あなたが時空を超えた人だとしたら
「あ、ほたる」
お風呂上りの浴衣姿で、縁側で涼んでいたら庭に光るものが見えた。ぽやぽやっと見惚れていたら、背後に気配がして、服部君の声が落ちて来た。
「寂しき眺めでござる」
はっと振り向くと、Tシャツ姿の服部君が腕組みをして庭を眺めている。凛とした横顔が暗がりの中に白く浮き出ていた。
すうと通り過ぎる夜風にシャンプーの香りが漂う。
とたんに、心臓がコサックダンスを始めようとするので丹田に気合を込めた――しのぶ、鼻血は気合で止めるもの――おばあさまの叱咤が耳に蘇る。ほんとに気合で鼻血がなんとかなるなら苦労しない。せっかくの湯上りなのに、つーっと鼻血が垂れて来た。気合、失敗。
ごそごそティッシュボックスを探った。もはやティッシュは体の一部。肌身離さず持ち歩く。桜山、また鼻血でござるか。服部君が気の毒そうに言った。
「寂しい眺めって、蛍が」
鼻血から気を逸らしたくて、わたしは急いで言った。服部君は庭の蛍を見て、寂しいと呟いた。今、その蛍は綺麗に輝きながら、ゆったりとした動きで草から草へ浮遊している。
「拙者の知る蛍は堀のあたりを群れて飛んでおった。蛍の大軍也」
蛍が群れて飛んでいるなんて、この当りではそんな話は聞かない。今こうして一匹でも蛍を見ることができたのは幸運である。
蛍の大軍なんて、大昔のはなしだと思う。それとも服部君の知っている場所では、蛍がいっぱいいるのだろうか。
夜空に三日月が赤くかかる。星はあまり見えない暗い夜。蛍の小さい光が庭で踊る。風を顔に受けて、わたしは目を閉じた。
服部君が側にいる今を、思う存分堪能したい。二人で見た蛍を、永遠に忘れないように網膜に焼き付けて置くのだ。
「そっか、綺麗だろうね」
わたしが相槌を打つと、服部君が妙にしんみりした口調で、綺麗でござる、と答えた。ふっと見上げると、服部君は遠くを見るような目をしている。なんだろう、切ない感じ。
「見たいなー、大軍の蛍」
服部君と一緒に、という言葉がどうしても出ない。本当なら今こそ、告白の大チャンスだと判ってる。
好きです、と、ただ一言で済むのに、どうしてわたしはそれができないんだろう。
服部君はいつでも優しくて親切で、言えば何でも聞いてくれるような気がする。だけど彼がわたしの側にいてくれるのは、あの変な巻物のためなのだ。
(秘伝の書を服部君に渡したら、もうわたしの側にはいてくれなくなるのかな)
ちらり、と、成宮姫子の謎めいたまなざしが過る。さらりと揺れる黒髪。服部君はあの女の事を主君、と呼んだ。姫子さんのために秘伝の書を取り戻したい服部君。でも今は、わたしがその秘伝の書を握っている。
服部君はだけど、わたしの何気ない相槌に思いがけないほど優しく微笑んで、そっとこちらを見たのだった。
「そうか、ならばいつか、見せるでござる」
ぽやっとした。
蛍を一緒に見る約束。さらっと今、服部君は言った。こんなふうに服部君は、なにげなく重要な言葉を流してゆく。あまりにも自然でさりげなく呟くので、ワンテンポ遅れてそれに気づくのだ。
「服部君っ」
もう止められなかった。言え、しのぶ。今こそ特攻の時。
服部君、好きっ。
「す」
だけど言い終わる直前に、瀬戸川さんが「すいかですよー、どうぞ召し上がって下さいなあ」と、居間に入ってきたのだった。
わたしは口を「す」の形にすぼめたまま固まり、服部君は「すいか」というワードに反応した。瀬戸川さんは嬉しそうに大盛りのすいかのお盆を縁にどかんと置いた。そして、わたしの頭越しに庭の蛍に気づいた。
「あら、珍しい」
「珍しいのでござるか」
「ええ、珍しいですとも」
瀬戸川さんは懐かしそうに蛍を見つめる。
ほのかに光る蛍は風に流れて、いつか見えなくなってしまった。
昔はたくさんいた蛍。時代が進むにつれ姿を消していった夏の光。きっと、すごく昔にはあたりが昼のように輝くほど、群れをなしていたんだろうな。
**
すいかを齧ってから部屋に戻ると、なっちゃんから携帯に連絡が入っていた。
明日、調理実習室で例のブツを作成しようと思う、と言っている。忘れずに魔道霊濡の巻物を持って来てよ、と、念押しだ。
部屋の机の鍵のかかる引き出しに、件の巻物はある。外に持ち出すのは初めてだし、もし風間君に奪われたら――奪われたから何が起こるのか、わたしには分からないのだけど――困るので、ちょっと緊張する。
偽装工作として、乙女乙女した巾着袋に巻物を入れ、それをカバンの底に秘めて持ってくるようにと、なっちゃんは言う。
「レースのついた巾着を開いてみようなんて思う男子は、いない」
というのが、なっちゃんの主張なのだけど、言われてみたらそんな気がする。
だって、そんな巾着に入っているようなモノなんて、男子高校生たるもの、みんな知ってると思うので。
(あー、そういえば今月、もうすぐだなあ……)
というわけで、わたしは明日、生理用品入れの巾着に巻物を入れて学校に持ち込むことにした。
