♪第二章♪ 茄子色のガボット *2*
「……まだ諦めていなかったんですか?」
たしか昨日、美咲は「ウチにはバイトを雇えるほど経営に余裕がないので」と、いつもより強めに、ハッキリと断ったはずで、それで今度こそ諦めたのだと思っていた。
が、今日の漣は、昨日までとは違った。
「当然! 今日は俺が本気だってのを見せに来たんだ!」
「本気……と言いますと?」
自然、美咲の口調がつっぱねるようなキツイものになる。
「ああ、洋食屋を辞めてきた。で、自前の調理道具持ってきた。つーわけで、ちょっとだけキッチン使わせてもらうぜ!」
「……は!?」
この男はいきなり何を言い出すんだ、と美咲は驚きに目をみはる。
が、漣は飄々(ひょうひょう)とした様子で白いコックコートを羽織り、黒いバンダナを頭に巻くと、ついさっき美咲が仕入れてきた食材を手に取って、勝手に料理し始めた。
「え、いや、だから、意味がわからないんですけど……あーもぅ!」
包丁を持っている男相手に、下手に手を出したら危ないと思った美咲は、その場で呆然と佇むしかなくなってしまった。
「お、どの野菜もすっげー新鮮~。この大長ナスはやっぱ焼いて、パプリカと合わせてマリネにしたら良さそうだよなー」
食材を前にテンションが上がったのか、漣の瞳が生き生きと輝き出す。
「ほぅ、兄ちゃん、ええ目と腕持っとるな! なぁなぁ美咲ち、こいつ雇ったらええで、絶対!」
いつの間にか作業台の端に座って、足をブラブラさせていた蒼空が言う。まるで何かのショーでも見るかのように楽しげにその光景を眺めていた。
「お前……蒼空だっけ? イイ奴だな!」
「せやろ! 俺様、ええ奴やろ! 兄ちゃんとは仲良うなれそうで嬉しいわ!」
すっかり意気投合している二人の様子に、美咲はキッチン奪回を諦めると、料理する漣を観察し始めた。
さすがプロと言うべきか、漣の手際の良さは、実に鮮やかなものだった。
そうして完全に乗っ取られたキッチンが美咲の下に戻ってきたのは、開店時間まであと十分を切った頃、乗っ取られてからわずか二十分後のことだった。
「はい、できあがりーっと!」
「おーっ、この短時間で見事なもんやなぁ! しかもめっちゃ、うまそうやで!」
ステンレスの作業台の上には、色鮮やかに盛られた料理が三品並んでいた。
綺麗に焼かれて皮を剥かれた大長ナスは、賽の目に切られた赤と黄色の焼きパプリカとあえたマリネに。輪切りにされた普通のナスは、同じく輪切りにされたジャガイモと一口大の鶏肉を合わせた、とろーりカルボナーラへと華麗なる変身を遂げていた。
横にさりげなく添えられたマグカップからは、つぶつぶ入りのコーンスープが白い湯気をホカホカと立ちのぼらせている。
蒼空の言うとおり、見事なまでのイタリアンランチセットを短時間で用意してみせた漣は、満足げな表情を浮かべて、美咲をまっすぐに見つめてきた。
「味も結構、自信あるぜ」
漣に銀色のフォークを差し出され、美咲の視線は目の前に並んだ料理と、それを作った人との間を数回、行き来した。
食べるべきか否か――。
もしこれを食べておいしいと認めてしまったら、彼を雇わざるを得なくなってしまう。そして、美咲がお気に入りだった店で、調理担当をしていた人が作った料理なのだから、まずいわけがないこともわかっている。
だからこそ、覚悟しなければならなかった。
漣の方もそれをわかっているようで、食べてくれることを祈るように待っていた。
しばしの沈黙の後、美咲は覚悟を決め、フォークを手に取った。
「いただきます……」
クリームを絡めたナスとパスタを、ゆっくりと口元へ運んでいく。
「あ、そうだ、蒼空も食えよ。ついでに俺も、食っちゃおーっと」
噛む音が聞こえなそうなほどの静けさに耐え切れなくなったのか、漣はそう言うと、自分もフォークを手に取った。
蒼空も「待ってました!」とばかりに飛びつき、三人一斉にパスタを頬張る。
