♪第二章♪ 茄子色のガボット *3*
今日の今日でいきなりキッチンに立つことになった漣だったが、そこは料理人としての経験の見せ所で、美咲の邪魔をしないよう気遣いながら、見事に自分の腕を最大限に発揮してみせた。
急遽、予定していた洋食ランチセットのメニューは先ほど漣の作ったものに変えることになり、和食ランチセットの方は当初の予定通り、ナスと鶏肉の甘辛タレ丼と味噌汁で、こちらは美咲が負けじと手早く作ってみせた。
日替わりのプチデザート、通称『ナスイーツ』は、美咲が昨夜のうちに作って冷やしておいた、ブランマンジェのナスソースがけ。ナスソースというのは、白桃の缶詰と共に煮込んで作ったもので、言われなければナスとはわからないほど、甘くておいしいソースだ。
開店直後に焼き上げる予定だったスコーンも、漣に接客をフォローしてもらい、その間に美咲が生地を作り、なんとか13時過ぎには完成させることができた。
そうして、客足が途絶えた13時半。
「なぁ、さっきふと思ったんだが……ランチタイムの割には客が少なすぎねぇ?」
ぼそりとつぶやかれた漣の言葉に、美咲は食器を拭いていた手を止めた。
12時に開店してから入ってきたのは、駅前のオフィスビルに勤めているらしい三人組のOLと、スーツ姿の若いサラリーマンが二人、近くの幼稚園のお迎え帰りの親子連れが二組だけ。そのどれもが、他の店が混んでいて入れそうになかったから、たまたま通りすがりにみつけて入ってみました、という様子だった。
実はこのカフェ、ランチタイムにはまだ、リピーター客が来たことがなかった。
「まだ開店して日が浅いから、仕方ないかなぁと……」
美咲はナス柄のふきんをカウンターにそっと置き、誰もいない店内を見渡す。
その答えに、洗い物を終えてキッチンから出てきた漣は眉をひそめた。
「それ、本気で言ってるんすか?」
「……う」
どこか険を含んだ漣の声に、美咲は気まずそうに唸ると、小さく首を横に振った。
日が浅いから、なんて――そんな訳ないのは、美咲が一番よく知っている。
先月、4月17日に開店してからもうすぐ一か月経つというのに、忙しいはずのランチタイムを美咲一人で回せるほどの客しか来ないのは、明らかに問題がある証拠だ。
漣を雇えるほど経営状態に余裕がないと言ったのは、断るための嘘ではなかったのだ。
「こんなこと聞くの失礼かもしれねぇけど、一日の売り上げってどれくらいなんだ?」
「……恥ずかしすぎて言えないくらいです」
キッチンの片隅の壁に売上目標『1日3万』と掲げてはいるものの、それはまだ一度も達成されたことがなかった。漣が働いていた老舗洋食屋と比べたら、月とスッポンどころの差ではないだろう。言えるわけがない。
美咲の答えに、今度は漣が唸る。
しかしそれは、売り上げが少ないからではなかった。
老舗洋食屋に勤めていた三年間、経営に関してもマスター直々(じきじき)に教わってきた漣が分析するに、このカフェやキッチンの内装にはなんら問題はない。
美咲の接客サービスも、問題なくこなせているし、料理の味も、プロの漣には適わないだろうが、いわゆる家庭の味としてはかなり高レベルだ。
これらすべて、オープン前にカフェ経営の本を読んだり、実際に店を経営している人にアドバイスを貰ったり、色々と研究した美咲の成果だった。
では、このカフェに客が入らない理由は何なのか。漣が導き出した答えは、こうだ。
「この店の位置って商店街の中では一番駅から離れてるからさ、駅前でチラシでも配って宣伝とかしないと、存在すら気付いてもらえないんじゃね?」
その指摘はもっともだったが、すでにそのことに気付いていた美咲はため息をつく。
「チラシ配り……は、ちょっと……」
実をいうと、開店直前に一度、やろうとしたことがあった。色んなお店のチラシを参考に、地図とメニューを載せたものを作ったのだ。
しかし、いざ配ろうとして駅前に立った途端、頭が真っ白になって、行き交う人の波に酔ってしまい――庄一がいなかったら、その場で倒れていたかもしれなかった。
そんな苦い過去の経験を思い出して、美咲は言葉を濁した。
自分で配らなくても済む方法も、一応考えるには考えた。
しかし、業者にチラシ配りを頼む資金的余裕はなかったし、ましてやこの店の外に出られない蒼空には頼めるはずもなく。出版社に勤めている父親に頼んでどこかの雑誌に広告を……なんてことも、カフェ経営に反対だったその人に言い出せるわけもなく。
一応、地元の広報誌に依頼して小さな広告は載せてもらったが、それを見て来たという客は今のところ一人もいなかった。
「なんか問題でもあるのか? チラシを作るくらい、美咲さんならパソコン使って簡単にできるだろ?」
なぜそんなことを漣が知っているのか――それはおそらく、美咲が『粉雪亭』に通っていた頃、モバイルパソコンを軽快に叩いている姿を見ていたのだろう。おまけにマスターにはOL業をするかたわら、ライター業もしているのだと話したことがあった。
だから、パソコンの技術とかそういう問題ではなくて――。
と、再び首を振った美咲に、漣は別のことを思いついたのか、ポンと手を打った。
「あぁ、店を空けられないのか。でも、それなら、これからは俺が店番してればいいし、美咲さんが行けないってんなら……ほら、蒼空に頼むとか?」
漣は、開店してからすぐにどこかへ姿を消した蒼空をあてにして、ふと首を傾げた。
「つーかさ、蒼空って美咲さんの親戚か何か? 今日、小学校って休みなのか?」
そういえば、蒼空のことを説明してなかったんだっけ、と思い出し、美咲は苦笑する。
昨日までの蒼空は普通の人には見えてなかったから、誰かにその存在の説明をする必要がなかったのだ。しかし、見えるようになったからといって、彼の正体が茄子神様であることを告げて、すんなり信じてくれるかなんて……わからない。
唯一、美咲が蒼空のことを話した親友ですら、最初は美咲が精神的に参ってしまったのではないかと、本気で心配していたくらいだ。
普通は、神様がどうとか言い出したら、まず間違いなく引くだろう。
そこで、美咲はとっさに思いついた無難な答えを、漣に告げた。
「そ、そう。遠い親戚を預かることになって。小学校も、事情があって行ってないんです」
「……ふぅん、そーなんだ?」
しどろもどろになりながらの答えに、漣はそれ以上、蒼空のことを聞かなかったので、信じてくれたのだと、美咲は思っていた。
しかし実のところ漣は、嘘だということに勘づいていながら、しばらく様子を見ることにしただけなのだった。
結局、チラシ配りの話はそのまま、お客さんが入ってきたことで中断されてしまった。