だだだだーん!
そこが地獄の鼻血運河になろうとも。
(服部君に、思いを伝えるッ)
握り拳に誓う熱い決意は鼻血よりも混じりけのない赤。まさに情熱。
服部君に告白する。しかも、服部君の方も、なにを告げられるか知らないとはいえ、「必ず聞き届ける」と約束してくれた。
それだけで恋が成就したかのような、この有頂天。最近、なにをするにつけてもキラキラが舞い飛ぶ気がする。
「今日の修練はこれまで」
毎日、夕食の前に秘密のお座敷で行う、おばあさまの修練にも熱気が籠る。壁から無数の矢が飛んでこようと、巨大な球体がお座敷の中を転がりまわろうと、もはやわたしは無敵。ありとあらゆる仮想敵をはねのけ、打ち倒し、しかもキラキラが飛び交う幸せオーラ全開なのだった。
おばあさまは淡々としておられる。その眼は冷たいようでいて、深い情が秘められている。常にわたしの様子を観察しておられるおばあさまは、時々はっとするようなことを言われる。
「しのぶ、あなたは桜山を継ぐ女。心に決めた殿方を、いつか婿に迎えることになりましょう」
修練を終えて、額の汗をぬぐっていたわたしは、思わずおばあさまを振り向いた。道着姿で正座をされたおばあさまは、いつものように凛としておられる。
よく聞きなさい、一度しか言いませんよ。おばあさまはわたしをじっと見つめて仰った。
「心に決めた殿方が、どのようなひとであっても、思いを貫くのが桜山の女なのです。嘘偽りのない心を持ちなさい」
どのようなひとであっても。
何か、ひっかかった。おばあさまは、わたしが服部君を好きだということを、きっと見抜いていらっしゃるんだわ。だとしたら、好きすぎて鼻血を噴くわたしの悪癖を矯正するために、服部君に同居してもらっているのだ。
服部君は、一体何者なの。これまでも何度か疑問に感じたことはある。わたしの好きな人は、一体、なんなんだろう。
服部君がどのようなひとであっても、わたしは彼を思い続けるし、彼以外に添い遂げる相手は考えられない。なので、わたしはおばあさまの目を正面から見つめて頷いたのだった。
「はい。嘘偽りのない心で臨みます」
**
服部君。
一つ屋根の下で過ごすことは、拷問級の幸福である。例えばお風呂。
お客人の服部君に先に使ってもらい、わたしはその後で入るのだけど、脱衣入れに服部君の服が入っているのを見るだけで鼻血が噴き出るので始末に困る。これでは変態だと思う。
こんな具合では、鼻血の出し過ぎで命が持たないので、最近わたしは、脱衣入れの中身に焦点を合わせないよう意識するようにしている。少し前に服部君がここを使ったと考えるだけで、ふんがふんがとわたしの中の熱血猪が怪しく騒ぐので、対策として、入浴時はラジカセを持ち込み、リラクゼーション効果のあるクラッシックを流すことにしていた。
今日もわたしは、脱衣場にラジカセを置き、入るや否や、クラシックを流した。
クラシックは良い。なっちゃんも、集中したい時はクラシックをかけると言っていた。リラクゼーション効果もあるんだよー、と、なっちゃんが言うので心が動いた。
毎週、なっちゃんがCDを貸してくれるので、ありがたく使わせていただいている。
(今日のCDはどんな曲が入ってるかなー)
クラシックなんてわからないけれど、聴いていると頭が良くなるような気がする。上品で優雅な曲ばかりなので、変態ちっくな鼻血が噴き出す余地がない。脱衣入れの中身を覗き見したい欲望も、ちょうどよく抑制される。
あー、これ聴いたことがある。結構好きな感じ。なんだっけ、年末になると流れるやつ……。
ふんふんと鼻歌が出た。いつものゆったり目のクラシックじゃないけれど、これはこれで良い感じだ。
ボタンを外して服を脱ぐ。
はだかになって、さあお風呂に入ろうと思った時、なにかが足に引っかかって転んだ。ずってん。
「あいたあ」
一体何に引っかかったんだろう。白くて長い布が床に落ちている。転んだ瞬間、震動がラジカセに伝わったらしい。古い機械は勝手に次の曲にCDを進めた。じー、かちん、という音を立ててから、その曲は流れ始めた。
超有名なその曲は、わたしでも、知っていた。
その白くて長い布が、脱衣入れからはみ出していることや、したがってその布の正体がなんであるかということに気が付いた瞬間の、衝撃と奇妙にリンクした。
だだだだーん!
運命よ。
握りしめたその白い布は、きっと赤い糸。いえいえ駄目よ冷静になってしのぶ、これはただの褌。服部君の褌じゃないの。だだだだーん!
鋭く激しい調べに耳を集中させつつ、何でもない何でもないと自分に言い聞かせ、褌をぽいっと脱衣入れに放り込み、そっと風呂場に入ってかかり湯をして、浴槽に使ったけれど。
だだだ、だーん!
