しのぶ、不憫な子
パパが伝統ある桜山家の御曹司だなんて、ママが亡くなるまで、ちっとも知らなかった。
パパとママと小さいわたしの三人で暮らした、おんぼろな借家で、毎日疲れて会社から帰ってきては、ハイハイしのぶ今日も良い子でしたかと頭を撫でてくれたものだ。中肉中背で、ごく普通の――というか、若干くたびれた感の強い――中間管理職。部長からの圧力と、部下からの突き上げに悩んでいるらしい。瀬戸川さんが、「お父様は会社で中間管理職でいらっしゃるから、上から下から挟まれて、大変でいらっしゃるので、いつも笑顔でお話するようになさってください」と言うものだから、桜山に来てからは、わたしは常にパパを気遣うようになってしまった。
思えば、まだ訳が分からずに、ただ桜山に連れてこられたばかりのわたしが、ママ恋しさやおばあさまの厳しさにベソをかくことが多かったので、瀬戸川さんなりに叱咤激励してくれたのではないか。パパは大変だから、しのぶはへっちゃらな顔をしなくてはならない。その意識があったから、一番つらい時期を乗り越えて今に至るのだと思う。
「行ってきますよーハイハイ」
今朝も、一足早く玄関を出てゆくパパ。グレーの背広の背中が疲れている。後頭部が薄くなってきた。いつも淡々、飄々として、するっと帰宅してはするっと出勤して行く。休日でも、付き合いやら仕事やらで出てゆく。そしてパパのお弁当も、瀬戸川さんの愛情が詰まった超特大デラックス重箱なのだった。
お仕事のカバンと風呂敷包みを下げて、パパは行く。見送りに来たわたしをちらっと振り向いて、眼鏡の奥の目でちょっと笑った。あー、疲れた顔。
「パパ―、大丈夫、疲れてない」
と、わたしが言うと、パパは淡々飄々と、「いつもと同じですよー、しのぶも勉強頑張りなさいねー」と言って、がに股ぎみに歩いて行ってしまった。ここから数分のバス停でバスに乗って駅まで行き、電車に乗って会社へ。御曹司とは思えない地味さだよね。
一度、瀬戸川さんが「運転手をお雇いになればいいのに」と言ったことがあったけれど、おばあさまが「贅沢は敵です」と一蹴した。質素倹約、質実剛健が桜山の家風なのらしい。うう、厳しい。
パパを見送ってから台所に行くと、瀬戸川さんがお弁当を準備していてくれる。
ピンクの風呂敷包みと、青い風呂敷包み。瀬戸川さんはわたしのばかりではなく、同居人の服部君まで、超豪華弁当を作る。質実剛健の家風と相反する弁当ではないかと思うことがあったけれど、どうやら食べ物においては良いものをたくさん食べるべし、という考え方が桜山には浸透しているらしい。
お座敷に掲げられた額縁には達筆でしたためられた家訓が、どどおんと君臨している。
「食へよ鍛へよ」と、そこには書かれてあった。
瀬戸川さんと一緒にお盆を持って居間に行くと、おばあさまと服部君が既に席についていた。
朝からとてもたくさんのお皿が並ぶ。お魚に漬物に酢の物に炒め物、卵焼き、刻み野菜。向かいの服部君は、端正な箸さばきでいらっしゃる。綺麗なお顔でどんどんどんどん口に運ばれる。てんこもりのお茶碗があっという間に綺麗になる。
「しのぶ、食べなくてはなりません」
おばあさまもお年の割に、凄まじい健啖ぶりでいらっしゃる。これまたてんこもりのお茶碗を片手に、ばりょばりょもぐもぐ焼き魚を召し上がり、すぐに次の卵焼きに箸を伸ばされる。どうなってるのおばあさまの胃袋は。
(見ているだけで何かが込み上げてきそうです)
