魔女ヘカテリーナの追放
「君とは、これきりだ」
華やかな舞踏会の最中、片腕に細い女性の肩を抱いた、見目麗しい若い男はそう告げた。薄いプラチナブロンドの髪を靡かせ、ぱちりと開いた青色の瞳が印象的なこの青年の名はアシュリー・アークライトという。国でも有数の炎の魔術を扱う名家、アークライト侯爵家の次男である。
対するは、ひどく小柄な伯爵令嬢だ。ブラウンの髪を長く伸ばし、つり上がった金色の瞳でアシュリーを睨む少女は、ふん、と鼻を鳴らした。
「ふーん。あっそ」
興味がなさそうに、鼻を鳴らした少女はそっぽを向いた。その態度に、カチンと来たようにアシュリーは声を荒げた。
「ヘカテリーナ、君のそういうところだ。令嬢らしからぬ傍若無人な振る舞い、使用人や同級生へのわがまま三昧。ましてや、格上の家である我がアークライト家の子息たるこの私に、あろうことか逆らってばかり。パーティーに誘えばその手を払い、無理やり連れだせば悪戯三昧……正直、頭が痛くなる」
アシュリーは頭を抱えながら、眩暈がしたように深い息を吐き出した。すると、彼の腕に肩を抱かれた若い少女は顔を上げた。美しい宝石のような緑色の瞳を潤ませ、金色の髪を揺らして、愛らしく彼に身を委ねた。
「アシュリー様の心中、お察しいたします」
「ありがとう、ジュリアナ」
アシュリーとジュリアナの振る舞いに、周りでその様子を見守っていた貴族たちがざわついた。アシュリー・アークライトとヘカテリーナ・グッドフェローは婚約を結んだ関係にある。ゆえに、社交界にそれ以外の女性の肩を抱き、婚約者であるはずの少女と対峙している状況は、明らかに婚約者を邪険にする振る舞いである。
しかし、ヘカテリーナ・グッドフェローへの悪評もまた、貴族の間では有名な話だった。およそアシュリーが言った通りの振る舞いをしており、いつになれば問題視されるのかというのは、社交界の話のネタになっていた。
アシュリーはそんな周囲の視線を振り払う。まるで、婚約者の悪事には、自分が泥をかぶってでも糾弾しなければならないと、そんな覚悟を決めた瞳をヘカテリーナに向け、強く告げる。
「ヘカテリーナ。彼女へ数々の嫌がらせをしていたようだな。彼女からすべて聞いた」
「身に覚えがないわ。何のことかしら」
「とぼけるな。君は伯爵令嬢という地位を利用し、子爵令嬢である彼女に不当な振る舞いをしただろう」
「婚約者の財を目当てに近づいてくる虫を払うのって、そんなにいけないこと? あたしはお願いしただけよ。面倒だけどあの男に近づかないでって」
「虫……思い出したぞ。君は、彼女の靴に虫を入れたそうだな。しかも、とびきり危険な毒虫を」
その言葉に、ヘカテリーナはきょとんとすると、不快そうに顔を顰めて、腕を組んで指先で腕をとんとんと叩く。
「何のことかしら。記憶にないわ」
「調べはついている。バレエシューズから靴を履き替える際に、靴の中から、虫のようなものが飛び出して来たのを何人もが目撃している。そして、その虫を入れたのが君だということも裏が取れている」
「あー……あれね。あれは毒虫じゃないわよ」
「認めたな。君は、彼女の靴に虫を入れたことを」
ヘカテリーナの言葉を逃さないように、アシュリーは強く咎める。しかし、当の本人は特に罪悪感なども抱いていないように見える。その態度に、アシュリーはぎり、と歯ぎしりをすると、ヘカテリーナを指さした。
「もはや酌量の余地はない。自分よりも立場が弱い令嬢に向かい、個人に対する嫌がらせを働いた君を、私は婚約者とは認めない」
「……あっそ。そうなの。ね、あたし言ったわよね。愛妾を持つのは許すつもりよって」
「君を正妻に迎えるつもりはない。彼女を――ジュリアナを正妻に迎え、君との婚約を正式に破棄する。婚約は、君の家からの願いだったからな。君の過失によって婚約を破棄すると伝えれば、伯爵は何も言えないだろう」
「ふーん。分かった、残念だわ、アシュリー。でも、そうね。ここで敢えて言うなら」
ヘカテリーナは、天真爛漫な微笑みを浮かべて、そうしてドレスの裾をたくし上げ、細い足で踵を強く鳴らして、告げた。
「ありがとっ」
その言葉が意外だったのか、アシュリー、そしてジュリアナはあっけに取られたように目を丸くする。けれどヘカテリーナはもう振り向かずに、まるでダンスを踊るように社交界のホールを飛び出していった。
糾弾が終われば、それを話のタネにして、貴族たちはまた社交に戻っていく。そのさなか、あまりにもあっさりと済んだ婚約破棄に、アシュリーはずっと固まっていた。
「アシュリー様?」
「あ……ああ。すまない、ジュリアナ」
「……気をお確かに。ヘカテリーナ様の考えはよくわかりません。また、何かを企んでいるのかもしれません」
ジュリアナの言葉に、アシュリーは頷いた。ヘカテリーナは悪知恵が回る女だ。こんなにあっさりと、富を手放す行為を許容するとは思えない。もうひと悶着ほどあるだろうと、そう覚悟する。
糾弾に関しては、父にはすでに伝えてある。婚約破棄については、思ったよりもすぐに了承を得られた。ヘカテリーナのグッドフェロー家は、国に代々続く名家で、貴重な氷魔術を使える一家だが、過去に血を保護するための近親婚を繰り返した結果、現代ではすっかりと魔力が弱くなってしまった。古い家なので伯爵という爵位を賜っているものの、どちらかと言えば衰えている一族だ。
対して、ジュリアナのハーマン子爵家は、数年前に叙爵され、あっという間に子爵の地位を得た新興の名家だ。ジュリアナの父が開発した新しい魔術理論が認められ、古い魔術よりも効率よく魔術が使えるようになったとして、今まさに栄える一方の一族だ。
古いとはいえ、衰える一方のグッドフェロー家と、新興とはいえこの先も無限の伸びしろが見えるハーマン子爵家。アシュリーの父の中で、その天秤は水平に保たれたらしい。
悶々とヘカテリーナのことを考えながら、ジュリアナを連れてホール内を移動していると、ふとジュリアナが足をもつれさせ、転びかけた。アシュリーはとっさにグラスを持ち替えて、スマートにその体を支える。
「ジュリアナ、大丈夫か?」
「申し訳ありません、アシュリー様。なんだか最近、足が重く……」
「……ヘカテリーナに色々嫌がらせされたんだ。きっと、体が疲れてしまったんだね。婚約を結んだら、しばらくゆっくりするといい」
「はい……ありがとうございます、アシュリー様。私、幸せですわ……」
ジュリアナは、腕の中で艶やかな笑みを浮かべる。それはヘカテリーナが決してアシュリーに与えてくれなかったものだ。自分の選択が、間違っていないと確信した。
