十五夜には鯨が泳ぐ
奇しくもその日は十五夜で、真夜中の空には、この世のものとは思えぬほど美しい満月が光り輝いていた。
「あ、鯨だ。鯨が泳いでる」
病室の窓から空を見上げていた夫が、狐につままれたみたいな顔で呟いた。こいつ頭がおかしくなったかと思った矢先、それはわたしの視界にも飛び込んできた。鯨だ。とてつもなく大きな鯨が、空を海かと思うほど、悠々と泳いでいる。
いったい何が起きてるんだと、わたしはボンヤリしたままの頭で懸命に考えた。
「見てごらんルナ、空に鯨さんが泳いでるよ」
耳に届いたその言葉で、シュッと現実に引き戻される。
夫が、大事に抱えた小さな小さな娘に話しかけていたのだ。
でも娘は息をしていない。一度も息をすることがなかった。
娘は死産だった。
昨日まで、胎の中で大事に育ててきた娘。それが今日の朝、突然死んだ。胎の中で冷たくなっていたのだ。羊水に守られ、ぷかぷか浮いてて、息なんて一度もしたことがなかったくせに、お医者は、娘が窒息死したとわたしに言った。
目の前が真っ暗になった。希望に満ち溢れていたわたしの世界は、突如、ガラガラと音を立てて崩れ落ちたのだった。
でも、お医者は待ってくれない。夫を呼びつけて、わたしに注射をして、何がなんだかよくわからないままに、わたしたちを出産させた。
静かすぎるお産だった。
そうして、何もかもが一瞬のうちに過ぎ去ったのち、わたしたち家族は、最初で最後の団欒を過ごすことになったのだ。
「ほら、ルナ、お月様の前を鯨さんが泳いでる。不思議だねぇ」
夫が聞いたことのないような、優しい声で語り続けている。ルナとは、胎の中の赤ん坊につけた呼び名だった。でも娘は目を開けない。鯨を見ようともしない。分かりきっているのに、わたしは腹が立ってきた。
「もうやめてよ! そんなことしたって、その子には聞こえてないんだからさ!」
自分で叫んで、涙がブワッと湧き上がったのを感じた。
「悲しすぎて、その子と一緒の部屋に居たくない!」
嘘だ。本当は、何度も神様にお願いした。
この痛みで死ねますように。どうか子のこと、一緒の世界に行けますように、って。でも神様は願いを叶えてくれず、わたしを暗闇の世界に一人だけ残した。残酷すぎる仕打ちだ。
いっそこのまま死んでやろうかと思ったところで、突如、夫の口調が変わった。
「ねえ、新婚旅行の時のこと、覚えてる」
どうやら、わたしに語りかけているようだ。わたしはうつ向いたまま、耳だけを生かしてその声を拾った。
「オーストラリアに行ったら、絶対に鯨を見るまで帰らないって、お前が駄々こねてさ。でも結局見れなくて。そしたら船のガイドのアボリジニの爺さんが教えてくれたんだよな」
鯨は子を大切にする。種族など関係ない。小さく美しい命の光を、分け隔てなく愛するのだ。あなたがたにも子ができたら、きっと鯨との縁が持てるだろう。
「あの時は、迷信というかファンタジーというか、夢物語みたいに思えて、今の今まで忘れてたんだけどさ、嘘じゃなかったんだなって、今わかったよ」
夫はそう言うと、ほらあれ。と、窓の外を指差した。わたしも目を動かし、まだ夜空で泳いでる鯨を見上げた。
そして、目を見張った。
十五夜の月明りを体いっぱいに浴びた鯨は、歌うように鳴き声を轟かせている。その周りで、ぽつ、ぽつと灯った無数の光が、踊るように舞っていたのだ。光がふわっふわっと、瞬くその時、ぼんやり浮かび上がるのは、人の輪郭。
わたしは。その一つに目を留めた。その光の中の輪郭には、見覚えがあった。
夫の顔だ。いや、わたしの顔か? 夫にもわたしにも見えるその顔が、ニコッと微笑んだ時、わたしは、あっと声を上げた。その光の子供は、娘だったのだ。
(ごめんねママ。ルナ、まだそっちに行けないんだって。もう少し、空を泳ぐ練習をしないといけないの)
赤ん坊の小さな口から、娘の言葉が語られた。わたしはベットから這いずり出して、呆然と空を見上げる夫の隣に並んだ。娘は、今度は夫に語り出した。
(パパ、ルナって名前をありがとう。もう少ししたら、またそっちに行くから、そうしたらまたルナって名前で呼んでね)
夫は目に涙を浮かべて、何度も頷き返した。
するとその時だ、鯨がひときわ大きく嘶いた。さあ、子供達。そろそろ行くよ。そんなふうに聞こえるような鳴き声だった。
(パパ、ママ、ずっと大好きだよ。お空の上でもずっとずっと、愛してるよ。だから、ルナのことも好きでいてね)
「ルナちゃんっ!」
わたしの口から、嗚咽に混じって愛する娘の名前が飛び出した。やっと呼んであげられた、最初の声だった。
「ママもルナちゃんのこと大好きだよ! また会えるの、ずっと待ってるからね!」
涙でぐちゃぐちゃになった、汚い声だったけど、娘はにっこり微笑み返してくれた。そして、泣き叫んでいるわたしたちに背を向けると、夜空を泳ぎ去ろうとする鯨を追っていってしまった。
鯨は、十五夜のお月様に向かって、悠々と泳いで行く。ルナもその光の中にぼんやりと溶けていき、やがて見えなくなってしまった。
病院のナースセンターでは、その日の夜の話で持ちきりだった。
「死産しちゃったお母さんとお父さん。夜中に奇声をあげて泣き叫んでたらしいですよ」
「でも次の日は、不思議と落ち着いてらして。死んじゃった赤ちゃんを大事そうに抱えていたんですって」
「お葬式では泣いていたけど、毅然として喪失感とかはなかったらしくて……」
若い彼女達の噂話を耳にした年増のナースは、柔和な笑みを浮かべて言った。
「十五夜の夜にはね、たまに見えてしまうのよ。子供の魂を迎えに来た、神様みたいなものがね」
まっさか〜。と、若いナース達はどっと声を上げて笑いだしたが、話を持ち出した彼女だけは、ふふふっと含み笑いだけをこぼしていた。
その時、誰かの携帯電話が静かな振動音を立てた。
「あらやだ、わたしだわ。ごめんなさい、ちょっとだけいいかしら」
年増のナースは、同僚達に頭を下げて謝ると、急いで携帯電話の通話ができる場所に向かった。古臭いガラパゴス携帯の通話ボタンを押すと、耳に押し当てる。
「もしもし、ルナ? ごめんなさいね、母さんまだ仕事中なの。えっ、迎え? あら嬉しい、お願いするわ」
車の運転免許を取得した娘は、練習を兼ねて迎えに来てくれるようだ。この間まで赤ん坊だと思っていたのに、一丁前に車など運転してからに。
ナースは携帯電話を閉じて、またフフっと微笑んだ。
だって、本当なんですもの。十五夜の夜には、鯨が泳ぐ。
それはとても不思議で、悲しい、秋の夜の思い出。