♪第一章♪ 茄子色のエチュード *4*
カフェの仕事はまず、店内外の清掃から始まる。
まずは窓拭き。白木調の家具で揃えられた店内に明るい光を取り込むため、窓ガラスを丁寧に磨いていく。それが終わると今度は、板敷きの床にモップをかけ、今度はカフェの外へ出て店の前の清掃だ。
同じく朝の清掃をしている隣の雑貨屋の店員や、向かいにある花屋の店長と挨拶を交わしながら、美咲が店の前を掃いていると、唐突に、遠くから自転車のベルを鳴らしながら突っ込んでくる少女の姿が飛び込んできた。
少女の乗っている自転車の前カゴに、黒っぽい毛並みの柴犬が乗っているのが見えて、かわいいなぁと思った瞬間のことだった。
「きゃあ――っ! すみませーんっ! そこどいてくださいーっ!」
とっさに一歩身を引いた美咲は自分の目前であがった、少女の悲鳴と自転車が転倒する激しい音に、思わず肩をすくめ、顔を両手で覆った。
カラカラと車輪が空回りしている音に、恐る恐る目を開けると、倒れた自転車の横で膝をさすっている少女が見えた。
まだ中学生くらいにしか見えない幼い顔立ちにスーツ姿というのが、ちぐはぐな感じだが、一応、社会人なのだろうか?
すぐそばで、涙目になっている少女を心配するかのように、黒柴犬がクゥンと鳴いた。
「……あのぉ、大丈夫ですか?」
美咲が箒を持っていない手を差し出すと、少女は恥ずかしそうに「ダイジョブです」と答えて自力で立ち上がった。
「膝、ウチで消毒していきますか?」
ストッキングが破れて血が滲んでいて、見るからに痛そうだ。
しかし、少女は首を横に振ると、すぐさま自転車を起こして歩き出した。
「いえ、本当に大丈夫ですから! すみません、お騒がせしましたーっ」
よほど急いでいたのか、美咲の方をチラリとだけ振り返ってペコリと小さく頭を下げると、自転車を押して駆け出していく。
転倒の際に変形した前カゴに入れなかった黒柴犬は、何が何でも自転車に乗りたいらしく、器用にもサドルの上にお座りしていて、ちょっと微笑ましい。
犬を連れて出勤? という疑問が浮かぶも、少女が駅の方に消えていったのを見届けると、美咲は気を取り直して今日の食材を調達に行くことにした。
……と言っても、仕入れはすべて、この商店街にある店で済むのだが。
まず、ランチの洋食メニュー用に、石釜パン工房『サンフラワー』で白パンを買いに、二ブロック駅寄りの店へと向かう。
朝七時から営業しているこのパン屋は、ヒマワリの種が入った『ヒマワリあんぱん』が有名だが、他のパンもおいしくて、美咲のお気に入りのお店だった。
開けっ放しにされたガラス扉の奥から漂ってくる、芳しいパンの香りにつられて店内へ入ると、明るい女性の声が出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ~」
通勤や通学途中にこの店のパンを買っていく人が多く、八時前後は外まで行列ができるのだが、九時半も過ぎれば客足は落ち着いていた。
こじんまりとした店内には、コの字型置かれた棚の上に様々なパンが並べられている。そのどれもが薄茶色の浅いバスケットの中に入れられていて、そういうオシャレなところは、地元の女子高生たちにかわいいと評判だという。
そんなディスプレイへの心配りをしたのは、レジに立っている女性で、最近このパン屋の長男に嫁いできたばかりの若奥様、夏野結さんだ。
美咲とは年が近いこともあって、ほぼ毎日顔を合わせているうちに、互いになんとなく親近感を抱くようになり、商店街の経営者たちの集まる『彩の瀬商店・友の会』の顔合わせのときに会ってからは、普通に会話する仲になっていた。
「あ、昨日はカフェに来てくださって、ありがとうございました」
「こちらこそ、いつもウチのパンを使ってくれて、しかもあんなにおいしくアレンジしてくれていて嬉しいわ。またお邪魔するから、よろしくね?」
「はいっ!」
ちなみに、昨日は、丸くて大きなソフトフランスパンの中をくり抜いて、そこにナスの入ったパンプキンスープを流し込んだ、スープパンだった。
「今日は白パンを使って、どんなメニューなの?」