アシュリーは、ジュリアナを連れて、父の下へとあいさつへと向かった。
◆◇◆
ヘカテリーナは、手際よく荷物を片付けていく。屋敷の隅にある狭い部屋は、ヘカテリーナの私室だった。まるで使用人が過去に使っていたような部屋を宛がわれただけの部屋には物が少なく、いらないものを廃棄すれば、あっという間に部屋の中は空っぽになった。
机の上に置かれた金のペンダントを手に取って、そのペンダントに一つキスを落とす。愛しそうに、嬉しそうに。
「ママ、あたし、やっと自由よ」
そう告げてペンダントを身に着けると、荷物を引きずって、部屋を出た。使用人たちがこそこそと話す横を堂々と通り抜けて、ヘカテリーナは屋敷を出た。
婚約破棄の一件で父は大いに憤り、今朝、親子の縁を正式に切られたところだ。それはそうだろう。父にとって、ヘカテリーナに「嫁」や「母」以上の価値はなかった。
屋敷のドアを開けると、ヘカテリーナは大空を仰いで、嬉しそうに微笑んだ。そうして、少しだけ足早に屋敷を出ると、そこで一人の紳士が待ち伏せをしていた。
「ヘカテリーナ嬢、どういうことだ」
「あら、ごきげんようハーマン子爵。もうお嬢様じゃないけど、あたしに何か用かしら」
「どうもこうもない。私はお前に、娘を愛妾とすることを許せと言っただけだ。正妻を譲れなどとは一言も言っていない」
「ええ、聞いてないわ。でも、あたしが正妻になれなんて話も一言も聞いてないもの。契約をたがえたつもりはなくってよ」
ヘカテリーナがあっさりと告げた一言に、ハーマン子爵と呼ばれた紳士は、深いため息を吐きだした。
「魔女の娘ならば、気づいているのだろう」
「あら。ふふん、娘と違ってあなたには見る目があるのね」
「あの娘は正妻にはなれん。いや、なってはならんのだ」
「そういうことなら、説得するのはあなたの仕事ね。あたしにはもう関係ないことだもの」
ハーマン子爵は、渋い顔をする。目の前の少女はもう令嬢の地位を失い、ただの少女と化したのだ。これ以上、ヘカテリーナを引き留めて話を聞いても埒が明かないと思ったのか、彼は一礼をするとその場から立ち去っていった。
「あれは、きっとこれから苦労する顔だわ。まぁ、もうあたしには関係ないけど」
ヘカテリーナは気を取り直して、鼻歌を奏でながら足取り軽く街道を歩いていく。片手には、地図を広げて持ち、街と地図を交互に見やって、位置を確かめる。
移動にはすべて馬車を使っていた令嬢の生活で、自分で足を使って歩くことはほとんどない。街を歩いたこともないのだ。
けれど、ハーマン子爵との取引によって、ヘカテリーナはすでに伝手を入手していた。急ぎ港を目指して歩き出すと、後ろから声が飛んでくる。
「ヘカテー! 待っておくれ!」
「あら! 伯父さま!」
聞き覚えのある声に振り向けば、そこには母の兄であるクレイマンという中年の男がいた。ヘカテリーナの髪は母譲りの色であるため、伯父とも同じ色をしている。彼はくすんだブラウン色の髪を掻きながら、心配そうにヘカテリーナを見つめる。
「本当にやってしまったんだね。自分から追放を望むなんて」
「ええ、やってやったわ! まさかこんなに簡単に婚約破棄してくれるだなんて、アシュリーもたまにはいいことするのね」
「はは……ヘカテー、国を出るんだろう? 私も一緒に行っても構わないかい?」
「伯父さまも? ええ、もちろん構わないわ。あたしにとって、伯父さまはずっと、唯一の家族みたいなものだもの。庭師の仕事はやめてきたの?」
「ああ。君が婚約破棄をされたと聞いた、その夜にね」
「伯父さまってば、意外と決断が早くて素敵だわ。あたしとママにそっくりね!」
純粋無垢に笑うヘカテリーナを見て、クレイマンは心配の色を消した。そうして、持ってきていた大きな荷物を背負い直すと、二人は連れ立って港を目指した。
「目的地は決まっているのかい?」
「ええ。魔術師の国、フレイミランダ。ハーマン子爵によれば、そこが一番、身元が保証されていない魔術師が成り上がりやすい国ってことらしいわ。魔女も毎年生まれてる。だからあたしはそこへ行くわ。そこへ行って……」
ヘカテリーナは今までの人生の中で最も清々しく、未来を見つめて、憧憬したように瞳を輝かせた。
「あたしは、ママみたいな魔女になるわ!」
そう言い切った姪を見て、クレイマンは瞳をかすかに揺らした。
ヘカテリーナの母は魔女だった。魔女とは、生まれつき魔力が高い魔術師だけが得られる称号である。魔女連盟の課す試験に合格し、魔力の素養が一定以上の者のみ、その称号を得ることができる。
魔女であった母を見初めて、第三夫人として迎えたのがグッドフェロー伯爵だった。彼は衰退する家のために、巨大な魔力を持った「男」が生まれ、グッドフェローの血が真の良血であることを証明したかったのだ。しかし結局、母が産んだのはヘカテリーナ一人だった。
「バカな国よね。女性は魔術師になれない、だなんて」
この国にいる限り、ヘカテリーナに未来はなかった。国では魔術師の登用は男性のみである。魔術師のみならず、この職はこの性別の者限定で、という制約が何かと多い国である。生まれという個人にはどうしようもないことで、未来を閉ざされてしまっているのがこのポーネット公国の文化だった。
ヘカテリーナは魔女である母から巨大な魔力を受け継いでいる。ゆえに魔術師となることを夢見たが、国がそれをさせてくれなかったのだ。つまり、伯爵にとって、ヘカテリーナの価値は、力ある家に嫁ぎ、より魔力の強い子を産み落とす「母」としての価値しかなくなってしまった。生まれたのが娘と知れて以来、父は母を見限り、病床に耽った母はヘカテリーナが5歳の時に亡くなった。
ヘカテリーナはずっと待っていたのだ。この国を出られる時を。そのためには、どうしても父に決められた婚約者という存在が邪魔だった。
ジュリアナという少女がアシュリーを目当てに近づいてきたときには、転機だと思った。彼女に口実を与えるために隙をたくさん見せた。彼女は思った通りに、アシュリーに告げ口をした。そうして、アシュリーはヘカテリーナを見限った。
(まぁ、虫に関しては……別に嫌がらせってわけでもなかったんだけど)
もう、考えても無意味なことだ。これから、ヘカテリーナは新しい生を歩むのだ。胸を躍らせながら、船へと乗り込んだ。最低限の路銀よし、母の持っていた魔術書よし、旅の同行者良し、今日の天気良し。
今日は最高の旅立ちの日だ。大きな汽笛を上げて、船が国を離れると、ヘカテリーナは大きく国へと手を振った。国は魔女を追放し、一時の安息を得たのだ。
