神の島
「キャリコが今まで教えてきた布作りの技をすべて忘れてしまったようなのよ」
薄い布の上で眠ったふりをする私に、父さんと母さんの話し声が聞こえてきた。
島の夜は黒い闇だ。
ものすごい種類の獣や鳥が鳴く声と波の音が、森と海の間に建つ小さな家には襲ってくる。
「糸芭蕉の刈り取り方すら忘れてしまって……これからどうすればいいのかしら」
「もう一度教え直せばいい。ネルリコだって婆ちゃんだっているんだから、君一人で衣を作るわけではないし、今すぐは急がなくてもいいだろう?」
「だけど、成人するまでに覚えきれなかったら? トイレの使い方さえ分からなかったのよ。これからあの子はどうやって生きていけばいいの?」
あのトイレは使い方が分からなくて当然である。
家の隣にある小さな豚小屋の上に屋根のように渡された二枚の板。
周りに壁もなくて、板にまたがって用を足せと言われて異世界転生を呪ったのである。
出る物も出ないではないか。
結局ムリヤリしてしまったのだけれど、豚が落ちたものを嬉々として食べる気配を感じて、
(どんなにお腹がすいてもこの豚だけは食べない……!)
と、かたく決意した。
新鮮な魚も多いだろうし、タンパク源はそれでいい。
(糸芭蕉って、確か糸にするまでにすごく手間がかかるのよね……)
不安な私を闇と獣と鳥と虫の声、波の音が押しつぶすようだ。
頭を振ると両隣のトルネコとネルリコがごろん、ごろん、と身体に乗っかってきた。
子ども特有の高い体温に不思議と安心する。
改めて目を閉じ、ぼそぼそと聞こえてくる声を無視して、蒸し暑さに耐えながら私はまた眠りに落ちた。
***
私の住む小島は別名「神島」とも呼ばれている。
恐れていたよりも新しい生活にはすんなり馴染めた。
毎日が「冒険少女」だと思えばよい。
家族はじめ島の人はとにかくおおらかで、キャリコが多少変わったとしても「いいんじゃないの?」という感じ。
ちょっとは心配してあげて!
本物のキャリコは一体どうなっちゃったのであろうか。
その場の状況を聞いて、私、理央が目覚めたあの日、熱中症で死んでしまったのではないか、と考えるようになった。
私とネルリコは六歳。島一番の美少女として一目置かれているようだ。
ネルリコは美少女にふさわしい、ちょっと臆病だけれど芯の強い、いい女に育ちそうな子である。
淡い珊瑚色の髪はさらさらで、潤んだ金色の瞳に見つめられると男の子たちは何も言えなくなってしまう。
故にネルリコは自分がモテているという自覚がない。
母さんと婆ちゃんをよく手伝って、祈りの衣はもう一人でも作れるのではないか。
私もモテているのだろうけれど、前世で理央は三四歳。六歳前後の子ども相手に恋愛とかないでしょ。
祈りの衣はどうしても作れないし、つくづく、姉である自分が残念ですまない。
「倒れるまでのキャリコに甘えすぎていたわ。今度から私がしっかりしないと」
うう、健気な子だよ。
三つ子の弟、トルリコは島のガキ大将。
弱い者を助け、乱暴者をこらしめ、女の子には見向きもせず、しかしすでによい漁師として熱い視線を注がれている。
金色の瞳は勝気に光り、淡い珊瑚色の髪を短く切っているのがもったいないほどだ。
この髪売ったら高く売れるんじゃないの?
性格が良くてかっこいい働き者、確かに優良物件ですよ。お嬢さんたちお目が高い。
「キャリコは色々と忘れてしまったけれど、これからまた覚えていけばいい。何でも聞けよ!」
頼もしい~!