「え、ええと、ナスとトマトとタマネギをカレー風味で炒めたものと、とけるチーズをはさんで焼く、ピザサンドなんですけど」
「わぁ、おいしそう! お昼に休みがとれたら、また食べに行っちゃおうかしら?」
まだかすかに温もりの残っている白パンを薄茶色の紙袋に詰めながら微笑んだ。
と、会話を聞きつけた店主の青年が奥から出てきて、口を尖らせた。
「おい、今日は俺が先に昼休憩とる番だからなっ」
つまり、カフェのランチタイムに休憩を取れないという意味だろう。
「あなたってばもぅ……わかってるわよー。ごめんなさいねぇ、美咲さん。あ、そうだわ、テイクアウトとかはやってないの?」
「……テイクアウト、ですか? そうですね、今のところはやってませんけど」
「あら、絶対やったらイケると思うわよー。ほら、駅前は事務所とか結構あるし、パッと買って歩きながらでも食べられたら、ねぇ?」
なるほど考えてみるか、と思いながらパンの入ったビニールを受け取り、美咲はお礼を言って店を後にした。
次に入った八百屋の『やおはち』は美咲にとってちょっとした鬼門だった。
白髪混じりのおじさん店主は、いつ見ても無愛想で無口で、近寄りがたいその雰囲気が美咲は苦手なのだ。
どう考えても客商売向きではない店主にも関わらず、この八百屋がそこそこ繁盛しているのは、ひとえに明るい奥さんのおかけだと思われた。
もちろん、扱っている野菜はどれも産直で、朝採りの新鮮なものばかりだけれど。
しかし、今日はその明るい奥さんの姿が見えない。
出直している暇はないので、美咲は諦めておじさんに近寄らないようにして必要な野菜を選ぶと、店の奥にあるレジまで運ぶ。互いに何も言わずに会計を済ますと、美咲は逃げ出すかのごとく、店に背を向けた。
そこへ、いつもの明るい声が、少し慌てた様子で飛んできた。
「あっ、山科さん、待ってまって! 例のもの、仕入れてきたから!」
ぽっちゃりとした小柄なおばちゃんが、ピンク色のエプロンの紐を結びながら、奥からパタパタと現れた。かと思うとおばちゃんはすぐに、店の隅に積まれていたダンボールを開け始める。
そういえば、美咲は数日前、このおばちゃんにある頼みごとをしていた。
――たまには、別の種類のナスを料理に使うたらええんちゃう?
という蒼空の提案で、いつも店頭に並んでいる種類とは違うナスの仕入れをお願いしてみたのだ。
「まぁったく、父ちゃんったら何も言わないなんて、ダメじゃないの。山科さんは大事なお客様なんだかんね! ほら、ちょっとは何とか言ったらどうなんね!」
無言を貫き通す亭主を、半ば呆れた様子で怒鳴りつつ、美咲を手招いた。
「ほら例の、変わったナスっての、いくつか仕入れといたわよ。これ、どうかしら?」
「わぁ……ながーい!」
ダンボール箱から取り出されたのは、赤紫色の細長い……三十センチは越えるかというナスだった。
あまりの長さに目を丸くした美咲の様子に、おばちゃんが満足そうな笑みを浮かべる。
「これはね『大長ナス』っていう種類なの。面白いでしょう? あ、でも、使えるかしら? 知り合いの農家さんでオススメされたかんね、試しに数本だけ仕入れてみたんだけど」
びろろーんと長いナスを持ち上げて、美咲の前でゆらゆらと揺らしてみせたおばちゃんは、機嫌良さそうに、古時計の童謡を口ずさみ始める。
その発想に、美咲は思わず噴き出しそうになりながら頷いた。
「はいっ、ぜひ、使わせていただきますね!」
「そりゃ良かった! あとはねぇ、こーんなちっちゃいのもあるんよ!」
次に取り出されたのは、ミニトマトほどのサイズの小さなナスだった。
さきほどの大長ナスと並べると、まるで、お父さんと赤ちゃんくらいの違いだ。
「これは山形産の『小丸ナス』よ。漬物向きなんだそうだけど、小丸なだけに、小さすぎて困るわねぇ……とか言っちゃって? うふふふ」
「……え、えーっと。それも買いますね」
寒いギャグにどう反応していいか困った挙句、美咲は愛想笑いを浮かべて答えた。
一方、美咲の反応を気にせず受け流したおばちゃんは、一人でペラペラと話し続ける。