この間、瀬戸川さんに泣きついて、なんとかお茶碗の盛りを半分にしてもらったところだ。もうわたしは、この白飯にフリカケをかけて食べるだけで十分なのに、なにこの副菜。
「桜山、貴殿の分のししゃも也」
服部君がお皿に残ったお魚を寄越してくれる。お魚の目つきが恨めしそうだよ、ごめんわたしはもう食べられない。
おばあさまは静かに目を伏せてご自分の分の食事を片づけていらっしゃる。食事中は静かに、ただ喰らうべし、というのもおばあさまの主義だった。
服部君はわたしの表情と、おばあさまの様子を一瞬で見比べて、なにかを悟ったらしかった。そのまま黙ってお皿を下げると、わたしの分のししゃもを自分の白飯の上に乗せ、爽やかに食べたのだった。
**
食事量の半端なさを、なっちゃんに愚痴った。
一限目はバレーボール。クラス対抗の試合形式だ。それぞれ選りすぐりのメンバーでチームを作り、朝から苛烈な戦いが始まった。バンボンバンボン。
壁際で体育すわりをして見学しているのは、チームの選から漏れた運動不得意っ子ばかり。おっとりお嬢様たちが「凄くていらっしゃるのね」「素敵だわ」などとおしゃべりしている横で、わたしとなっちゃんはひっそり座っていた。
ピピーッ。ホイッスルが鳴り響く。筋骨隆々の体育の先生がコートから飛び出したボールを拾い、うちのクラスのチームに放り投げた。
サーブするのは成宮姫子さんでいらっしゃる。姫子さんは容姿端麗、文武両道のお人だ。もちろん、こういう場では大活躍される。
そーれ、はいっ。
お美しい姿。輝く黒髪。ボールはのびのびと力強く飛び、相手のチームは必死でそれを受け止める。ぼうん。
「しのぶもさあ、いっぱい食べたほうが貧血治るんじゃない」
姫子さんの活躍を眺めながら、なっちゃんが言う。
「量が多いっていうけれど、食べられないほどじゃないよー」
(ああ、愚痴る相手を間違えた)
わたしは膝を抱え込む。ぽっちゃりなっちゃん、見た目以上に胃袋が丈夫だ。毎日よくまああんな大量の瀬戸川さん弁当を平らげることができると思う。お陰で助かっているけれど。
べしい、ぼんっ。
姫子さんが強烈アタックを決める。相手のチームは受け止めきれず、またホイッスルが鳴る。圧倒的な実力の差だ。凄いなあ姫子さん。
ぽーっと見ていたら、姫子さんが汗をぬぐいながら、ちらっとこちらをご覧になった。綺麗な黒い瞳が、わたしを映して微笑んだような気がする。いやいや自意識過剰だろうな。
「才色兼備ってああいう人を言うんだろうなー」
ぼそっとわたしは呟いた。なんだかブルーだった。溜息がほふうと出る。
「服部君ともお似合いだしぃ」
きらーん。なっちゃんの眼鏡が光る。何言ってんのよしのぶ、あんたやろうと思えば、サーブひとつで体育館の壁を崩壊することができるでしょっ。なっちゃんはそう言って、ばんとわたしの背中を叩いた。
「自信持ちなよしのぶ。あんたはある意味、無敵なんだから」
元気づけてくれたつもりだろうけれど、なっちゃん。何故だろう、ますますどんよりしてきたなあ。
そうなのだ。リミッターを外した状態なら、こんなバレーの試合、わたし一人で凄いことになるだろう。というか、文字通りゲームになりやしまい。
サーブしたとして、きっと空気と摩擦を起こしたボールが、敵チームの陣地に入る頃には火の玉化しやがるに違いない。ぼぼっと燃え上がる火の玉サーブ。もちろん誰も受け止められない。
(まあ、ある意味無敵か)
ぴぴーっ。ホイッスルが鳴り響いた。ざわついている。
はっと見ると、相手側のチームの子が一人、足を抱え込んでいた。