婆ちゃんは最近調子が良くないというけれど、甘い蜜のある花などを摘んできては三人の孫に与えてくれる。
なまりが強すぎて、時々言っていることが分からないけれど、愛情を注がれているというのは感じる。
祈りの衣作りに欠かすことができない名人でもある。
シミとしわの多い肌、ボロボロの手は、骨惜しみせずに糸芭蕉の仕事をやってきた証だ。
暑い日に畑で糸芭蕉を手入れし、倒して刈り取り、薄くそいでいく「うはぎ」、ぐらぐらと熱い釜の前にはりついて湯の中の芭蕉を見ていなければならない「うだき」、さらに細くしていく「うびき」熟練の手つきで「うづみ」。
姿勢のよい織子は名手であるとされるが、織機に向かうとピンと背筋が伸びる。
全てが素晴らしいいい婆ちゃんである。
海の男らしく荒っぽくて子どもっぽい父さんと、そんな父さんを包み込むしっかり者の母さんは仲が良すぎて見ているこっちが恥ずかしい。
紺色の髪に金の目の父さんは、昔も今も変わらずいい男だと評判で、若い時にはそれはもうモテたのだという。
群がる女たちをかき分けて、男には目もくれずに祈りの衣を一途に織っていた母さんに求婚。
淡い珊瑚の髪に紺色の目の母さんは、最初はからかわれていると思って突っぱねたそうだ。
「なんでココは俺の気持ちを分かってくれないんだ?一体何をすればいいんだ?」
「私の家は祈りを捧げる家よ、ルオルコ。婿に入ってもらわなきゃいけないの」
「そんなの簡単だ。俺は三男だし」
「えっ」
断るつもりの言葉が決定打となって結婚。
子どもが三人いるけれど、まだまだ増えそうで心配しちゃう。
父さんとトルリコは新鮮な魚を捕って来てくれる。
母さんとネルリコは料理が上手だ。いつも同じ食材を、いろいろな工夫で飽きないように煮炊きしてくれる。私もできる範囲で挑戦したが、かまどとか、薪とか扱いが難しい。というかね、不可能。前世では着火剤付きのバーベキューとかキャンプの焚き火くらいしか体験がないのよ。
母さんは食卓について引け目を感じているらしい。
「今日も魚と野草だけでごめんなさいね」
「ココ、充分美味いぞ!」
うーむ、二人は今日もアツアツだね!
神島は自然が豊かで、というより自然以外は何もないけれど、とにかくのどかでいいところである。
主に漁業と農業で成り立っている。
男は漁に出て、女は畑を耕す。
漁場に恵まれ、土地が肥えているのか、採れるものはみな美味しいらしい。
「らしい」というのは、父さんとトルリコが漁師なので魚は食べられるけれど、我が家の畑は糸芭蕉で、野菜を育てていないからだ。
もちろん、お金を出せば野菜は買える。
けれども我が家にはそのお金がないのだ。
「捧げの儀式」をする我が家は島で優遇されている。
たまに採れ過ぎて余った果物や野菜や芋を分けてもらえるのだ。
しかし、働き手が少なく、子どもの多い家はそうはいかない。
幼い子ども、赤子の葬式を私は何度も見た。
老人だって死にやすい。
嵐などで漁に出られずに畑が荒れ、住む家がなくなると、人の命は簡単に喪われてしまう。
別に怠けているわけではない。ただ、生活が苦しいのだ。
島の森はルソーの描く楽園の雰囲気があって、何かを採取するには厳しいけれど、植物がうっそうと茂って次々に様々な動物があわれてそこにいるだけで楽しい。
と、思ってじっと眺めていたら野ビルにやられて血まみれになった。
なんだか黒い靄が?と思って目を凝らしたら動物か何か(赤子かも……)の死骸の上に蚊柱できてた。
正直気持ち悪いけれど、これくらいで負けるもんか!
トルリコとネルリコは食べられるきのこや野草や木の実などを採ってきてくれるのに。
張り切ってちぎった葉っぱが毒だと言われる。
「もう、そこにじっとしていて!」
私の弟妹がとても頼もしい……!
というか私の冒険少女スキルが低すぎる……!
糸芭蕉の扱いにもなかなか慣れなかった。
一通りの手順は分かった。
けれど、糸芭蕉を薄くそぐ「うはぎ」の手つきを真似ることや、「うだき」で糸芭蕉の茹で加減を見ることや、さらに細くしていかねばならない「うびき」、切れやすくて扱いの難しい糸芭蕉の繊維を繋いで糸にする「うずみ」の作業がどうしてもできない。
これには経験が必要だ。
頭の中でマニュアルを作ってどうにかなるものではないのだ。