◆◇◆
魔女になるためには、とにかく魔力量が必要だ。それをどうやって計るかと言うと、専用の試験を通して計ることになる。魔力指数という指標が存在し、その最大値は20である。国にもよるが、だいたい魔力指数の平均値は6程度である。つまり、半分の10を超える人間ですら、それほど多くはないということだ。
そんな中で、魔女になるために必要な魔力指数は16。割合的には10万人に一人くらいの狭き門である。魔力指数はたいていは遺伝で、まれに修練によって後天的に少し上がることがあるくらいだ。つまり、魔女の子は魔女になりやすいのだ。どうして魔女という名がついているかといえば、今のところ魔力指数16を超える人間は、全て女性だということから来ている。
「ヘカテー、君の魔力指数は? 確か去年計ったときは……」
「15よ。最大値」
「やっぱり、君はメイリーンの娘だね。ということは、順当にいけば……」
「ええ。来年には、16だわ」
魔力指数の最大値は20だが、個人ごとの最大値は年齢である。つまり、10歳まではどんなに強い魔力を持っていても10までしか結果は出ないし、20歳で初めて最大値が見えるということである。そして、年齢と魔力指数がイコールの者は、恐らくこのまま年齢を重ねても、魔力指数がそれに伴って上昇していくということでもある。
ヘカテーは今年15歳になった。ゆえに、今のヘカテーの魔力指数の最大値は15ということになる。ほかの例に漏れない魔術師であれば、来年にヘカテーの魔力指数は16を超える。
「あたし、16歳になったらすぐに魔力指数測定をして、そのまま魔女試験を受けるわ。今の身元保証も地位もない状態じゃ、何かと面倒でしょ。だから伯父さま、楽をさせてあげるから楽しみにしててね」
「ふふ。私は、君が元気で過ごしてくれればそれでいい。私にとっては娘のようなものだ」
「あたしにとっても伯父さまはパパみたいなものだわ。優しくて、手が大きくて温かいの。小さい頃、伯父さまとママに頭を撫でられるたび、すごくうれしかったもの」
ヘカテリーナの微かな記憶に焼き付いている母は、いつも優しく微笑んでくれていた。だからこそ、母から継いだこの魔力を、あんな国に食い潰されるのはごめんだった。
「あたし、立派な魔女になるわ。だから、見守っていてね、ママ」
そう誓ったヘカテリーナは、新たな国へと一歩を踏み出したのだ。
◆◇◆
魔術師の国フレイミランダは、とても豊かな国だった。ヘカテリーナはすぐにこの街へと馴染んだ。最初は、名のない魔術師でも受けられるこまごまとした仕事を受けながら魔女試験の勉強をし、一年を過ごした。誕生日プレゼントに魔力指数測定の招待券を貰って、魔力指数を確認すれば、ヘカテリーナの望み通り、16という結果になった。測定を行った魔術師は目を丸くして、魔女試験への推薦状が必要かを尋ねてくれた。ヘカテリーナは悩む素振りも見せずに「お願いするわ!」と元気よく頼んだ。
二か月後、魔女試験を受けた。連盟の出す厳しい課題を、ヘカテリーナは天性のセンスと強い魔力でたちまちクリアしていく。そのまま半年、試験を継続して、ヘカテリーナは魔女の称号を得た。最年少の魔女の誕生だった。それもそうだろう。普通は、16歳の時に魔力指数が16を超えるような少女は滅多に現れないのだ。そのうえで、厳しい魔女試験に耐えられる少女もいなかった。ヘカテリーナが現れるまでは。
「おめでとう、魔女ヘカテリーナ。君は今日から、魔女連盟の仲間入りだ」
試験を担当してくれた壮年の魔女は、きれいな金色の宝石が取り付けられた、長い杖を手渡した。その宝石は、ヘカテリーナの瞳と同じ色をしていた。見るだけでも、かなり純度の高い魔石だと分かる。
「魔女とは、この大陸のあらゆる国で価値が共有される名誉ある地位だ。貴族のような権利を持つわけではないが、各国で功績を上げれば、重要な地位につきやすい。そのことを胸に留めて、今後も魔術の研鑽に励んでくれ」
「はい!」
「それでは、二つ名を授けよう。これは、魔女の通り名とでも思ってくれればいい。通常は、その魔女が得意な魔術や、試験内容、それまでに残した功績などを吟味して決めるのだが――君の経歴は、あまりにもきれいだな」
「ええ。国を出るときに全て清算したから。あたしはただのヘカテリーナ。敢えて言うなら、ヘカテリーナ・シェルヴェーゼ」
「その姓を持つ魔女がいたね、なるほど、君は彼女の子か。では、月並みだが、やはり君の称号はこれしかありえない」
母の二つ名は確か「秀麗の魔女」だったはずだ。生まれつきの魔力はそれほど高くはなかったが、厳しい修練により、魔女の地位を手にした偉大な魔女。目の前の魔女は、温和に微笑んで、告げた。
「天才。天から授かった――あるいは母から授かった、圧倒的な素養。魔力量、課題の手際、工夫、それらすべての発想は素晴らしいものだった。この称号は、君にこそふさわしい」
「天才……いいじゃないっ。ママも小さなころに魔術を使うあたしを見て言ってくれたわ! ヘカテーは天才ねって」
「では天才魔女ヘカテー。君の今後の人生の幸福を祈っている。もしも何か困ったことや、魔女連盟を通して仕事を受けたり、逆に依頼したりしたい場合は、いつでも相談をしてくれ」
こうして、ヘカテリーナは念願の魔女となり、新たな人生を歩みだしたのだ。それは、追放され、国を出て僅か1年半後のことだった。
今までは、抑えるばかりの人生だった。やりたいこともやらせて貰えず、お前の価値は良家に嫁ぐことだけだと教えられ、優れた魔力量も生かせず、他人の顔色を窺って、偽りの笑顔を浮かべる日々。貴族の女は男の装飾品。そんな風に言われるのも、うんざりしていた。
そんな日々をおさらばして出た世界で、ヘカテリーナはやっと自分の人生を見つけ出した。母と同じく魔女となり、祖国では許されなかった魔術を存分に使って生きていく。この先に待つ日々に、ヘカテリーナは憧憬し続けた。伸ばした手が届いた途端、ヘカテリーナにとって生きることがこの上なく素晴らしいことに思えたのだ。
それからは、魔術学院に通った。魔女としての地位を使って、国一番の学院に入学し、専用の研究室を与えられ、卒業までにいくつもの成果を上げた。フレイミランダの中で、天才魔女ヘカテリーナの名は轟いた。そして驚くことに、ヘカテリーナの魔力量は年々増え、20歳の頃に、最大値の20を記録した。これは、過去の記録を遡っても、ほとんど生まれたことのない天性のもので、彼女の「天才」という二つ名に間違いはなかったのだと誰もが認めた。
