――ああ、そうだ――成宮の秘伝の書。
成宮。
はっとした。
成宮の手の者、成宮の秘伝の書。黒装束は夢の中でそう言った。
これはあくまで夢のはなしだ。妙にリアルだったけれど。
成宮と言えば、うちのクラスの委員長、成宮姫子さんを思い出す。いつも服部君を従えて、服部、と呼び捨てにする、高貴なあのお方。
そういえば服部君はもう、ごはんを食べただろうか。
制服のリボンを結びながら廊下を行く。
縁は開かれていて、雨の上がった庭園から清々しく光がさしていた。今日も暑くなりそうだ。
居間に向って歩いていると、しゅるしゅるしゅたんと庭から音が聞こえた。僅かな音だったけれど、わたしの耳は逃さない。はっと立ち止まって振り向くが、松の木の枝が連なり、池には錦鯉が泳ぐだけ。
んっと目を皿のようにして集中した。錦鯉が泳いでできる波紋に、別のなにかが映った。
「朝ごはんは食べたの」
と、わたしがその方向にむかって言うと、松の木の枝からすたっと服部君が降りて来た。きりっとした御姿に、あやうく鼻血が出そうになる。駄目だ朝から。
服部君はすでに制服姿で、きちんと身支度を整えていた。
朝の修練とか言って、うちの庭の木の枝から枝を飛び移っていたり、屋根まで駆けのぼっていたり。最初は驚いたけれど、もう慣れた。
というより、わたしもおばあさまから、それ以上の修練をさせられてきた。
「先祖代々、このように修練することを義務付けられている故、失礼つかまつる」
と、服部君は言っていたけれど、まあそういうお家もあるかもしれない。わたしはあまり気にならない。ぽやぽやっ。
おばあさまも服部君の朝の修練についてはなにも言われない。淡々と、「朝食にします」と言うだけだ。
居間のちゃぶ台で、おばあさまとわたしと服部君の三人で食事をする。
ぼうっとして、お茶を何度も零しそうになる。服部君がうちにいる。ごはんを食べる時、それを実感してしまう。向かいに座り、さばさばと箸を使う華麗な御姿。あー素敵。
「桜山、鼻血」
ふと服部君が、箸を使う手を止めてわたしを見る。つー、ぽたっ。鼻血がちゃぶ台に落ちた。
「良いのですそのまま放っておきなさい。これも修練なのです」
おばあさまが言った。
修練、修練っと。
ハンカチで鼻を抑えながら、わたしは心を食事に集中させようと試みる。とまれ鼻血よ鼻血よとまれ。
鼻血現象は、わたしのリミッターが外れるのを防ぐために起きること。鼻血を出さなくても心を平穏に保つようにしないと、わたしは一生、服部君を見る度に鼻血を噴かなくてはならない。
血がいくらあっても、足りなくなる。
そして、このところ、毎食のようにレバーを使ったおかずが一品添えられていた。ありがとう瀬戸川さん。
ごはんを食べ終わると、服部君はいちはやく立ち上がった。
彼はいつも、わたしより先に学校に向かう。成宮姫子さんをお迎えしなくてはならないからだと彼は言う。
「あの方は、主君故」
と、服部君はわけのわからないことを言ったけれど、付き合っているという訳ではないらしいので、気にしないように努めている。
「いってらっしゃいませ」
いつものように特大超豪華なお弁当を持たせてくれながら、瀬戸川さんが門前で見送ってくれた。
「いってきまーす」
瀬戸川さん大好き。いつもわたしのことを気遣ってくれて。パパの分のお弁当も凄い量みたいだけど、パパ、本当にあれぜんぶ食べてきているんだろうか。
今日も良い天気だ。
てくてくわたしは歩いてゆく。戦国学園一年生。モスグリーンのスカートは名門校のお嬢様の印なので、町でも注目される。気恥ずかしい。
からっと晴れた空を見上げながら、ぷはっと息を吐いた。そして、改めて幸せをじわじわ噛みしめた。
あー。服部君と、一つ屋根の下。
「ぐふぐふ、ぐふ」
笑いがこぼれた。
ラブレターとか、鼻血とか、変な巻物とか、変な忍者とか。
色々あるけれど、つまり、わたしは、もう、絶対的に、服部君をお慕い申し上げている。謎が煙のようにもやもや立ち込めていようとも、その事実だけは変わらないのだ。
いつか鼻血を克服したら、面と向かって服部君に言えるだろうか。ラブレターじゃなく、言葉で。
「好きでござる」と。