価値観置換
男はデートの回数を数えたことがない。
デートの回数の多さと愛情の深さが比例するとは思えなかったし、何より無粋だと思っていたからだ。ついでに言えば、キスの回数や身体を重ねた回数と愛情の深さが比例するとも思っていなかった。
そうした本能的な行為は人としての愛ではなく、動物的で野卑な、いわば種族を残すためのプログラム的な愛だと思っており、人としての愛はもっと高尚で穢れのないものであると信じていた。
女はちがった。
デートの回数と愛の深さは加速度グラフのように比例するし、キスも身体を重ねることも、愛情をより深く育むためにはなければならないものだった。
男は動物的だと馬鹿にするが、人間だって動物なのだし、何もおかしなことはない。
三回目のデートよりも、七回目のデートのほうがより意味がある。
八回目のキスよりも、十二回目のキスのほうが価値がある。
十三回目のセックスよりも、七十三回目のセックスのほうが愛が深い。
男は笑う。
「君はつまり、不能者や感染症にかかってキスもできない人間には、愛を育むことなんて出来ないといっているわけだ」
「そうよ」
「でも、実際にいるぜ。僕の知り合いにも不能者と結婚した女はいるし、重い感染症でキスもできない相手と暮らしている男もいる」
「それは、愛というよりも憐れみ。同情。もしくは、自分がいなければその人は生きていけないという優越感。…ペットを飼っているような感覚ね」
「ひどい言いぐさだな」
「逆もしかりよ。不能の人も感染症の人も、相手を愛してるわけじゃないわ。相手への後ろめたさによるご機嫌取りと、見捨てられたくないという切実さですがっているだけ。それを愛って言葉に置き換えてごまかしてるのよ」
「恵まれない人々に手を差し伸べるのは?」
「憐れみと優越感」
「僕はそれだけじゃないと思う」
「…そうね。それだけじゃない」
「だろ」
「ええ。自己満足が抜けていたわ」
口元をゆがめて笑う女を、男は少し苛立ちをにじませた目で睨む。
「僕は、君が抱けなくなっても、対等な関係でなくなってしまっても、愛し続ける自信がある」
「だから、それはもう愛じゃないの」
「愛さ。いつか、証明してみせるよ」
「証明?」
「ああ」
「それってつまり、私がそういう状態に―― 触れられなくなるような、抱けなくなるような状態に―― なることを望んでいるってこと?」
「…あ、確かに。そういうふうに聞こえるな」
「あなた、本当に私を愛してるの?」
「心から」
男はうやうやしく胸に手をあてて答え、女は胡散臭そうな目で睨みつける。
それから二人は唇を重ねあい、互いの身体を求めあった。
※
女は東病棟の302号室をノックする。
いつものように返事はない。
だから、いつものように勝手に足を踏み入れる。
部屋の中は、昼間なのに夜のように暗かった。
窓はカーテンですっかり閉ざされており、明かりもつけられていない。
静寂の中、冷蔵庫のモーター音だけが低いうなりをあげている。
女は白い床の上を音を立てずに歩き、白い洗面所を横切って、白いベッドへと近づく。
「……あら、起きてるじゃない」
男はベッドの上で上半身を起こし、日の光を遮るカーテンを見つめていた。
看護師から皮膚の移植は終えたと聞いていたが、顔は包帯で覆われたままだった。
皮膚の保護のためか。あるいは、変わり果てた顔を見られたくないからか。
女は手土産の白い箱をテーブルに置くと、いつものように花瓶にいけられた古い花を抜き取り、持ってきた新しい花と交換した。
「カーテン、開けよっか。今日は良い天気だよ」
男は窓際へ向かう女の背中を無言で追っていたが、カーテンが開かれると、その差し込む光のまぶしさに目を細めた。
「ついでに窓も開けちゃうね」
初秋の風が部屋へ舞い込み、こもっていた空気が外の世界を求めて逃げ出していく。
「ほら。涼しくて気持ちいいでしょう」
男は答えない。包帯に穿たれたような二つの目は、もう彼女ではなく、テーブルの上の白い箱に向けられていた。
