終
虹色の煙を吸ったら、甘い味がしたのよ!
ああ、これお砂糖の味。わたしは思い出す。
なっちゃんが言っていた。魔道霊濡の材料にはお砂糖が入っているって。
見た目も美味しそうなスイーツみたいなんだけど、きっと、お味も甘くておいしいんだろうな。
その、甘い香りの煙の中で呆然としていると、なんだか視界がぐにゃんと歪んで、いろいろなものが一気に見えてくるような気がした。
遡る時の流れ、泳ぐ黒髪の切ない感じ。お父様、時空を超える姫子をお許しください――嘆きの姫君の呟きが流れてゆく。ふっさりと閉じられた綺麗な睫毛から、こぼれる透明な涙。
これは何だろう。
視覚だけじゃない。聴覚、嗅覚、さまざまな感覚に、問答無用で取り込んで来る感じ。
あまりにも切なく理不尽な昔語りは重々しく脳内で紡がれ、ささやかな歴史の扉は重い音を立てて開かれてゆく。それは豊かな地方城主、代々栄えて来たけれど、戦乱の世に入り、家臣から裏切りが出た。
裏切った一派が攻撃をしかけ、不意打ちのように戦が始まった。それは卑劣かつ狡猾なやり口で仕掛けられた戦いで、まもなく城は破滅に向った。
徳の高い城主は敵側に捕らえられ、首をはねられるのを待つだけとなった。
城に残されたのは年頃の美しい姫君。彼女は賢く勇気もあった。
「成宮の秘伝を使い、時空を超えて、血脈を繋ぐ」という大胆な選択を、姫君は選んだ。裏切り者に足をすくわれ、一族の血が絶えることこそ、本当の敗北なのだ。遙か未来、見たことのない時代であっても、生きてさえいれば命を紡ぐことができる。
生き延びなくてはならぬ。
「服部。魔道霊濡を使います」
姫はそう告げた。幼いころからかしづいてきた従僕は従った。どこまでも我が主に着いて参ります。御守り申し上げます。
命をかけて、主君を護るのが当然の時代。
それは、ずっとずっと昔の、とても悲しい物語。
**
虹色の靄が少しずつ薄れる。
満点の星空だったはずが、一点に暗黒の円が生じており、それはぽっかり口を開いた生き物のようだった。
「おのれ、時空の扉を開けおった」
風間君は怒鳴ると、猫が跳躍するように姫子さんにとびかかろうとした。
同時に、ラブレターをなんとかして取り戻したいわたしは、服部君の腕から飛び出して、風間君に強烈パンチをぶつけたのよ!
怒りの一撃!
「なんでもいいからラブレター返せ」
姫君も戦も関係ない。ラブレターフォア服部君。渾身のラブポエム。それこそ地獄の果てまでついていく、返してもらうまで。
姫子さんは優雅に一歩退き、わたしは風間君の顔面に食い込みパンチを喰らわせ、「ほげ」と世にも間抜けな空気が抜けたような声が聞こえた。
風間君の懐から白い紙切れが覗いているじゃないか。それこそラブレターである。わたしはとっさに手を伸ばしてそれを掴み取った。
だけどあまりにもダイナミックに動きすぎて、肘にぶらさげていた生理用品巾着の紐がするっと腕から抜けてしまった。ぽおん、と、綺麗な曲線を描きながら、秘伝の書入りの生理用巾着は夜空を飛びあがる。
「あっ」
「あっ」
服部君と風間君が声を上げ、颯のように動いた。一瞬の事だった。
「秘伝の書」
「おお、そのおなごの月の不浄巾着の中に秘伝の書っ」
月の不浄巾着。現代語訳すると、生理用品入れか。
風間君はともかく、服部君、どうしてわたしの生理用巾着の中に秘伝の書があるって知ってるのよ!
(忍者の勘よきっとそうよそうに違いないわよっ)
一秒くらいの間でわたしの脳みそはめまぐるしく色々なことを考えたものだ。まさか服部君、わたしの部屋やらカバンの中やら盗見したりしてたんじゃなかろうね?
男子の口から生理に関わる言葉が出ると、微妙な気持ちになってしまうのよ。今はそんなこと考えている場合じゃないけれど。
黒装束の風間君はともかく、Tシャツにトレパン、便所スリッパの服部君が天高く飛び上がり、生理用品入れに手を伸ばす有様は、なんとも言えないものがあった。
せめて便所スリッパじゃなければ。せめて生理用品入れじゃなければ。
絵になったものを!