「やぁね、若い子にはわからんギャグだったかしらねぇ。それにしても、あの場所でナスの料理をメインに扱ったお店が出るなんて、何だか懐かしくなっちゃうわぁ」
「あの場所……?」
美咲がカフェをやっている場所のことだろうか。
「ええ、貴女のお店があるところね、私が小学生の頃にも喫茶店があったんよ。スラッと背が高くてカッコイイおじいさんがマスターをしていたんだけどね、その人がすごいナス好きで、庭で色んな種類のナスを育てていたんよ。何でも、昔は京都の方で神主さんをしてた方みたいで、知り合いの夫婦なんか、結婚する時に祝詞あげてもらったりしてね」
「へぇ……そうだったんですか」
美咲は一代前の家主が夜逃げしたという、不動産屋に聞いた話しか知らなかったので、そうやってちゃんと店を経営していた人がいると聞いて、なんだかホッとした。
と同時に、今まで聞いたことのなかった蒼空の過去が、急に気になりだす。
その店主のおじいさんというのは、二代前か、それとも三代前の人だろうか。ナス好きだったというのは、美咲が最近、前よりもナスが好きになってきたのと同じように、蒼空の影響? というか、蒼空のことはやはり知っていたのだろうか。もし知っていたのだとしたら、どんな会話をして、どんな時を過ごしていたのか――。
「小学校の帰りに、よく親に黙ってその喫茶店に寄り道してね、父ちゃん……今の亭主と一緒にコーヒー牛乳を飲ませてもらったりとかねぇ……あぁ、懐かしいわぁ」
「あの、今そのおじいさんは?」
思わず自分の口から飛び出した言葉に、美咲は慌てた。
今あの場所にいないということは、引っ越してしまったか、あるいは。
そもそも、こんなこと聞いたって仕方ないのに、知ったところで何にもならないのに。
失礼なことを聞いたのではないかと焦る美咲だったが、おばちゃんは特に気にした様子も見せず、目尻の皺を深くした。
それから、自分の胸をトントンと叩いて頷いた。
――ここに、いるんよ。
確かにそう言ったように、美咲には聞こえた。
「まぁ、あたしゃ、あの場所が、またみんなが笑って集まれるイイ店になれるよう、期待してるかんね。っとと、くだらない立ち話で引きとめちゃって悪かったね。また、面白いナス仕入れとくから、楽しみにしといてくれねぇ」
「……はい。ありがとうございます」
袋から飛び出すほど長い『大長ナス』と、コロコロとした『小丸ナス』がたくさん詰められたビニールを持って、美咲は八百屋を後にした。
次に向かったのは、すぐ隣の精肉店『肉のもぐもぐ』だ。
夕方になると、行列ができるほどおいしいと噂のメンチカツやコロッケを売り出すが、基本的に朝しか来ない美咲はまだ食べたことがなかった。
当然ながら、肉の惣菜だけでなく肉そのものも質が良く、おまけに店主のおやっさんが気さくで面白いというのも人気のひとつだった。
「お、美咲ちゃん、いらっしゃい! 今日は何肉にするんだい?」
「鶏のむね肉、お願いします」
「はいよっ! むね肉は疲労回復にバッチリだからねぇ、今日みたいな暑くなりそうな日にゃピッタリだな!」
白くて太い眉毛が特徴の、通称おやっさんが、てきぱきと肉を包みながら言う。
「そういや、ゲンちゃんとこ、先月生まれた孫連れて、娘さんが帰ってきてるんだって話、聞いたかい?」
ゲンちゃんというのは隣の八百屋のおじさんのことで、このおやっさんとは幼馴染の大親友らしい。そんな意外な人間関係を知った時は驚いたものだけど――孫?
「そうなんですか?」
「ああ、ゲンちゃんはほれ、あのとおり、厳つい顔しちょるから、孫にわぁわぁ泣かれたみたいでなぁ。落ち込んどったろ?」
美咲にはいつもと変わらず不機嫌そうにしか見えなかったけれど、と苦笑する。
もしかすると、おばちゃんが忙しそうにしていたのも、孫が来ていたからだったのかもしれない。孫の誕生にしたって、知っていたらお祝いの言葉くらい言えたのにな、と思いつつ、美咲は会計を済ませて歩き出した。
今日の分の買出しを終え、ふと見た腕時計は十時を少し回ったところを指していた。
「わぁ、早く戻らなきゃ!」
いつもより行動が少し遅れ気味だったのを思い出した美咲は、小走りになって、カフェへと戻っていった。