♪第一章♪ 茄子色のエチュード *5*
「……はぁ」
「なんや、ため息ついたら幸せ逃げてくで?」
カフェに戻ってきた美咲が小さくため息をついたのを、カウンターにある自分の特等席に座っていた蒼空は聞き逃さなかった。
「うん、それはわかってるんだけど」
蒼空に出会ってから幾度となくされた指摘に、美咲は苦笑して肩を落とす。
「人と喋るん、そない疲れるんかなぁ? 俺様は喋りたくてもなかなか喋られへんから、羨ましいんやけどなー」
そう言われても、申し訳ないと思っても、本来、人見知りが激しい美咲にとって、商店街の人たちとコミュニケーションをとるのは、なかなか慣れないことだった。
商店街の人たちが皆、新参者の美咲に親切なのは、喜ばしいことなのだけれど。
「これでもかなり、がんばってるんだよ?」
おそらく、商店街の人たちの中で、美咲が人見知りで喋るのが苦手だと気付いている人はほとんどいないだろう。
そのくらいがんばっていた。
でもそれは、カフェを開くと言い出した時に立てた誓いのためだから、文句も弱音も、なるべく吐かないようにと決めていた。
「それはそうと、庄じぃはどこ行ったの?」
「あぁ、弓道場に行くって言うとったで。ほれ、俺様がいるから、二人の仲を邪魔したらアカンと思ったんちゃう?」
「あー、はいはい」
邪魔って何よ、邪魔って、と美咲は心の中でツッコみながら、蒼空の冗談を受け流し、買ってきた食材をキッチンへ運んでいく。
庄一が、我が者顔でカフェにいる蒼空の存在を何の疑問もなく普通に受け入れてくれたのは意外だったけれど、まぁ、変に驚かれて揉めるよりは断然いい。
蒼空が庄じぃにどう説明したのかは知らなかったけれど、近所の子供が遊びに来ているくらいに思ってるのかもしれない。
それにしても、弓道か――と、青々とした芝が広がる弓道場と、そこに袴姿で立つ祖父の姿を想像して、羨んだ。
美咲は、趣味は何かと聞かれたらその答えの一つには必ず『弓道』が入っているくらいは弓道が好きだった。庄一に誘われ、社会人になってから始めて早三年……去年の秋に弐段を取ったばかりなのに、最近は忙しくてずっと行っていない。
そんな些細なことで、余裕をなくしてることを改めて気付かされ、美咲は再び「はぁ」と盛大なため息を漏らしてしまった。
「……あ」
どうやら、すっかり癖になってしまったらしい。もうこれ以上幸せが逃げていかないようにと口を押さえてから蒼空の方を窺い見ると、やはり呆れた表情を浮かべていた。
気まずい空気に、しばしの沈黙が訪れる。
そんな重い雰囲気を破ったのは、キッチンで野菜を洗い始めた美咲の脇、ステンレスの作業台の上に腰掛けた蒼空だった。
「なぁ、美咲ち、深呼吸してみ?」
そんなとこ座っちゃダメ、と叱ろうとしていた口が『そ』の字を模ったまま止まる。
「え? 何、突然?」
美咲は唐突な提案に、野菜を洗う手も止めて、蒼空を見やった。
「深呼吸や、深呼吸。ほら、はよせぇ」
「う、うん?」
言われるままに深く息を吸い込もうとして、再び蒼空に「待った」をかけられる。
深呼吸しろと言うからやろうとしたのに、それを止めるなんて訳がわからない。
「何なのよ、もぅ」
吸い込んだ息のやり場に困って、美咲は三度、ため息をついた。
「せやから、ちゃうねんて。深呼吸ゆうたら、まずは息をたーっぷり、苦しくなるくらい吐き出してからやて。で、これでもかーってくらい息を吐き出したら、今度は新鮮な空気をぎょうさん、肺に取り込むんや」
「そうなの?」
そうだと頷く蒼空に促され、とにかく試してみることにした。
息を吐いて、それから吸って……。
「どや、スッキリせぇへん? ため息つきそうになったら、こうすればいいねん、なっ?」
「なるほど……」
ため息をつくよりはずっと、気持ちがスッとしたことは確かだった。
たまには蒼空も神様らしいことを言うんだなぁと感心したのは束の間。
「まぁ、人からの受け売りなんやけどな」
蒼空は照れくさそうに鼻をかきながらつぶやいた。
「誰の?」
反射的に聞いてしまってから、美咲はすぐに後悔した。
まただ……さっきも八百屋で似たようなやり取りをしたばかりなのに、気付かなかった自分に腹が立ってくる。そして返ってきた答えにも、なぜだか腹が立った。
「俺様の大切な人や」
その愛しそうな表情に、かすかな淋しさが混じっているのがわかる。
もしかすると、さっき八百屋のおばちゃんが話してくれたナス好きのマスターなのかもしれない。違うかもしれないけど、美咲の知らない誰かが蒼空の隣で笑っているのを想像したら、なぜだか心の奥がモヤッとした。
――嫉妬?