「転んで足をくじいたみたいだねー。今日のゲームはこれで終わりかなあ」と、なっちゃんは言った。
ところが、うちのチーム側から姫子さんが何か意見があるらしく、体育の先生に談判を始めている。何を話しているんだろう、選抜メンバーに補欠はいない。無理に居残りメンバーから選ぶこともないだろうし、ゲームなんかさっさと止めればいいんだわ。
こんな体育の授業より、わたしは運動場の方が気になっている。男子は外でランニングしているはずだ。服部君も風のように走っていらっしゃるに違いない。むはむは。あ。鼻血。
慌てて詰め物をしていると、つかつかと誰かが近づいてきた。見上げると体育の先生が腕組みをしてわたしを見下ろしている。
「桜山さん、かわりにあっちのチームに入りなさい」
と、先生が言うので、唖然とした。しどろもどろになって、いやわたしだってバレー全然下手で、と言うと、先生は頑として「早く」と仰った。一体、なにがどうしてこうなったの。体育の授業では、わたしは人一倍できない自分を演じている。選抜メンバーに入れるとしても、他の子を選べばいいのに。
「成宮さんが、ぜひ桜山さんをと言ってきたの。熱心に希望しているし、実際、あっちのチームは一人足りないし、残り五分くらい、あなた入ってあげてよ」
と、来た。
(なにそれ知らん何の嫌がらせだ)
売られてゆく仔牛みたいな気分でコートに入る。相手側のチームの面子も、なんでオマエが来たと言わんばかりの顔をしている。うっわ、よりにもよって超絶どんくさいのが入って来た。何様のつもりよ、あっちのチームは。ひそひそ話まで耳に入ってくる。
おのれ姫子。一体なんのつもりか。
わたしの配置は後ろの方だった。良かった、きっと、前の方の人たちがなんとか食い止めてくれるに違いない。ちらっと時計を見たら、あと五分を回っている。ようし、右往左往して頑張ってるふりをしているうちに終わってしまう。ファイトしのぶ。
姫子さんのサーブ。
美しいフォームでボールを投げあげる。凄いな、本物のバレー選手みたい。
けれど、一瞬、姫子さんの美しい瞳が敵の陣地の後ろの方でぽやっとしているわたしを捉え、きらんと鋭く光った。口元が微笑んでいる。
(いいかげん、本当のあなたを見せなさいな)
とでも、言いたそうな顔。あっ、まさか姫子さん、わたしのリミッターを外させるために試合に引き込んだのか。いや待て、勘弁して、一体なんの目的でそんなこと。
おたおたしているうちに、姫子さんは強烈サーブを決めた。ばしい。
サーブはまっすぐわたしに飛び込んで来る。なんてこったー。体が自然に動いて、猫のように身をかがめ、低い位置でボールを受けた。ぽうん。ボールは勢いを失い、味方側のアタッカーに綺麗にわたった。
ギャラリーからどよめきが起こる。凄いわ桜山さん。お嬢様方の呑気な声援。いや頼む止めて囃さないで。むらむらむらっと、奥深いところに押し込めている、溶岩のような闘争本能が目覚めかけているじゃないの。
「ナイス桜山さんっ」
アタッカーが素晴らしいボールを向こうの陣地に送り込む。だけどボールはまたしても、成宮姫子に渡った。
きらーん。お星さまのような瞳がきらめきを見せる。姫子さんははっきりとわたしを狙い、ものすごくよく伸びるアタックを叩きつけた。べしい。
きゃあ桜山さん、あんなの当たったら死んでしまうわ逃げて―。ギャラリーのお嬢様たちが悲鳴を上げているけれど、だからそれ止めてくれ、余計に血肉わき踊るから!