しのぶ、未熟者。
堪えることは叶わず。あっけなく堰は切れ、赤い流れが噴出し、風呂場に見事なアーチがかかるのを、わたしは見た。ぶー!
しのぶお嬢さん、なにかありましたか、しのぶお嬢さーん。
瀬戸川さんが脱衣場まで来てくれたみたい。転んだ時、相当大きな音がしたんだろう。駄目だ鼻血が止まらない。駄目だわたしはここで死ぬ。服部君の褌を見て死ぬのか。
(ある意味、本望)
血が足りなくなって意識がもうろうとするのと、瀬戸川さんが悲鳴を上げるのと、同時だったと思う。
**
のぼせて部屋に運び込まれたらしい。気が付いたら、ベッドで寝かされていた。
涼しい風が窓から流れている。ごー、と、扇風機が回っていた。
(なんてことだろう)
茫然と起き上がる。すっかり寝間着に着替えさせてもらっていた。瀬戸川さんごめんなさい。大変だったでしょう。
なんだか頭の中で、ベートーベンが回り続けている。なっちゃんには、ベートーベン以外のクラシックをお願いしなくちゃ。
髪の毛をいじりながら部屋の中をぼうっと見ていた。ん。なにか違和感がある。変な感じがして、わたしはもう一度、部屋の中をじっくりと観察した。どこがおかしいと感じたんだろう。
天井、壁、たたみ、たんす、クローゼット。別にいつもの通り。
否。
わたしは集中した。壁の中に、ちょっと奇妙な部分がある。なにかひっかかる。
わたしはそっと、枕元の目覚まし時計を手に取った。目を閉じ、全神経を集中させて、違和感の正体を探り当てる。そこだ。わたしは目覚ましを投げた。
目覚ましは壁にぶつかって壊れたりはしなかった。激突する寸前に、壁はぺらっとめくれて、中から黒装束のひとが躍り出る。そして、投げつけられた時計を受け取り、にやっと笑った。
「風間君」
と、わたしが言いかけると、一瞬でその場から消え、その次の瞬間には、もうわたしの目前に着て、ベッドの上に乗っていたのだった。
口に手を当てられているので、悲鳴を上げることもできない。
至近距離に、風間君のにこやかな瞳があった。覆面の下の口をもごもご動かして、風間君は言った。
「秘伝の書の在りかってさ、どうせあんたの勉強部屋のどっかだろ」
ぱちくり。
口を抑えられているので、そうだとも違うとも答えられない。
風間君、これは犯罪だ。侵入罪で警察を呼んでやる。
風間君は、唐突に片方の手で印を組み、「にんにん」というような呪文を唱えた。そうすると、部屋がぐにゃっと歪んだ気がしたが、またすぐに戻った。
「即席の結界を作らせてもらったぜ」
風間君の手が離れたので、わたしは「誰か来てください、チカンです」と叫んでやった。風間君は涼しい顔をしているし、誰も部屋にかけつけてくる気配がない。わたしはもう一度叫んだ。しいんと静まり返っている。
「桜山しのぶ。あんたがどういう訳で、あっちの時代に入り込み、秘伝の書を俺から奪い取ったのか知らんが、いい加減、この件から足を洗った方が身のためだぜ」
風間君はわたしの顎を捉えた。わたしは上目で睨み、手を振り払ってやった。
「あんたが欲しいのは、これだろう」
と、風間君は見覚えのある一通の手紙をぴらっと出した。
あっ、それっ。それよっ。
わたしはすかさず手を伸ばしたが、風間君はぴろんと手紙をひるがえし、触れさせなかった。目が、小悪魔のように笑っている。
ラブレターフォア服部君!
くそっ、風間、この泥棒忍者。
「返してよっ」
と、わたしは怒鳴ったが、風間君はぴらぴらと手紙を振って笑っている。
「そこまでこれに執着するということはさ、この書面が相当重要なものだからだろう」
と、風間君は言うと、いきなりわたしに組み付き、押し倒した。馬乗りになると、わたしの顔を覗き込み、さっきまでとは打って変わった凶暴な目つきで囁いてきた。
「吐け。あんたは成宮の関係者か」
知らないわよ、成宮姫子なんか、わたしと何の関係もないわ。それにそのラブレターは、あんたが妄想しているモノとは全然違うんだから!
「いいから返してよ。女の子の手紙を奪い取るなんて悪趣味にもほどがあるでしょっ」
耳元で怒鳴ってやった。風間君はツーンとしたらしく、耳をおさえて顔をしかめている。ざまを見ろ。
隙を見て、風間君の足を払ってやった。ごろんごろんとベッドから落ちたので、今度はわたしが風間君の上に乗ってやった。形勢逆転。手に持っているラブレターを返してもらう!