「ああ、それ? あなたの好きなテレーゼのプリン。一緒に食べようと思って」
言いながらテーブルに近づき、白い箱を手に取る。
「あの店、テレビで紹介されたせいで行列ができるようになっちゃったのよ。おかげで手に入れるの苦労したわ」
女は箱から手のひらほどの器に入ったプリンを取り出すと、ベッドの隣りに置かれたイスに腰をおろした。
男が着ている服は病院から貸し与えられた無個性な水色の上下で、それ自体が患者の生気を吸い取っている気がする。
その水色の袖からのぞく手もまた、顔と同様に包帯が巻きつけられていた。
「まだ、手で持つのは無理みたいね」
女はプリンにスプーンを差し入れ、カラメルソースをうまく絡ませながら一口分をすくい取る。
「はい、どうぞ」
言いながら、包帯の下に見え隠れする口元にスプーンを近づける。
男はその半個体の物体を見つめて、短く息を吐いた。あるいは、それは笑ったのかもしれない。
「まだ、じゃない」
声は。
低く心地よく響く声だけは、以前と変わらなかった。
女は差し出したスプーンをそのままに、男を見る。
「『まだ』 じゃなくて 『もう』 だよ」
「え?」
男は包帯が巻かれた左腕をぎこちなく動かし、女の前に突き出す。その手は、中途半端なグーの形をしていた。
「間接が固まって、これ以上開くことも閉じることもできない。こいつは手の形をした、ただの棒きれだ」
「………」
「右手のほうは動くけど、もっと笑える」
言いながら、ベッドから右腕を抜き出す。こちらにも包帯が巻かれていた。
「ほら」
左手と並べるように置いた右手を、開いたり閉じたりしてみせる。確かに動いてはいるけれど、何かがおかしい。
違和感の正体はすぐにわかった。親指をのぞいた、四本の指の長さだ。
一番短いはずの小指が一番長く、一番長いはずの中指が一番短い。人差し指と薬指は、第一関節から先が失われている。
「完全に焼けた部位を切断したそうだ。壊疽が広がらないための、やむを得ない処置だと言われたよ」
「………」
「気持ち悪いだろ?」
「そんなこと」
「じゃあ、見とれるほど魅力的?」
女は答えることができずにうつむき、男は自虐的な言葉を悔いるように唇を噛む。
スプーンにのせられたプリンは誰の口にも入ることなく、そのまま容器へと戻っていった。
二人の間に重苦しい空気が張り詰める。
それでも女は、今の状況に小さな満足感を覚えていた。
これまでは、見舞いに訪れても寝ているか寝ているふりをしているかで、男と言葉を交わすこともできなかったのだ。
自虐でも八つ当たりでも、話をする気になってくれたのは大きな前進といえる。
完治することはあり得ない。それどころか、男はいくつもの後遺症を抱えることになるだろう。
深度Ⅲ・全身熱傷。
職場で起きたガス爆発に巻き込まれて、男は身体の四十七パーセントが焼ける重体に陥った。
五十パーセント以上の熱傷で死に至るとされていることから考えても、男はぎりぎりで命を取り留めたと言える。
ただ、それを幸運と呼ぶにはあまりにも悲惨な状態だった。
男は熱けて壊死した皮膚をすべてはぎ取られ、熱傷を免れた背中や臀部の皮膚をその部位へ移植するという、大手術を受けることになる。
たりない場所にはひとまず人工皮膚があてがい、健全な皮膚が再生したところで、あらためて移植をするという話だった。
もちろん、移植がうまくいったところで見た目が完璧に戻るわけではない。
包帯の下の姿を見れば、女は大きなショックを受けることになるだろう。
耐えきれず、目を背けてしまうかもしれない。
それでも、彼女はそうしたことも含めてすべてを受け入れるつもりでいた。
面会謝絶が解かれ、はじめて病室に訪れたとき。
ベッドに横たわる、全身を包帯で覆われた男の姿を見たとき。
女は、その瞬間まで思い巡らせていた選択――薄情とも、当然とも言える選択を――捨て、男に寄り添うことを決めたのである。
かつての女であれば、こうした感情を『憐憫』や『同情』と定義して『愛』とはほど遠い感情だと言い捨てていただろう。