念のため、秘密の引き出しを開けて、巻物が無事か確かめてみる。鍵をひらいてみると、汚い巻物はちゃんと無事にそこにあった。この引き出しには見られたくないものがしまいこまれている。例えば、赤点のテストとか、恥ずかしいポエムとか――ピンクの便せんに書き込んだソレ、なかなか傑作だと思うのだけど、人の目に触れさせたくはない、絶対に。
わたしの鼻血は赤い溶岩
恋に目覚めて噴火する
イエイイエイフーウーラララ
あなたを思えば飛び散る紅
(胸に迫るなあ)
読み返して、熱い涙が込み上げてきた。そうこれは、服部君を想って書いたポエム。鼻血は溶岩。ウーラララ。
いけない、ポエムを読んで浸っている場合じゃない。なっちゃんのメールには、万が一のことがないとは限らないから、巻物が破れていないか、中身が差し替えられていないかちゃんと確認して持ってきてと書いてあった。
確かに風間君はこの部屋にまで侵入してきた。あのひとなら、引き出しの鍵を開く位、できるかもしれない。
わたしは巻物を摘まみ上げると、そっと汚い紐を解いた。
**
思えば、じっくりと秘伝の書を開いて見たのは初めてだった。
なっちゃんは必死になって写メを撮っていたけれど。
小汚い、古い紙に、凄い達筆の毛筆書きで、えんえんとなにかが書き連ねてある。どこで切れるのやら分からない。ずらずらっと流れるような文字が続いており、それを目で追っているうちに、なんだか模様がぐるぐるしてくるように思えた。
流れるような筆書きはいつしか螺旋を描きながら流れる紐になり、ぽやっとその黒い紐を目で追っているうちに、キーンと耳鳴りがした。ぐらっと足元が揺れたので、貧血を起こしたのかと思った。
話し声が聞こえた。はっと顔を上げると、そこはわたしの部屋ではなかった。
暗くて広々とした室内は、ちょっと天井が低いようだ。お香のにおいが漂っていて、なにか不思議な感じ。
なんだろう、夢でも見ているのだろうか――わたしはぽやっと、襖の向こう側に目を凝らした。蝋燭の灯が揺れ、そこには黒髪の綺麗なお姫様が座っている。
あれっと目を疑う。
その、豪華な着物を纏ったお姫様は、どう見てもあの、成宮姫子なのだった。
成宮姫子は蝋燭の明かりの中でひっそりと目を伏せている。そして、その綺麗な唇が動き、「はっとり」とその名を呼んだのだった。
「はっとり、まもなく成宮は命運尽きます。このままではなりません」
暗がりの部屋。揺れる蝋燭の光。姫子さんの白い顔に影が落ちる。
「方法はただ一つ。時空越えをして難を逃れ、遙か未来にて血脈を紡いでゆきます」
恐らく、姫子さんが話しているのは、ふるめかしい昔の言葉なのだろう。わたしは姫子さんの言葉を、耳ではなく、脳で聞いている。そんな気がする。
壁がくるりと回転し、音もなくひとが現れた。忍者みたいな登場の仕方だけど、特に忍者っぽいコスプレはしていない。ごく地味な着物と袴姿のひとだ。
どう見てもそれは、服部くんだった。
壁から現れた服部君は姫子さんの前でひれ伏し、「仰せのままに」と答えたのだった。
姫子さんは優雅に頷くと、見覚えのある巻物を懐から出す。
「魔道霊濡の作り方」の巻物だ。姫子さんは言った。
「服部、すぐに魔道霊濡を作り、時空越えをするのです」
服部君は巻物をおしいただき、また壁の向こう側に消える。
魔道霊濡を作って、時空越えをする。この城はもうじき敵に滅ぼされる運命であり、このままでは成宮の血は途絶えることになる。姫子さんは、それだけは避けたいと考えている。
死ぬことは怖くはない。
けれど、命を繋ぐのは、成宮の女として生まれたわたくしの義務でございます。
「父上、時空を飛び越えるわたくしをお許しください」
ひとり、姫子さんは着物の袖を顔に押し当てる。凛として、いつでも背筋を伸ばしている姫君が、そっと流す涙。
風が部屋に入り、蝋燭の火が大きく揺れ、そして、ぷつんと消えた。
あたりは暗闇になる。
**
ぽやっとして、部屋に立っていた。
手から、巻物が転がり落ちている。足下でびろんと広がった巻物を元通りになおして紐を結んだ。
鍵のかかる引き出しにしまいながら、わたしは茫然と今しがた見たものを思い返す。物凄くリアルな幻想だった。一体あれはなんだったのか。
大昔、戦国時代のお城の中で、時空を超える話をしていた、姫子さんと服部君。
滅ぼされる前に時空を超えて難を逃れる、と、姫子さんは言った。
わたしはぽやっと部屋のあかりを消してベッドにもぐりこんだ。貧血が見せた夢だろうか。それとも秘伝の書に込められていた念が、わたしに伝わったのか。
鼻には、さっき幻想の中で嗅いだ、不思議なお香のにおいがこびりついている。
そんな馬鹿な、と思う。
姫子さんや服部君が戦国時代からタイムトリップしてきた人たちだなんて。
(いやだって、姫子さんも服部君も、普通に戦国学園に通っているわけでしょう)
頭が沸騰してきそうだった。
明日、なっちゃんに話してみよう。
わたしはタオルケットにくるまって、そっと目を閉じた。