おそらくは、父方の魔力も継承していたのだろう。奇しくも、父が取った魔力が強い女性を妻に迎え、子を産ませるという方策は成功していたのだ。あの国でなければ、ヘカテリーナは蝶よ花よと育てられていてもおかしくはなかった。
魔力量が増えたヘカテリーナの魔術は、すでに「魔法」の域に達した。理論で魔力を練り上げるための術式を組み立て、長い時間をかけて発動させるそれが「魔術」なのだとしたら、術式も必要とせず、体と一体となる魔力を自在に使って奇跡を起こすその術が「魔法」である。魔女の中には、こうして魔術を魔法に昇華させるものも一定数いるという。ヘカテリーナの魔法はそれだった。
高い塔のような住居のベランダから、箒に跨って、漆黒の外套を靡かせ、空を駆ける少女のような魔女がいる。いつの間にか、ヘカテリーナはフレイミランダの一人の住人となっていたのだ。
◆◇◆
魔力沈下硬化障害という病気がある。それは、人が持つ魔力が、下半身にまるで液体のように沈殿し、うまく体を循環しなくなる症状だ。一般的には魔力が効率よく体を循環している状態を「健康」と言い、循環する魔力が乱れていると、たいていは体のどこかに異常が発生しているものだ、と言われている。
この魔力沈下硬化障害はまさにそれで、この症状が起きると、下半身に障害が出る。初期症状としては、足元の違和感だ。少し足が動きにくい、何となく足が重い、そういった疲労を起因とするものと似通った症状ゆえ、その重大さに気づけないものは多い。進行すると、今度は足の指から順に、うまく動かなくなっていく。悪化しなければ、運動がしにくい程度で、日常生活程度ならこなすことができる程度で留まるが、悪化すると歩くこともできなくなったり、自力で立てなくなることもある。
この病気は明確な原因がいまだに分かっていない。「体質」というあいまいな言葉でしか表現できない要因を解き明かすために、医師会は日々研究を行なっているのだ。ある日突然、何の前触れもなく魔力が沈下し始め、下半身に溜まり始める。そして厄介なことに、治療薬は見つかっていない。魔力を元の通りに循環させようとしても、魔力の質が変異しているのか、うまく戻らない。無理やり魔力を取り去っても、数日後には同じように沈殿している。
ゆえに、今までの常識では、魔力沈下硬化障害を発症させれば、ほぼ治療は不可能と言われた。ごくまれに、高位の魔術師に高い金を払って、定期的に魔力を取り去ることで、進行を止めることはできるものの、それも眉唾だ。
しかし、今。フレイミランダの中央医院で、魔力沈下硬化障害への治療法の治験が終わったと発表された。それは、今までの常識が大きく覆る瞬間だった。
医院の一室で、小さな子が、両親に連れられ、椅子に座らされた。まだ8~9歳くらいの幼い少年で、少し暗い顔をしている。
「先生、どうかお願いします。この子の足を……治してください」
「力を尽くします。では、こちらへ」
医師が部屋の奥へと案内する。少年の父親が、少年を抱きかかえて、そちらへと移動する。魔力沈下硬化障害がかなり進行していて、幼い少年は歩くことすら難しくなった。つい数ヶ月前までは、公園を走り回り、元気にしていたという。けれど、ある日突然、足の不調を訴え、歩きづらそうにしている息子を見て、医師に見せれば、魔力沈下硬化障害だと診断された。
幼い身にはあまりにも過酷な申告だった。これから先、少年は自分の足で歩くこともできずに生きていかなければならないのだ。そう知ったとき、両親は運命を呪った。少年はわんわんと泣き、つい数日前まで一緒に走り回っていた友を、窓越しに見つめる日々が続いた。
そんな中で、隣国で魔力沈下硬化障害を回復できる手段が見つかったという情報を得て、急ぎ海を渡ってきたそうだ。
医師が奥の部屋にある水槽のような大きな箱にかぶせてあった布を取り去ると、その下には金色に輝くスライムのような粘性の何かがぴったりと張り付いていた。ぎょっとした両親は、思わず医師に尋ねる。
「先生、これは一体……?」
「これが、魔力沈下硬化障害を回復するために開発された治療法です。患者には、今から水槽のへりに腰かけて、中にあるスライムをゆっくりと踏んでもらいます」
「スライムを……踏む? そんな方法で、本当に治療ができるのですか……!?」
それは、聞いたこともない治療法だった。しかし目の前の医師は、冗談を言っている風ではない。
「足を動かすのもつらいかもしれませんが、ゆっくりでいいので、少しずつ踏んでみましょう。それを、毎日30分。個人差がありますが、だいたい1週間~2週間ほどで効果が現れ始め、治るまでに2週間~1か月ほどです」
「最初に治療の日数を聞いた時に、いったいどんな治療をするのかと思っていましたが……まさか、こんな方法だったとは」
「意外でしょうね。けれど、効果は確かです。過去に治験を行なった患者も、治療をちゃんと確認できていますから、安心してください。スライムは少し感触が独特なので、踏むのを躊躇うかもしれませんが、粘性が強く、足の裏に張り付くタイプではないので、ぶよぶよとしたものを軽く踏む程度の気持ちで、やってみましょう」
両親は顔を見合わせ、そして頷き合った。そうして、少年を抱いて水槽のへりに作られた椅子のような場所に座らせると、少年は恐る恐ると言った様子で、足をゆっくりと下ろした。やはり、足を動かすのもつらい様子だ。それを見て、両親は思わず顔を歪める。
「頑張れそうか?」
「うん。でも、ちょっと気持ち悪い……」
「我慢して。これを毎日続けたら、また前みたいに歩けるようになるから」
少年は、躊躇いながらも、ぶよぶよしたスライムを少しずつ踏んでいく。そうして、小さな少年の治療が始まった。
来る日も来る日も、少年は両親に連れられて病院を訪れ、スライムを踏んでは帰っていく。そんな奇妙な治療を始めて一週間後。少年は、少しだけ暗い顔をして治療に臨む。
「まだ、効果が出ていないようで……不安に思っているようなんです」
「そうですね。若い子だと、そろそろ効果が出始めてもおかしくはありませんが……」
「ん~、もうちょっとね。明日くらいにはいい感じになるんじゃないかしら」
突如、部屋の中に響いた若い女の声に驚き、両親はばっと振り向いた。すると、そこには真っ黒なとんがり帽子に、漆黒の外套を纏った、少女のような面影を残す若い女が立っていた。その人物を見ると、医師はぱっと顔を上げて女性を呼んだ。
「ヘカテリーナ女史! いらしていたのですか」