「身体を重ねられない愛は、深められない。対等な関係でない愛は、持続できない」
それが、彼女の愛に対する価値観だった。
しかし、今。
女はこの感情を『愛』と定義していた。
憐憫や同情がないわけではない。
ただ、それだけではこの心の動きを説明することができないのだ。
これから先の人生を男に捧げようとする、この揺るぎない思いを。
いつしか彼女の愛に対する価値観は、かつての男の価値観と同調するようになっていた。
『身体を重ねられなくても、愛は深められる。対等な関係でなくても、愛は持続できる』と。
「ゆっくりと良くなっていけばいいのよ」
女は男に微笑みかける。
「私はずっと、あなたのそばにいるから」
男はその微笑みから逃れるように目を閉じ、口元をゆがめた。それは笑っているようにも、傷ついているように見えた。
「身体を重ねられない愛は、深められない。対等でない愛は、持続しない。そう言ったのは、君だ」
「…ええ。そうね」
「僕の火傷は、全身の四十七パーセントに及ぶらしい。その中でも酷いのが、顔と腕。……それに、下腹部だ」
「お医者さんから聞いてる」
「下腹部ってのは、要するにここだよ」
男は固まった左手で布団をはぎ、股間を示した。
性器の辺りからは細長い管が伸びており、そのままベッドの下へと続いている。
「こいつの三分の二が焼け落ちたらしい。だからもう、まともに小便もできないし――」
男は布団をかけ直す女の手を見つめながら、淡々と告げた。
「二度と、君を抱くこともできない」
それは、二人の関係の終わりを意味する言葉だった。
彼女を抱くことができない。対等な関係に戻ることもできない。
女の愛に対する価値観から、男は脱落したのである。
今の男に出来ることは、女を自分から解放して新しい愛へと送り出すことだけだった。
「君は、もう僕に――」
「ずいぶん前、二人で愛について言い合ったことあったでしょう」
男の言葉を強引に遮って、女が言う。
「覚えてる?」
「……ああ」
覚えている。
だからこそ、男は別れを告げようとしているのだ。
「君は、キスや身体を重ねることが愛を深めるために絶対に必要なことだと言った」
「あなたは、そうした行為は本能に根ざした欲求にすぎない、人としての愛はもっと高尚で美しいと言い張った」
「君は、対等な関係でない愛は続けられないと言った」
「あなたは、そうした愛は対等な関係でなくても続いていくと言った。…それから」
女は男を見つめて、かみしめるように言った。
「いつか、それを証明してみせるとも言ったわ」
「言ったかな」
「言ったわ」
「――じゃあ」
男は自虐的な笑みを浮かべて言う。
「僕の証明は、失敗したわけだ」
「あら、あなたの証明は成功したのよ」
その言葉を予期していたかのように、女はすぐに答えた。
「成功した?」
「そうよ。だって、私はあなたを愛しているもの。――今も、変わらずに」
風に運ばれてきた一枚の葉が、ベッドの上に舞い落ちる。紅葉の半ばで枝を離れたのだろう。葉の表面は紅く、裏側は青いままだ。
「もう、あなたに抱いてもらえない。キスもまともにできない。対等な関係に戻ることも、ない」
女は葉をつまみ上げ、親指と人差し指をこするようにして葉を回転させる。
「あなたに大きな後遺症が残ると知らされたとき。もう元の生活に戻れないと理解したとき。私は、あなたから離れることだけを考えていたわ」
「………」
「周りから薄情だとか残酷だと言われないように、綺麗に別れることばかり考えていた」
葉を、男の左手にのせる。中途半端なグーの形をした左手は、つかむことも弾くこともできず、中途半端に染まる葉を受け入れた。
「でもね。顔から足まで包帯で巻かれたあなたの姿を見たとき、何かが変わったの」
女は抑揚のない声で、淡々と言葉を紡いでいく。
大げさな身振りも、感情的な声の起伏もない。それらは伝えようとする思いを誇張してしまい、誠実さをゆがめてしまうから。
「あなたを支えたいと思った」
「………」