それこそ意味がわからない。
確かに蒼空のことは好きか嫌いかと問われれば、好きと答えるけれど、それは当然ながら恋愛感情とは違うもので、そもそも蒼空とは出会ってからまだ二ヵ月も経っていないし、蒼空自身のことはほとんど聞いたことがないのに嫉妬するだなんて、おかしな話だ。
美咲は浮かんだ想いを隠すように、蒼空から顔を背けて自嘲気味に笑った。
「ところで美咲ち。そろそろ、ちゃんとした料理人、雇った方がええんちゃう?」
「それ、どういう意味よ?」
美咲は開店してから一か月、一人で問題なく料理し、接客してきたつもりだ。料理の味だってそれなりに自信はあるし、パン屋の結に褒められたのはただのお世辞ではないと信じていのだが……。
「いやぁ、そろそろ美咲ちの味に飽きてきたっちゅうか、ほら、時間的にも今日のランチに間に合うんかなぁ思て。急いで作ってもおいしさの追求はでけへんでぇ」
「失礼ね、新しいメニューならいつも考えてるし、味だって庄じぃに見てもらってるし」
「そか? じゃ、その大長ナスがどう調理したら一番おいしくなるか、知っとんの?」
「えーっと………煮物?」
「焼きナスや」
当てずっぽうの答えは見事に斬り捨てされ、美咲はがっくりと肩を落とした。
悔しいかな、相手は茄子神様だけあって、ナスに関する知識はまったく敵わない。
そもそも、美咲は蒼空に出会うまで、ナスなんて特別好きなわけでもなかったのに……気がついたらナスをメインに扱ったカフェを開くことになっていて、ナスグッズを買い集めたり、ナス料理を研究したりするようになっていただけの話だ。
「大長ナスの『調理法』なら二階の書庫にあるけど、探すの手伝ったろか?」
「い、いい、自分で探してくるわよっ!」
ここで下手に蒼空の手を借りると、後々(のちのち)面倒になるのはすでに何度か経験済みだった。
美咲は不満そうにキッチンを飛び出すと、ホール隅の壁に掛けられている一枚の布――どう見ても飾りにしか見えない、ナスの絵が描かれた藍染の暖簾を潜り抜けた。
そこには本来あるはずの壁はなく、蒼空が認めた者にしか見えないという、二階へ続く階段が伸びていた。
歩くとギシギシと音の鳴る古びた木の階段を上がると、六畳ほどの書庫になっていて、さらに入ってすぐの扉を開けると外――美咲が初めてここへ来た時になぜか見えていた、小さな鳥居の建つ和風庭園が広がっている。
とりあえず、今必要なのは大長ナスを使ったレシピなので、庭には出ず、美咲は書棚の前に立った。
ぎっしりと並んでいる色褪せた背表紙には、流麗な筆文字で書名が記されている。
そのどれもが、現代人には読みづらいだろう行書や草書で書かれていたが、幸いなことに、短大生の頃まで書道教室に通っていた美咲には難なく読めるものだった。
が、半端ない量の本の中から、目的のものを探し出すのは容易ではない。並んでいるのがすべて、ナスに関する本というわけではないからだ。
「……うー。大長ナスに関するのはどれなのよ……」
半ば自棄になりながら、『茄子』という単語や『農』『食』という字が含まれているタイトルのものを手に取っていく。
開いたものの中には、ナスとはまったく関係なさそうな、ただの子供のラクガキとしか思えない絵が描かれた冊子もあった。
「もー……ない、ないっ、ないよっ!」
美咲は次第に、誰だかわからない昔の人が書いた『調理法』などには頼らず、自分のレパートリーの中から適当にアレンジして作ってしまえばいい気がしてきた。
そうだ、ここは自分のお店なんだし、と潔く諦めて、開いていた本をパタンと閉じる。
「焼きナス、焼きナス~っと」
書棚の前に置かれた卓袱台に冊子を投げ出して、階段を駆け下りていく。
と、その途中で、キッチンの方から話し声が聞こえてきた。
「話し声?」
庄一が帰ってきたにしては早すぎる。開店前なのに客が入ってくるわけはないし、蒼空の独り言かと思い至る。
が、キッチンに戻った美咲は、そこに立っていた青年の姿に驚いて固まった――。