「ええ。治療用スライムが足りなくなりそうだからって聞いて、追加分を持ってきたのよ。それと、追加の発注もね。ついでだから患者の様子を見ておこうと思って」
「そうでしたか。いつもありがとうございます。ああ、クローンズさん、紹介します。彼女はヘカテリーナ・シェルヴェーゼ女史。この治療法を提案された、若き魔女です」
「初めまして。ヘカテリーナ・シェルヴェーゼよ。一応、この国で魔女子爵の地位を賜っているわ」
ヘカテリーナは、快活に微笑んだ。その名を聞けば、クローンズ夫妻は目を丸くした。
「まさか、天才魔女の……? お会いできて光栄です」
「あたしってすごいわね。隣国の人にも知られてるんだ。ええ、大丈夫よ、クローンズさん。見る限り、治療の効果はちゃんと出てる。下半身に沈下した魔力が、徐々に分解されてるわ。さっきも言ったけど、この調子だと明日には変化を感じられるはずよ。息子さんを信じてあげて」
「ヘカテリーナ様……ありがとうございます!」
ヘカテリーナは温和に微笑むと、そのまま足取り軽く、少年の方へと歩いていく。どこか暗い顔をしていた少年に、ヘカテリーナは優しく問いかけた。
「どうかしら。スライム、気持ち悪い?」
「ちょっと……でも、慣れて来た……」
「そ。それは良かったわ。今までよく頑張ってきたわね。大丈夫、あなたは絶対に元の暮らしに戻れるわ。この天才魔女、ヘカテー様が保証してあげる!」
そうして微笑むと、少年はどこか所在なさげに笑った。まだ半信半疑と言う様子ではあるが、しかし気にかけて貰えたことが嬉しいのか、それ以上に弱音は吐かなかった。そうして挨拶を済ませると、ヘカテリーナはひらひらと手を振った。
「じゃ、あたしほかの患者のとこにも行くから。あとはよろしくね」
「はい! お任せください」
ヘカテリーナは颯爽と部屋を後にした。黒い外套の裾が靡くのが、妙に瞼に焼き付く、不思議な女だった。
ヘカテリーナはそのまま、ほかの患者への回診を終え、エントランスへ向かっていた。国を出て10年、ヘカテリーナは魔女として様々な仕事や研究をこなし、魔術師が重んじられるこの国で魔女子爵という特別な爵位を賜った。
魔力沈下硬化障害への治療法もその一環である。あることをきっかけにこの症状に興味を持ったヘカテリーナは、自分の研究室が得られ、医師会とパイプができると、これに対する研究を始めた。人体の下半身に魔力が溜まることによって引き起こされる病気で、その原因も治療法も不明。けれど、魔力に関わる事ならば、少なくとも医師よりは魔術師の専門だ。長く求められ、成果を上げられずに終わっていた歴史に終止符を打ったのが、稀代の天才魔女だった。
エントランスに顔を出すと、受付の傍で何やら騒いでいる声が聞こえた。
「――だから、すぐに治療の準備をしろと言っている。私は、ポーネット公国のアークライト侯爵家の者だぞ! ロベルタ子爵だ!」
その声に、ヘカテリーナはきょとんとした後で、はぁ、と息を吐き出した。そうして、ゆっくりと歩み寄っていくと、ひどく困った顔をした受付嬢の顔がパッと明るくなる。ヘカテリーナはそこで足を止めて、息を大きく吸って、告げた。
「ちょっと。そこのあなた、ここは医院よ。けがをした人や、病気をした人が、苦しいのを我慢して治療を求めてくる場所なの。大きな声を出されると迷惑なのよ」
「な……何だと。私を誰だと思って」
振り向いた男と、目があう。10年が経ち、互いに雰囲気が変わっているものの、その顔には見覚えがある。
「……ヘカテリーナ……?」
「ええ、そうよ。お久しぶりね、アシュリー」
「な……なぜ、君がここにいる?」
「それはこっちのセリフ……と言いたいところだけど、だいたい想像がつくわ。奥さんの事でしょ?」
ヘカテリーナが腕を組み、そう告げれば、アシュリーは驚いた後で、キッとヘカテリーナを睨む。
「なるほど……分かったぞ。君がやったんだな」
「何のことかしら。まぁ、その先の言葉も何となく想像できるけど。とにかく、ここで騒がれたら迷惑なの。話くらいなら聞いてあげてもいいから、ついて来てくれるかしら」
「偉そうに物を言うな。私が誰だか忘れたわけじゃないだろうね」
「偉そうなのはどっちかしら。あのねぇ、友好条約も結んでない他国の侯爵家なんて、この国での地位はないに等しいのよ。他国にまで来て威張り散らすの、どうかと思うわ。あなたがどれだけ優れた貴族の家の出だろうと、ここで騒いでも誰かの今夜の酒の肴になるだけよ」
「な……」
フレイミランダは、ポーネット公国と国交がない。そのため、立場をひけらかされても、ピンとくるものはいないだろう。
「だから、受付でそんな毛ほどの価値もない肩書を披露されても、受付の人は愛想笑いを浮かべるしかないわけ。少しくらいその空気に気づいたほうがいいわ。自分に酔うのも結構だけど」
「何を……」
「それで、どうするの? あたしについてくるの? それとも、ここで騒ぎを起こして警吏に捕まる?」
「ぐ……」
アシュリーも決して愚かではない。ここで問題を起こし、捕縛されれば厄介だと分かっていた。そうして、おとなしくなったアシュリーを見て満悦そうに笑うと、ヘカテリーナは踵を返した。
「こっちよ。ついてきて」
そうして、医院の奥にある研究塔へ向かう。塔の奥にある研究室へ向かうと、そこは一人の人間が十全に生活できる程度のスペースが整えられ、大量の薬品と本が棚に収められた、どこか消毒液の香りのする部屋だった。
ヘカテリーナは適当に書籍を片付けて、椅子を取りだすと、そこへ座るように言いつける。アシュリーは渋々と言った様子で腰を下ろすと、その正面にヘカテリーナは腰掛け、とんがり帽を脱いで、軽く指を振った。すると、三角帽はまるで意思を持つかのように空中を舞い、部屋の隅にあった帽子立ての頂点へと収まる。それを見て、アシュリーは目を丸くした。
「ヘカテリーナ、君は魔術が使えたのか?」
「知らなかったかしら。とはいっても、あの国じゃ女性の魔術師はいないんだったわね。魔術の勉強をしていたら、伯爵に怒られたわ。だからこっそり隠れてね」
「そうだったのか。魔力量が期待できる娘を、と伯爵が父上に話していたと聞いたが」
「ええ、そのとおりね。あたしの魔力指数、聞いたら腰抜かすわよ」
ヘカテリーナは妖艶に笑う。その様子は、10年前と何も変わらない。悪戯娘が魔性の女になっただけだ。その光景に、なぜか妙な懐かしさを覚えて、アシュリーは気持ちが落ち着いてくる。
「それで、あなたがこの国までやってきたのは、奥さんの魔力沈下硬化障害のことね」