「ずっと、そばにいたいと思った」
女は伝えたい思いを、丁寧に言葉へ置換していく。
「私は、今も、あなたを愛している」
言葉は心地よい風に置換され、半ば溶け落ちた男の耳へと滑りこむ。
「…おかしいわね。あなたの信じた愛を否定していた私が、それを証明するだなんて」
女は口元をほころばせて男を見る。
「身体を重ねられなくても、愛は深めることができる。関係が対等でなくなっても、愛は続いていく。…あなたは、正しかったのよ」
「だから言っただろう。利害を超えて――肉体的な欲求も、立場による優劣も超えて―― 人は、人を愛することができるんだ」
男は勝ち誇って、女を見返していたにちがいない。
もし、これが自分たちではなく、べつの恋人たちの身に起きたことであったなら。
「――そうか。君は、僕の信じていた愛を証明してみせたんだね」
「そうよ」
「…そうか」
微笑む女を見て、男もまた包帯からのぞく唇をゆがめた。
深く長く息を吐き出し、目を閉じる。
「じゃあ、今度は僕が証明する番だ」
「え?」
「身体の触れあえない愛は、深められない。対等な関係でなければ、愛は続けられない」
「………」
男は穏やかな声で告げる。
「君が正しかったことを、僕が証明するよ」
※
「全身熱傷で、僕のあらゆる機能は駄目になったけれど、見るという感覚だけは異常に鋭くなったんだ」
言って、少しだけ笑う。
「べつに視力が良くなったわけじゃないよ。そうじゃなくて、人の感情を察する感覚が敏感になったということ。僕に対する態度、僕に向ける視線、仕草、表情のこわばり…そうしたわずかな動きを見て取ることが出来るようになったんだ」
ためらう看護師に無理を言って鏡をもってこさせたのは、皮膚の移植を終え、何度目かの包帯を交換する時だった。
悪趣味なパッチワーク。
鏡に映し出された姿を見て、そんな言葉が浮かんだ。
さほどショックを受けなかったのは、まだ現実として受け入れられていなかったからだろう。
「…これ、僕ですか?」
看護師は無表情で頷く。
しかし鋭敏になった男の目は、はっきりと見て取ることが出来た。
繕った無表情からのぞく、憐憫。同情。恐怖。…嫌悪。
ああ、そうか。
これから先、僕はあらゆる人にこの表情を向けられて生きていくのか。
家族にも。親類にも。友人にも。見知らぬ誰かにも。恋人にも。
男はその事実に、自分の姿を見た以上のショックを受けた。
「憐れみ。同情。嫌悪。侮蔑。優越。どんなに繕ってみせても、その目、その表情、その仕草に滲み出ているんだ」
女は無言で男の視線を受け止める。目をそらしたら、男の言い分を認めたと思われてしまう気がして。
「僕はこれまで、障害をもつ人たちにも対等に接してきたつもりでいた。…けれど、それは『つもり』でしかなかった」
自分が障害を持つ身になってわかったこと。
あからさまな憐憫や同情をよせる者は滅多にいない。
多くの人は以前と同じように、対等に接しようとしてくれるのだ。
「わかっているんだよ。そんなふうに見ているつもりはないってことは。親も、姉も、友人も、医師も、看護師も。――君も」
それでも、その目や表情、言葉や口調の端々からは、憐憫や同情がにじみでている。
対等に接しようと意識しているその 『意識』 が、すでにそうした感情を含んでいるのだ。
「…あなたに起きたこと。今の状態。それを見て、憐れみや同情の気持ちがまったく起こらないなんて、そんなわけにはいかないわ」
女は言葉を探しながら続ける。
「たとえばあなたじゃなくても、あなたと同じ状況の人を見たら、私は同情しただろうし、憐れみをおぼえたと思う」
「健常者の特権だからね」
「…そうかもしれない。でも、同情や憐れみだけでその人を支え続けたいとか、ずっと一緒に生きていたいだなんて思ったりしないわ。私があなたの側にいたいと思うのは、支えたいと思うのは、あなたを愛しているからよ」
「………」
「ね? 身体を重ねられなくても、愛は深められる。対等な関係でなくなっても、愛は続けられるの」