「ふごほうッ」
もう止まらない。くるくるっと床を回転して、わたしはそのボールをキャッチした。ぼうん。高く跳ね上がったボールを、チームメイトが受け止めやすい流れに切り替える。
だが一体どうしたことだろう、こともあろうにそのボールは、わたしに回ってきたのだった。
「桜山さんっ、決めてっ」
(いやわたしバレー苦手だし運動神経鈍いし無理駄目無理駄目っ)
真っ白いボール。
向こうには姫子さんの好戦的なまなざし。
一瞬、姫子さんの唇が動いた――なんて言ってるの――はっとり。姫子さんの唇が、はっとり、と呟いている。
はっとり。はっとり君!
むらむらむらあ。
長い間ため込んでいた不満が込み上げてくる。そうだわたしはずっと不快だった。なんで姫子さんは服部君を独占しているのよ。
服部君は服部君で、姫子さんのことを主君、とか言ってるし。意味わかんない。なんなのよあんた達っ。せめてその、呼び捨てはやめて。
「こんちくしょうおらああああッ」
ぼべしい。
魂の一球を相手側に打ち込む。ふんがふんが。鼻息が荒く今にも脳天から湯気が噴きでそう。体が物凄く軽かった。跳躍したら、軽く体育館の天井を突き破るだろう。
リミッターが外れかけている。だけど快感。まるで熱い風になったかのような。
しかし、すごい悲鳴が聞こえたので、わたしは我に返った。
ぷしゅー、と、体育館の床に隕石でも落ちたかのような穴が空いており、そこから焦げ臭い煙が立ち上っている。
ボールが凄いことになりましてよおっ。みなさんお怪我はなくってえっ。ギャラリーどもが騒ぎ立てている。
対して、チームの子たちは茫然と立ちすくんでいる。
うちのクラス側の選手ときたら、真っ青になってがくがくぶるぶる震えているじゃないの。生まれたての小鹿みたいになって、穴の開いた床を眺めていた。
「あんなの受け止めていたら、命がありませんですわ」
と、一人がぼそっと呟くのが聞こえた。
んごくん、と、選手たちが唾を飲み込んでいる。
そして視線はわたしに集中した。
「や、やだ……」
わたしは必死でとぼけた。
口に手を当て、ちょっと内またになり、気まずさのあまり顔を赤くして言った。
「やっだー、あれですわ、夏の風が吹き込んできて、ボールの勢いが強くなったんですわ」
それかアレですわ、あのボールには、十年前に亡くなった、戦国学園のエースアタッカーの霊が密かに憑りついていたんですわっ。道理でなんだか、変な感じがしましたものっ。
ほほほほ、おほほほほ。
できるだけ自然に退場しようとして、ムーンウォークみたいになった。しにょっ、しにょっ。後ろ歩きでコートを出ると、がくんと座り込み、なっちゃんの横に逃げ込む。
なっちゃん、あごが外れそうに口を開いていた。ポカーン。
「あんた凄いわ、しのぶー」
リンゴーン。
折よく鐘が鳴る。体育の授業、終了。なんということだろう、これからあの床、どうするんだろうか。
(べ、弁償とかさせられるんかな……)
おばあさまの怒った顔が脳裏に浮かぶ。
「しのぶ、未熟者。桜山の女はバレーボールで床に穴を空けたりはしません」
(あー、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……)
ビクビクビックルしながら周囲を見ると、お嬢様たちは呑気なもので、「凄かったですわねえ」「本当にバレー部の霊が籠っていたのかしら」などと和やかに話しながら、体育館を出れゆかれるところだった。
体育の先生がひとり、穴を眺めて頭を抱えていらっしゃるだけだ。
だけど黒髪をなびかせた成宮姫子がわたしたちの横を通り過ぎる時、その唇が優雅に微笑んでいるのを、わたしは見てしまった。
満足の笑み。
「やはりあなたはただ者ではないのね」
とでも、言いたいのか。姫子さん。
ふんわり上品な香りが漂う。颯爽と姫子さんは体育館を出て行かれる。わたしとなっちゃんも立ち上がる。ぐずぐずしていたら、次の授業が始まってしまう。着替えなくては。
「あんた、不憫な体質だよねー」
しみじみと、なっちゃんが言った。