「なぜ君がそれを知っている? やはり、君がジュリアナに仕込んだのか?」
「いいかしら? 魔力沈下硬化障害って言うのは、つい最近まで治療法は愚か、要因すら不明の不治の病だったの。外的要因によって引き起こす手段なんて、発見されてないわ。知らないの?」
「う……」
「足りない知識を想像で補おうとするの、あなたの悪い癖だわ。この病気と40年以上向き合ってる医師会長が聞いたら激怒するわね、間違いなく。分からないから不治の病なのよ。病気になる原因も、治す方法もね」
「……だが、君は毒虫を彼女の靴に入れただろう。その毒虫が、彼女の足を悪くした原因だと、彼女は言っていたんだ」
「ああ、あれ? その虫ってのは、これよ」
ヘカテリーナは近くの培養層から、一匹のそれを指先でつまんで持ち上げる。思わず身構えてしまったアシュリーの目の前で、その虫は生きが良く左右へと揺れる。軟体の光り輝く謎の虫だ。うねうねと揺れるその虫は、人の小指の爪程度のサイズで、靴の中に入っていたとしてもまず気づかないような、小さな生物だ。
「なんだ……その虫は」
「正確には、魔性生物だけど。これは魔養虫っていうの」
「魔養虫……?」
「腐葉土などに産まれ出る土や緑の魔力から構成される魔性生物。魔力の循環がうまくいかずにしおれてしまう植物の下に入り込んで、垂れて来た葉に潰されると、土や茎に魔力を大量に与えてくれる存在って言われてるらしいわ。庭師である伯父さまが、よく見かけるって言ってた。もちろん、毒なんてないわ。だって魔性生物だから、これってただの魔力の塊が生物の特徴を得ただけのものだもの」
「そ……そんな虫を、どうして彼女の靴の中に入れたんだ?」
アシュリーは完全に引いている。それはそうだろう。ヘカテリーナの言う通り、毒はないにしても、この虫を靴に入れる意味はまるで分からないのだ。ヘカテリーナは小さく頷くと、考え込みながら、言葉を探す。
「あたし、気づいてたのよ。あの娘の魔力が不自然に下半身に溜まってるのに。というか、たぶんあたし以外にも、優れた魔術師で気づいてた人間はあの国にも山ほどいたんじゃないかしら」
「何だって……?」
「たまに、あの娘は足を引きずって歩いてた。それで、あたしは思ったの。これって、本で見た魔力沈下硬化障害ってやつじゃないかしらってね」
「……まさか、君が国にいた頃から、その兆しがあったなんて」
アシュリーは、気が付けばヘカテリーナの話に聞き入っていた。落ち着いた声音で、丁寧に整理し話すヘカテリーナの話には、信ぴょう性があったように思えたのだ。
「あたしも、いつからかは知らないわ。気づいた時にはそうだったから。あたしはこの病気にとても関心を持ってた。だって、魔力を起因として起こる不治の病よ? 魔術師として、惹かれないほうがおかしいと思うわ。あの娘のことは好きじゃなかったけど、だからこそちょっと実験してやろうと思って」
「実験?」
「さっき、しおれた植物の話をしたでしょ? そのしおれた植物の魔力のたまり方ってね、同じなの。魔力沈下硬化障害と」
「な……」
何でもない事のように言ってのけた彼女は、近くにあったホワイトボードを引き寄せて、そうして花と地面と魔養虫の図を描いた。茎の下半分を塗りつぶし、片葉をぐるぐると黒く印をつけた。
植物の魔力沈下が発生すると、下の方にある葉が徐々に垂れていく。そして、魔養虫は、軽い葉の重量でも十分につぶれるほど脆い生物であり、葉に潰されるとその場に魔力を霧散する。その時、魔養虫に触れていた生体の内部に魔力が流れ込む性質があり、流れ込んだ魔力はなぜか沈下した魔力に作用すると、それを分解して、徐々に茎の内部から全体へ魔力が行き渡るようになる。しおれかけた花が、もう一度空を見上げることがある、という不思議な現象はこれで説明ができるのだ。
それを、人体に置き換えても、症状としては非常に酷似している。だからこそ、ヘカテリーナはこの魔養虫に含まれる魔力の質を解明することで、魔力沈下硬化障害への特効薬を生み出せると考えた。
「最初に提案した治療法は、大量に培養した魔養虫を水槽の底にびっしり埋めて、それを踏みつぶすっていう方法だったんだけど……」
「……やめてくれ。想像しただけで寒気が走った」
「そうね。あたしは気にしないけど、案の定不評だった。だから、魔物の中でもその地に渦巻く魔力の質をより濃く反映し、進化を遂げるスライムの体成分を利用したの。スライムの性質と質感を表現する研究はすでにあったから、直接講義を受けたわ」
「では、そのスライムを使えば魔力沈下硬化障害を取り除くことができるのか」
「治験では、効果が見られることが分かってる。魔養虫の成分を調べた時、人体へ悪影響を与えるものは一つも見つからなかったから、薬のようにアレルギーや副作用の心配もないわ。ちょっと時間がかかるのだけれど」
ヘカテリーナは、魔養虫を元の培養層に戻して、そうして艶やかな黒いタイツを履いた細い足を、そっと組んで前髪をくるくると指先で弄ぶ。会話に飽きてきたサインであることを、アシュリーは知っていた。
「それで……彼女の靴にその魔養虫を入れたのは」
「ええ。魔養虫が魔力沈下硬化障害に軽微な影響を与えられるかどうかの実験。もしもあの娘が何も言わずに靴を履いていたら、あと三年は発見が早かったかもね。さっきも言った通り、この虫には人体に対する有害なものは含まれていない。つまり、毒虫ってのはあの娘の虚言だったってわけね」
「……」
その事実を認められないのか、はたまた覚えがあるのか、アシュリーは口を噤んだ。その様子を見て、ヘカテリーナは指先を軽く振って、遠くの机の上に置いてあったティーセットを器用に動かすと、熱いお湯を水と炎の魔術で沸かし、紅茶を抽出した。アシュリーとヘカテリーナの目の前には、ほかほかの紅茶が置かれる。
「この先はあたしの予想だけど、あたしとの婚約を解消して、ジュリアナと結婚すると言った時、ハーマン子爵から反対されなかったかしら」
「な……なぜそれを?」
「あたしがあなたに愛妾を許すって言ったのは、彼との取引だったからよ」
「は……?」
ヘカテリーナは紅茶の表面に視線を落として、手元のマドラーでくるくると紅茶をかき混ぜながら、砂糖をこれでもかと言うほどに入れていた。思わずアシュリーが止めたくなるほどに。けれど、彼女の言葉に衝撃を覚えたアシュリーは、口を半分ほど開けて唖然としていた。
「あたしはあなたに愛妾を許す。彼はあたしに、国外の情報を色々仕入れて教える。それが取引」