幸い、まだ封は切られていない。とすると、風間君は手紙を奪うことはしても、盗み読みすることはしないらしい。
「返せ」と凄んだら、風間君はしぶとく「秘伝の書と引き換えだ」と言い張った。誰が渡すかそんなもん!
「なによ秘伝の書って。あんなのただの、マドレーヌのレシピ本じゃないのっ」
ひょいっ。ひょいっ。奪い取ろうと手を伸ばす度に、風間君は手紙を持つ手をひるがえす。卑怯もん。泥棒。返してそれはラブレターフォア服部君。
マドレーヌという言葉を口にした途端、風間君の表情が固まった。
「貴様、魔道霊濡を知っているとは、やはりただ者ではない」
さらに変な妄想が走り出しているようだ。どうでもいい、早く手紙を返してもらわねば。ちくしょう風間。
どたばた取っ組み合っていると、ぱちんぱちんと何かが裂ける音がした。
わ、やばい結界が壊れた、と、風間君が呟くのが聞こえる。はっと振り向くと、部屋の襖が開かれて、服部君がそこに立っていた。前髪の奥の目を見開いている。片方の手で印を組み、もう片方の手には氷枕を持っている。その氷枕は、のぼせたわたしに届けてくれたものだろうか。
一瞬、服部君は、この状況に様々なことを考えたようだ。目が狼狽えている。
風間君が張った結界のおかげで、わたしの怒鳴り声や取っ組み合いの物音は外に漏れずに済んでいたのだが、どうやらその結界を服部君が壊してくれたらしい。
わたしは風間君を組み敷いていたが、とっさにそこから飛びのいた。反射的に、「服部君、助けて」と言葉が飛び出した。すると、服部君の表情がぴしっと決まった。
「風間、貴様、このようなところまで」
それは、今まで聞いたことのない、服部君の凄みのある声だった。片手で印を組み、もう片方の手に氷枕を持ったまま、姿勢を低くした。戦闘態勢なのかもしれない。目つきがただ事ではなかった。
一方、風間君は「秘伝の書は必ず取り戻す」と捨て台詞を履いて、また「にんにん」と呪文を唱えた。ぼん、と煙が巻き起こり、あっという間に風間君の姿は部屋から消えていた。
少し開いた窓からは夜風が涼しく入り、扇風機は回り続けている。開いた襖からは、明日の食事の下ごしらえをしている瀬戸川さんの気配が感じられた。
わたしは寝間着の胸を掻き合わせた。
服部君は、こころなしか赤くなった。けれど、相変わらず淡々と動じない様子で部屋に入ると、そっとかがみこみ、「大事ないか」と労わってくれたのだった。あ。鼻血。
鼻血がぼとぼとと畳に零れるのを、わたしはぼーっと眺めた。
服部君が勉強机の上からティッシュを取ってきてくれたけど、それには手をつけず、ただ鼻血が落ちるのを眺めていた。ああもう限界。秘伝の書も風間君も訳が分からない。
ここに服部君がいてくれる。それだけで鼻血が出るほど幸せなのだった。
「あのね服部君」
今がチャンスだ、と思う。心に決めていたこととは言え、きっかけがないと、なかなか切り出せない。
こうして二人きりになれることなんか、滅多にないのだ。頭がぐらぐらしているし、今にも鼻血が勢いよく噴出しそうだけど、もう言うしかない。
「わたしね、服部君が、す」
言いかけたその時、服部君は切り込むような目つきでわたしを覗き込み、詰問するような口調でこう問いかけたのだった。
「桜山。秘伝の書を拙者に託してほしい。このままでは危険が桜山にまで及ぶ」
秘伝の書。成宮の秘伝の書なのだ、あれは。桜山が持っていたところで、なんの利もないはずだ。悪いことは言わぬ、あれを早く拙者に。
鼻血が止まった。
告白寸前の盛り上がりが一気に縮んだ。その代わり、湧き上がったのは――ごごごごご、雪山が崩れる、そうだこれは最大級の雪崩――心を切り刻むような悲しみと、なにか訳の分からない苦しいもの。一瞬、成宮姫子が華麗に振り向く姿が目に浮かんだ。
ああ、これは嫉妬だ。服部君は、全然わたしを見てくれていない。側にいて親切にしてくれていたのは、秘伝の書が欲しかったからなのか。
桜山、と、服部君が重ねて問いかけてくるのを、わたしは無視した。
「ごめん、出血多量と心拍数増加のため、命の危険があるので休みます」
ぼそっと言うと、すごすごとベッドの布団にもぐった。
服部君はしばらくそこに立っていたが、わたしが背を向けたまま無言でいるのを見て、溜息を落とした。
それから近づいてくると、そっと頭の下に冷たい氷枕を入れてくれたのだった。
「そうか、ならば休め。失礼した」
ぱたんと襖は礼儀正しく閉ざされ、わたしは無性に悲しくなった。
ああ。どうしてこんなことに。だだだ、だーん!