女はたどり着いた証明を繰り返す。
男もそれを否定するつもりはなかった。
「君は、今も僕を愛してくれている。それは、よくわかったよ」
「ええ、そうよ。あなたを愛してるわ。だから――」
「だけど」
男は、彼女の愛の証明を否定しない。
ただ。
「僕が、君を愛せなくなってしまったんだ」
自分がたどり着いた証明もまた、否定することはできなかった。
「どんなに一緒にいても、僕はもう君を抱くことができない。対等な関係に戻ることもない」
「………」
「一緒にいれば、この先も君はいろいろなものを僕に与えてくれるだろう。けれど、僕は君からさまざまな可能性を奪うだけで、何も与えることができない。その現実が、その事実が、罪悪感になって、劣等感となって、心に降り積もっていくんだ。いずれは、そうした感情で埋め尽くされてしまうだろう。……わかるかい?」
言葉を失う女に、男は歪んだ快感をおぼえながら告げる。
「そうした日々に耐えられないのは、君じゃない。――僕が、耐えられないんだ」
部屋に沈黙が落ちた。
途切れていた冷蔵庫のモーター音が、再び回り始める。
廊下から微かに聞こえてくる、看護師たちの笑い混じりの声。
「身体が触れあえなければ、愛は深めることができない。対等な関係でなければ、愛は続けられない」
男は、かつて女が主張していた愛の価値観を口にする。
「僕が信じていた愛を君が証明したように、君が主張していた愛を、僕は証明してみせたんだ」
男の抱いていた愛に対する価値観は女の価値観へと置き換わり、女の抱いていた愛に対する価値観は、男の価値観に置き換わった。
そして、相反する二つの価値観はどちらも正しいと証明された。
「……私と一緒にいるのは、つらい?」
「君に憐れんだ目で見られると、自分がどうしようもなく惨めな存在に思えてくるんだ。嫌悪の目で見られると、生きていることに罪悪感を覚える」
「私は、あなたをそんな目で見たことなんてないわ」
「わかってるさ」
「…そうね。いくら否定したところで無意味よね。だって、あなたの目にはそう見えているんだから」
女は悲しげに目をふせる。その仕草さえ、男には自分に対する当てつけだと感じてしまう。
「…多分、出会ったときからこの関係だったらよかったんだと思う」
始めから健常者と障害者の立場だったなら、お互いにその状態を対等な関係として認識し、男は彼女の愛を受け入れることができたのかもしれない。
「でも僕は、五体満足で君と対等な関係だったことがある。貪るように身体を重ねたことがあるんだ」
「………」
「その日々の記憶を消すことなんてできない。それどころか、君といるとますます色濃くなって僕を苛んでいく」
結局のところ、女が男をどう思っているかは関係ないのだ。問題は、男が女にどう見られていると思っているのかであり、だからこそ、女にはどうすることもできない。
「…価値観置換ね」
「え?」
独り言のような女のつぶやきに、男は目を細めて聞き返す。
「愛に対するあなたの価値観が私の価値観に置き換わって、愛に対する私の価値観があなたの価値観に置き換わった。だから、価値観置換」
「…ああ、なるほど」
男は女の、女は男の正しさを証明してみせた。
お互いの価値観は置換され、それゆえに重ならない。
この先も、きっと。
「そろそろ行くわ」
「うん」
それでも女は、自分の正しさを証明しつづけるため、これからも男に会いにくるだろう。そうすることで、男をますます苦しめてしまうという罪悪感に苛まされながら。
男もまた、自分の正しさを証明しつづけるために女を拒絶するだろう。そうすることで、いつか本当に彼女が自分のもとを去ってしまう恐怖に怯えながら。
女は立ち上がり、男に背を向けた。
そのまま部屋の外へと向かい、ドアの手前で振り返る。
女は、男の姿を見て微笑む。
男は、女の姿を見て顔をゆがめる。
そうして、これからさき何度も繰り返されるであろう、交わることのない言葉を口にする。
「また来るからね」
「もう来なくていいんだよ」
(了)