(いやいやいや、そういうことじゃないっ)
月の不浄巾着を手に入れようと、バスケットボールのジャンプボール争いみたいに飛び上がった二人。
その頭上には真っ黒いものが口を開いている。コオオオオオ。その丸い暗黒の穴は、なんだかいろいろなものを吸い込んでいるみたいだ。
フオオオーオ、オオー。
ホラ貝を吹いている兵士その一が、ぐるぐる回しながら吸い込まれてゆく。吸い込まれながらもホラ貝を吹いているからドッペル効果みたいに音が伸びていた。煩い。
がちゃこんがちゃこん。鎧兜の武者たちが。
エイエイオー。
ときの声をあげている足軽どもが。
鳴門の渦に呑まれていくような勢いで、くるくる暗黒の中に吸い込まれてゆくではないか。
ぼぼっ、ぼっ。
風にあおられて音を立てる松明が目の前を舞い飛んで行き、暗黒の中に飛び込んで行く。
「時空の扉が開いたのです」
背後で落ち着いた声がした。振り向くと、風にあおられる黒髪を手でおさえながら、制服姿の成宮姫子がすっくと立っていたのだった。
その麗しい白い顔。ほっそりとしていながら凛とした姿。
まさに姫の気品。
桜色の艶やかな唇で、姫子さんは言った。
「しのぶさん、その羅武霊侘阿こそ、毘沙門天の勝利の札。それは無敵の護符となりましょう」
羅武霊侘阿。
ラブレター。
無敵の護符、これがかよ。
「あんたまで何言ってんのよ」
と、わたしは思わず口が滑って言ってしまった。
そんなことより、だ。
生理用品巾着の取り合いのためにジャンプボール状態の二人、なんだか吸い込まれつつあるような気が――気のせいではなかった。
便所スリッパの服部君がぐるぐる回り始めている。風間君もだ。
回りながら、二人して生理用巾着を取り合っている。
このままじゃ、風間君はともかく、服部君まで時空の扉の中に吸い込まれてしまうじゃないの。わたしは姫子さんを振り向いて怒鳴った。
「なんとかならないの。服部君、時空を越えちゃうじゃないのっ」
姫子さんは黒髪をかきあげた。落ち着いた黒い瞳、長いまつげ。
「ならぬ」
と、姫子さんはこともなげに言った。そして、ふっと物憂い溜息をついたのだった――冗談じゃない。
「イヤアアア」
わたしは叫んだ。我知らず怪鳥みたいな声になる。イヤアアア、服部君、行かないで。
吸い込まれてゆく二人に向かい、わたしもジャンプする。間に合う。今ならまだ間に合う。リミッターの外れたわたしは無敵のはず。月まで飛び上がるようなパワーで真上にジャンプして、服部君を捕まえようと手を伸ばした。
服部君服部君服部君っ。
名前を連呼した。悲鳴に近い声になった。はっとして、服部君がこちらを見てくれる。手は生理用巾着に伸ばしたままだけど、あの怜悧な瞳がわたしを見てくれた。
反射的にわたしは叫んだ。
「服部君、好きでーすっ」
鼻血が出るほど好きでーすっ。
ジェットが足裏についているような気がする。ずっと人に見られたくなくて隠していた力は自分が思っていたよりもパワーがあった。
わたしは組み合っている風間君と服部君の間に、すっぽりと入り込んだ。生理用巾着の紐を掴んでいる服部君の手を握りしめて引き寄せる。服部君の素敵なお顔が、真正面にあった。
吐息が感じられる位、近いところに。
「桜山」
と、服部君が驚いた表情でなにか言いかけたけれど、わたしはそれを接吻で封じた。服部君、目をぐりんぐりんに見開いている。
人生最初のチューをかましたけれど、その余韻に浸ることは許されなかった。
ごごうと耳元で重たい風の音が鳴り響く。うわあと風間君が間抜けな声をあげ、服部君も我に返ったような目をした。
「桜山、離れろ」
と、服部君はわたしを勢いよく突き飛ばす。わたしは体育館の屋根に落ちた。
うまく受け身をとって衝撃を和らげつつ転がる。なんなの、何が起きているの――わたしの真上で、服部君たちは黒い口に吸い込まれて行く。あれよあれよの間に口は時空越えをしてきた者たちを飲み込んでしまい、そして唐突に消えた。
夏の賑やかな夜空が残るばかりである。
わたしは茫然と大の字に寝そべりながら、それを見ていた。
**
「いっちゃった」
へたりこんでいるわたしの側に、さらっと黒髪をなびかせて、姫子さんが立った。
見上げると、夜空の色を写し取ったような瞳で、姫子さんはわたしを見つめている。
「いまいちど、向こうの時代に戻らねばならぬのかもしれない」
姫子さんは呟くように言った。
血を絶やさぬためと思い、戦いから退いてこちらの時代に来た。
だが、あちらでは未だに戦いが続いている。ということは、城の者たちは未だに諦めていないということだ。姫子さんは厳しい顔をしていた。
不利な戦いを強いられた成宮。
戻ったって勝てないかもしれないじゃない。死んじゃうよ。血が途絶えちゃうよ。
いろいろ言いたいことがあったが、なにしろわたしは茫然自失状態だ。へたりこんだまま、ただ姫子さんを見上げていることしかできなかった。
そうだ服部君。
服部君は戦の時代に行ってしまった。どうしたらいいのよ。
わたしは泣きそうになりながら、風間君から奪い取ったラブレターを取り出した。
好きって言えたのに。それどころか、勢い余ってチューまでかましちゃったのに。
ああ、服部君はあの瞬間、何を言おうとしたんだろう。好きですと言ったのはいいけれど、お返事を聞けていない。
そっと唇に触れた。生まれて初めてのチュー。服部君の唇の感触がまだ残っている。切ない。
ラブレターを胸に抱こうとして、はたと気づく。なにこれ。
姫子さんは、長い睫毛の下からそれを見ている。
わたしは唖然とした。
服部くんの手を握って引き寄せた瞬間に、取り換えっこしちゃったということか!