「なぜそんなことをしたんだ? ハーマン子爵は、実の娘が侯爵家の人間の正妻になることをよいと思わなかったのか?」
「普通の娘なら、それは喜んだでしょうね。普通なら成立しない縁談だもの。けれど、彼女には魔力沈下硬化障害の兆しがあった。ジュリアナは、症状が現れてから一度も社交界に出られなかったでしょう?」
ヘカテリーナの指摘に、アシュリーは言葉を詰まらせた。思った通りだと言わんばかりにヘカテリーナは息を吐き出すと、魔術でミルクをハートの形に描きながら、昔を回顧するように告げた。
「社交界に出られない正妻を抱えた夫は、あの国では恥をかくの。あなただって、揶揄されたことは一度や二度ではないはず」
「……」
「当然、非難は夫だけではなく正妻にも向かう。ジュリアナがあなたの正妻に迎えられたのは、ハーマン子爵にとってはマイナスの面の方が大きいはずよ。社交界に出られない娘を、嫁にやったんだもの」
「そんな……では、私が権力を行使して無理やり彼女を正妻に迎えたのは……何一つとして、彼女のためになっていないのか……」
「ま、もうあたしには関係ないことだけど。黙ってた周りの大人はきっと、ハーマン子爵家の衰退を願っていたのね。ご愁傷様」
アシュリーはがくりと肩を落とした。その様子を見て、ヘカテリーナは特に顔色を変えなかった。彼女にとって、目の前の男がすでに他人であることを示していた。
「はい、説明終わり。じゃ、あたし研究あるから」
「ま……待ってくれ。きっと、魔力沈下硬化障害を治せば、皆彼女を見直してくれるはず……だから治療を願いに、わざわざこんな遠くの国までやってきたんだ」
「願いに来た態度とは思えなかったけれど。それと、この治療方法はまだ量産の態勢が整ってなくて、あたししかスライムへの魔力注入を行なえない状況だから。この医院でしか、今のところ治療は受けられないのよ」
「そ……そんな! だが、もう彼女は歩けないんだ。それなのに、こんな遠くの国まで連れてくるなんて無理だ」
「じゃ、諦めるか魔女を雇いなさい。魔女なら、大規模な転移魔法や飛行魔法を持ってる人が多いわ。彼女たちに頼めば、奥さんに負担をかけることなく、この国まで運べるんじゃないかしら」
「だったら、君がやってくれ。君にもその責任があるだろう」
アシュリーの物言いに、ヘカテリーナは明らかに顔を顰めた。先ほどまで、アシュリーの話を興味なさそうに聞いていた彼女は、憤ったように胸を張って、鼻息を荒くする。
「はぁ? なんの責任だって言うのよ」
「だって、君は知っていて黙っていたんだろう? 彼女の病気のことを。それは過失というものじゃないか」
「他人の病気に責任なんて持たないわよ。あなたは、いつもお世話になった友人が重い病気に掛かったら、治療費をぽんと出してあげるの? 病院に行くのが少し遅れたからって、いつも一緒にいた友人を責めたりする?」
「それは……」
「あなたが言ってるのって、そういうことだわ。ほんと、傲慢だこと」
とにかく、ヘカテリーナに因縁をつけてただ働きさせたいつもりのようだ。しかし、ヘカテリーナにそのような慈愛の心が湧くことはあり得なかった。無駄を嫌う彼女にとって、自分以外でも済む仕事を簡単に引き受けるつもりはなかったのだ。
「だいたい、あたしは分かんなかったって言ったじゃない。そういう症状っぽいなって思ったのよ。だったら、責めるべきはそれを理解して、侯爵家や子爵家の破滅を願っていた取り巻きでしょうよ。あたしの知ったことじゃないわ。勝手にすれば?」
「なぜ、君はそうやっていつも……人に対する優しさというものはないのか」
「ないわ。あたしに優しくしてくれなかった人間に、どうして優しくする必要があるのよ。あの娘があたしにやったことと言えば、虚言に名誉棄損、殺人冤罪、証拠捏造、ほかにもいろいろ罪状があるけれど、聞く?」
「……ぐっ……」
言い返せなくなったアシュリーを見やって、ヘカテリーナは鼻を鳴らした。口喧嘩と魔法戦なら、ヘカテリーナを負かせるものはこの国でも数えるほどしかいないだろう。それほどまでの、筋金入りのお転婆なのだ。
アシュリーは、これ以上自分の土俵で交渉するのが無理だと思ったのか、息を吐き出した。
「……なら、いい。君の年俸分の報酬を出すから、妻の治療まで面倒を見てくれ」
その言葉に、ヘカテリーナはきょとんとした後で、けたけたと笑った。腹を抱えて、甲高い笑い声が部屋内に響き渡る。その突然の爆笑に、アシュリーは慌てて声を掛けた。
「な、何か問題があるのか?」
「いえ……無知って怖いなって思ったのよ。でも、言ったわね。自分の言葉には責任を持って貰うわよ」
「あ……ああ、構わないさ。君の一年の年俸分くらい、私の家なら余裕をもって出せるんだからな」
「ふふっ。ふふふっ。ね、言ったわよね、あたし。足りない知識を想像で補うの、良くない癖だからやめなさいって。じゃ、請求するわね。あたしの年俸分の報酬」
ヘカテリーナは、目の前に五本の指を広げて突き出した。それを見て、アシュリーは目をぱちぱちとすると、頷いた。
「金貨五十枚か。まぁ、安いものだな」
「バカね。桁が違うわよ。あたしの年俸は、大金貨五枚よ」
「だ、だ、大金貨五枚!? 普通の人が生涯かけて稼ぐ金の、四分の一くらいあるじゃないか! 嘘を言うな!」
「あははっ。ほんとあなたって、言葉が軽すぎるのよ。でも、ほんとよ。あたしは今この国に雇われてるわけだけど、年俸はだいたいそれくらい。だって、魔女史上最年少で魔女の資格を得て、魔力指数は最大値の20。それが、天才魔女ヘカテー様だもの!」
ヘカテリーナが扱う魔法には、魔力指数20であるというだけで理解できないほどの価値がある。常人には扱えない質の魔力を自在に操り、見たこともない魔法を使い、それを使って生活を豊かにする方法を求めている。もはやヘカテーは、フレイミランダが抱える顧問魔女にも等しいのだ。
「それで、もちろん払ってくれるのよね。あたしにそんな口を利いたんだもの。言葉だけじゃないってこと、見せて貰おうかしら」
「~~っ。分かった……どちらにせよ、治療費には莫大な金を掛ける目算だったんだ。その代わり、絶対に治すんだぞ」
「医療に絶対はないわ。でも、どれだけ嫌いな相手だろうと患者は患者。正規の手続きを経て治療を受けるなら、あたしはそこに私情は挟まない。ただね、お金を積まれても、治療の順序はかなり後になるわ。なんせ、国内外から治療の申し込みが殺到しているんだもの」
「融通を利かせては貰えないのか」