途端、それぞれの舌の上で、オリーブ油を吸ったナスのやわらかい身がフワっと踊り、クリームのほどよい塩気と甘みが口中で軽やかに舞った。
「……おいしい」
美咲の口から零れ出た感想に、漣の顔に安堵の笑みが広がる。
続いて食べたマリネは、焼きナスの香ばしさと、パプリカのシャキシャキとした歯ごたえが爽やかで、コーンスープも、見た目ではわからないが小さく刻んでバターでじっくり炒めたタマネギが溶け込んでいて、それがトウモロコシの甘みを引き立てていた。
「うっわー、コレ、ホンマにめっちゃ、うまいやんか! 兄ちゃん最高やで!」
蒼空は、おいしさのあまり興奮して、口の周りにクリームをつけたまま、ピョンピョンとその場で何度も飛び跳ねている。
それほど、どの料理も文句のつけようがない味だった。
「で、俺は合格? それとも不合格?」
漣がまっすぐに向けてくる視線を、美咲は諦めたように受け止めた。
「……ズルイです。こんなにおいしいのに不合格なんて、言えるわけないじゃないですか」
本当はどこかで漣に期待していたのかもしれない。美咲はそんな、悔しさと嬉しさが混ざりあった感情が顔に出てしまわないよう、必死で堪えていた。
「ってことは、俺、採用? マジで?」
これまで幾度も断られ続けてきた漣は、思わず確認するように聞き返す。
が、美咲はそんな漣にもう一度、頷き、ぺこりと頭を下げた。
「はい。よろしく、お願いします」
「おーっ、兄ちゃん、やったなぁ! まぁ、俺様は最初から大歓迎だったけどな!」
はしゃぐ蒼空に抱きつかれた漣は、嬉しさをかみ締めるように何度も頷き返し、それだけでは興奮が収まらないのか、ガッツポーズまでしている。
「よっしゃあ、これからよろしく頼むぜ、美咲さん、蒼空!」
と、美咲はあることを思い出して「あ!」と声を上げた。
雇うと決めたいいが、肝心なことを忘れていたのだ。
経営難――今まで散々それを理由に彼を雇うことを断ってきたのに――やはり早まったかもしれない、と美咲は逡巡し、視線を宙に彷徨わせる。
「なんだよ? やっぱダメとか、ナシだからな」
「ええと、その……」
言おうとしていた言葉を漣に封じられ、美咲は仕方なくため息をついた。
「お給料は期待しないでもらえると、ありがたいです」
真剣な表情で申し訳なさそうにつぶやかれた言葉に、しかし漣は思い切り噴き出した。
「え?」
なぜそこで笑われるのか、美咲はまったくわからなかった。
「なんだよ脅かすなよ。給料なんていくらだろうと全然気にしないぜ。俺は、美咲さんと一緒にココで働けるってだけで、満足だからな!」
「なっ……!」
予想外の答えに美咲は絶句した。
恥ずかしさのあまり頭に血が上って、顔が真っ赤になっていくのがわかり、慌てて両手で頬を押さえる。
が、その行動がさらに漣を喜ばせたらしい。漣はもの珍しそうに美咲を見つめると、
「うわぁ……美咲さんが照れてるよ。あー、くそっ、かっわいーなー」
「て、照れてませんから! やだ、もぅ見ないでくださいっ!」
すると今度は、顔を逸らした美咲の頭に漣の大きな手が乗せられ、そのまま優しく撫でられた。
「……っ!?」
(もう、なんなのこの人は?)
漣の行動がまったく読めない美咲は、警戒するように一歩後ずさる。
まさか、初々しすぎる美咲の反応に、漣が彼女を抱きしめたくなってしまったのを必死で堪えた結果、頭を撫でるという行動に出たとは、思いもしない。
しかし、混乱している美咲に追い打ちをかけるように、今度は蒼空が口を開いた。
「なんやなんや、兄ちゃんも美咲ち狙っとったんか? 言うとくけどな、美咲ちのことはそう簡単に譲らへんからな、覚悟しとけや兄ちゃん!」
「え、嘘だろマジでっ!?」
蒼空からも告白のような言葉を投げられた美咲は再び顔を朱に染め、漣は漣で、思わぬ恋敵宣言に目を剥いている。
もはや、この場の混乱を収められるものはなく――店内の壁に掛けられている『鳩時計』ならぬ、ナスが飛び出す『茄子時計』が「ナッスー」と12時を告げて軽快に鳴いたのだった――。