わたしが握りしめているのは取り戻したはずのラブレターではなくて、あの汚らしい魔道霊濡の入った、生理用品巾着なのだった。
(こっちじゃないっ)
**
体育館の屋根から降りる。静かな夜、いつもの戦国学園の敷地内。
夏のにおいが満ち渡る、真夜中のグラウンド。フェンスに凭れながら、わたしは脱力していた。ぶらんぶらんと生理用品巾着を目の前で揺らし、途方に暮れる。
ラブレター。確かに服部君に渡すことはできたよ。
だけど、こういう結末って、どうなんだ。
時を超えたラブレターフォア服部君。ラブポエムを彼は読むのだろうか。
「服部君、死んじゃったらどうしよう」
と、わたしは泣きそうになりながら言った。姫子さんはわたしの横でフェンスに凭れると、ふっと笑った。余裕の笑みだった。
「大丈夫よ。だって服部には、毘沙門天の護符、羅武霊侘阿がついているのだから、その点は心配いらぬ」
「……」
わたしのラブレターが、服部君のお守りになるのか。
ちょっと口元がにやけるのだけど、とにかくそんな問題ではない。
「えっと、もしかしたら、戦のたびに、服部君はあのラブレターを朗誦するってことですか」
恐る恐る、質問してみた。
だって、さっき風間君は、羅武霊侘阿は神秘の伝説の書であり、勝利のまじないのために戦のたびに朗読されるって言っていたじゃないか。
そうしたら姫子さんは、優雅ににっこり笑ったのだった。
「当然そうなりますわよね」
**
服部君。
わたしの鼻血は情熱の赤。
あなたを思う紅の滝。
好きです好き好き愛してる。
あなたにあげたいわたしのはじめて。
全部あげちゃうラブラブラブ。
**
服部君の澄んだ声がそれを読み上げる。
城内の家臣さん達みんなが、それに聞き入るとか?
(絶対に、阻止しなくてはならない)
思わず姫子さんに向き直った。こうしてはいられない。今すぐわたしも「あっち」の時代に行かなくては。
「姫子さん、なんとかして時空を越えましょう」
と、わたしは言った。言ってから、はたと戸惑った。
さっき姫子さんは、最後の魔道霊濡だと言って、あれを投げたではないか。ということは、もうここには魔道霊濡はない。
じゃあ――じゃあ。
うるうるしてきたわたしに、姫子さんは優しく、いいえ天はあなたの味方のようですよと囁いた。
たたたたた。
軽やかな足音が近づいてくる。
「しのぶーっ、いたいたーっ、ねっ、ねっ、どうなったの、鎧兜の武者とか戦とかっ」
興奮しまくりのなっちゃんが、ナップサックになにかをぎっしり詰め込んで走ってくるのが見える。
嬉しそうに眼鏡を光らせ、ほっぺをつやつやにして、大好きな時代絵巻を目撃したい欲求にはちきれそうになっている。
ざっくざっく。
ナップザックになにが入っているの。なんだか、ほんのり甘い香りがするんだけど。
ざっく、ざっく……。
「まだ、魔道霊濡はたくさんあるようね」
と、姫子さんは微笑んだ。
**
ああ、今から?
今から行くの。しかも、この面子で?
「もう終わっちゃったよー。みんな時空を超えて消えちゃった」
と、わたしはなっちゃんに言ったけれど、なっちゃんは目をきらきらさせて、ナップザックを肩から下ろしながら、言ったんだ。
「じゃあ、追いかけよう。これ使って行こうっ」
見たいものを見る。
会いたいひとに会う。
しなくてはならないことを、する。
時空を超える弾薬は、ここに山ほど詰め込んである。
BOMB!
BOMBOMBOMB!
後先を考えている場合じゃない。
なっちゃんが開いたナップザックから、ぽろっと一個、甘い香りのマドレーヌ型の爆薬が零れ落ち、アスファルトに当たった瞬間に、虹色の派手な爆発が起きたのだった。