「無理。さっきも言ったけど、まだ治療用スライムの生産ラインを確保できてないの。だから、ひと月に治療をできる人数には上限があるのよ。国に色々動いて貰ってるけど、残念ながら目途は立ってないわ。魔養虫の魔力を扱うのってすごく難しいらしいわね」
ヘカテリーナは腕を組みながら、部屋の中を忙しなく歩き回る。そうして、思いついたようにアシュリーの方をちらりと見る。
「受付の人に怒鳴ってたってことは、空いている治療期間の話を聞いたんでしょ? 何か月後?」
「……確か、九か月後、と言われた」
「もうそんなところまで予約が埋まってるのね。まったく……ほかの研究もしたいのに。早く生産ラインを確保しないと」
「これより早くは、不可能なのか」
「諦めて、九か月後に予約を入れて待つことね。入院できるようになったら手紙をやって迎えに行ってあげるから」
「……そうか」
この国においては、ポーネット公国侯爵家の権威は響かない。彼がどれだけ庶民を後回しにしようとしても、そうはいかないのだ。フレイミランダの医院は、等しく患者を順番待ちの列に加える。魔力沈下硬化障害は、命に関わるようなものではないので、優先順位は発生しないのだ。
「じゃ、医院に話を通してあげるから、行くわよ」
「……ああ」
すっかり意気消沈と言った様子のアシュリーと、踊るように軽い足取りのヘカテリーナ。その二人の歩みは、非常に対照的だった。
◆◇◆
九か月後、アシュリーは魔女連盟からの手紙を受け取った。魔女たちは他国へ便りを出す際、自国の地位ではなく、魔女連盟の名を借りて手紙を送ることが多い。特に、貴族への手紙はその傾向が顕著だ。
アシュリーの下へ届いた手紙には、ヘカテリーナ・シェルヴェーゼの名が刻まれていた。当初、10年前の事情を知る使用人は困惑した様子でその手紙をアシュリーの下へと持っていったが、アシュリーは手紙を見ると、すぐに封を切って中身を確認する。
手紙には、三日後の日付と、入院先の病室の詳細などが載せられ、出発の時間が書かれていた。アシュリーは急ぎ執務室を出ると、自室のテラスで車いすに座り、痩せ細った腕で紅茶を啜るジュリアナの下へ向かう。彼女はすっかりと生気を失い、目の下には濃いクマができて、ストレスで肌はボロボロになってしまった。あらゆる非難を受け、自由に出歩くことすらできない彼女が心を病んでしまうのは、当然の結果だったのかもしれない。
「ジュリアナ。ついに、君の足を治せるときが来た。三日後だ。三日後に国を発ち、フレイミランダの医院に入院する」
「アシュリー様……私、ヘカテリーナ様にどんな顔をすればよろしいのでしょうか。10年前の自分が愚かすぎて、何も、言えないのです。他人を押しのけて自分だけが幸福を得ようとした、そんな愚行の結果が、今です。私は、あなたと一緒にいられるだけで幸せだったはずなのに……欲を出して、あなたのすべてが欲しくなってしまって……たくさんの人を不幸にしました」
「ジュリアナ……私も愚かだったんだ。君のことを何一つ見えていなかった。大人たちの悪意にも、何も知らずに真実の愛を見つけたなどと舞い上がって、婚約者を糾弾し、破滅を招いた。君だけが悪いわけじゃない。だから……顔をあげてくれ」
「アシュリー様……申し訳ありません。申し訳、ありません……」
この10年で、何度ジュリアナの謝罪の言葉を聞いただろうか。ジュリアナが社交界に出られなくなり、父の地位と名誉は地に堕ちた。それまで順調だった出世街道は急に閉ざされ、今ではどこへ行っても鼻つまみ者だ。ジュリアナは理解していなかったのだ。侯爵家という名誉ある家に正妻として入ることの、本当の意味も、自分の体のことも。
恋をして盲目だったのだろう。だから、周りの大人たちに簡単に利用されてしまったのだ。
三日後、広い庭で、魔女の到着を待っていると、太陽の方から黒い一つの影が、すさまじい速さで飛んできた。砂埃を少し立て、庭が荒れるのも気にせず、堂々と現れた漆黒の服を着た魔女は、胸を張って不敵に微笑んだ。
「迎えに来たわ。まさか、もう一度この国に来ることになるなんて思わなかったけど」
「ヘカテリーナ……」
「勘違いしないで。別に、何の未練もないわよ。あたしはフレイミランダの魔女ヘカテー。それがすべてだもの」
ヘカテリーナはふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。車いすに座ったジュリアナは、深々と頭を下げた。
「……ヘカテリーナ様。10年前に働いた数々の無礼を謝罪いたします。本当に、私は愚かでした。申し訳、ありませんでした……!」
「あら。また威勢よく、アシュリー様に近づかないで、なんて啖呵を切られると思ったのに、随分と殊勝なのね。いいわ、あたしだってあなたに感謝してるところもあるんだし」
「感謝……?」
「あなたが婚約者の座を奪ってくれたおかげで、大嫌いだったお父様との縁を切って、国を出て憧れの魔女になれたの! だからぶっちゃけ、気にしてないわよ。あんたのことは嫌いだけど!」
「……申し訳、ございませんでした」
ジュリアナは、もう一度深々と頭を下げる。それを見て、ヘカテリーナはふふん、と上機嫌に笑うと、ぱちんと指を鳴らした。するとそこには、大きくファンシーな馬車が現れる。ふわふわと雲のような装飾が付き、リボンやかぼちゃで彩られた不思議な馬車だ。そしてその馬車を引くのは、二頭の純白の馬だ。馬の背には、これまた白い羽根が二対生えている。
「これは……天馬? 遥か昔に絶滅したはずでは」
「学生の頃に迷い込んだ森の向こうで、天馬の蹄を見つけたのよ。遺伝子魔術学の権威の所に駆けこんで、復元魔法に挑戦したわ! その結果、今ではフレイミランダでは畜産が進んでいるの。貴族たちは皆、天馬を所有して飛行して移動してるわ」
「……本当に、君はすごい魔女なんだな」
「あら。やっと分かったの? ふふん、そうよ。あたしこそは秀麗の魔女――メイリーン・シェルヴェーゼの娘!」
ヘカテリーナは、全力で胸を張り、拳で胸をぽん、と叩き、何も恐れなどないように、名を告げた。
「天才魔女、ヘカテリーナ・シェルヴェーゼなんだから!」
魔女の娘は追放され、魔女となった。ヘカテリーナの探求心は、人の助けとなった。彼女が生み出した魔法で、人々の生活はより豊かになったのだ。そこに、彼女の人への感謝はほとんどない。ただ、彼女は知りたいだけなのだ。
自分の魔法で何ができるのか。母から受け継いだ魔法の力はどれほどなのか。それを、確かめるため、ヘカテリーナは今日も魔法を使い続ける。
読んでいただきありがとうございます。