♪第四章♪ 茄子色のセレナーデ *9*
高級料亭『香久家』は、彩瀬から電車で20分ほどいった、都心の一等地に佇んでいた。
店の周りを囲む高い塀の上からは、綺麗に剪定された松の緑が覗いて見え、敷地の中からは時折、水の流れる音と鹿威しの風流な音が響いてきた。おそらく、美しく整備された広い日本庭園が広がっているのだろう。
「思い切って来てみたはいいけど……」
到底、普通のシャツにパンツ姿で入れるような雰囲気ではなかった。
困った挙句、店の周囲をウロウロと回っていると、どこからか声が飛び込んできた。
男同士で言い争っているような――。
と、その一方の声が漣のものだと確信した実梨は、声のする方へと駆け寄った。
わずかに開いていた勝手口から、敷地内に飛び込み、息をのむ。
「んでだよっ、俺の自由にしていいって言ったのは嘘だったのかよ!」
そこには、白髪交じりの背の低い男性――漣の父親だろうか――の胸倉を掴んで叫んでいる漣がいた。二人から少し離れた所には、漣によく似た、それでいてまだ幼い顔立ちをした青年がオロオロとした様子で立ちすくんでいる。
「あれだけの腕を、ウチで活かさずにどこで活かせるというのだ、漣? お前がいずれはここへ戻ってくるというから、修行という名目で外に出してやったんだぞ」
「もうガキじゃねぇんだ、自分の腕を活かすとこは、自分で決める。俺は、美咲の店で、やっていくって決めたんだ」
「この馬鹿息子が! 女のために……」
激しい言い合いに、入ってきた実梨の存在に気付くものは誰もいなかった。そしてもう一人、実梨の背後から入ってきた人物にも。
「はい、二人ともストーップ!」
実梨の背後から響いた聞きなれた声は、まぎれもなく汐の声で――驚いて振り返ると、彼女は腰に手を当て、堂々とした笑みをその顔に浮かべていた。
「汐! お前にはもうウチの敷居は二度と跨がせんと言ったはずだ、なぜ戻ってきた!」
父親とおぼしき男性は、眉間に深い皺を寄せ、今にも口から火を噴きそうな勢いで、現れた汐に叫んだ。
が、汐は飄々(ひょうひょう)とした様子で、ペロっと舌を出しただけだ。
「なぜって、かわいい弟たちと、妹分のピンチを救いにね~」
そういえば、勘当されちゃって、敷地に入っちゃいけなかったっけーと、実梨にだけ聞こえる声でつぶやき、ウインクしてみせた。
「汐ねぇ……?」
「姉貴っ? って、美咲まで、なんでここにいんのっ!?」
そこに至ってようやく実梨に気付いた漣が、掴んでいた親父の胸倉から手を離し、ばつが悪そうにクシャっと前髪をかきあげた。
「父さんにしっつもーん。後継ぎは絶対に漣じゃないとダメなのかしら? 例えば、漣よりちょっと腕は劣るけどやる気は満々の料理人がいたとして、その人では、ダメ?」
「お前、何を……?」
怪訝そうに唸る親父を見つめていた汐の視線が、つと後ろへ流れ、一人の青年へと向けられた。汐の思惑にいち早く気付いた漣も、同じ青年を見やる。
「オレ……まだ一年しか経験ないし、兄貴ほど腕に自信ないけど、日本料理が一番好きだし、兄貴がウチを継がないっていうならやりたい……オレじゃ、ダメかなぁ?」
「よく言ったわ、澪! それでこそ、あたしの自慢の弟その2!」
二番目かよ、と澪と呼ばれた漣の弟が苦笑し、漣と実梨も思わず頬を緩めた。
「で、父さんの意見は?」
「……漣、お前はもう本当に、ここへ戻ってくる気はないんだな?」
変わらず眉間に皺を寄せ、口をムッとへの字に曲げた漣の父親は、息子を見つめた。
「ああ、俺の帰る場所は、彼女の店だ」
「ではもう勝手にしなさい。澪、明日からみっちり叩き込んでやる」
「「はい!」」
二人の兄弟の声が揃って父親に答え、汐は満足げな笑みを彼らに向けた。
父親と澪が店の中へ消えていき、汐も母親に会ってくると言ってその後を追っていき、裏庭には漣と実梨だけがポツリと取り残された。
ようやく戻ってきた静寂に、漣がそっと深呼吸するのが実梨にもわかった。
「なぁ美咲、俺、あんなこと言っちゃったんだけど……3日も無断欠勤とかして、クビになったりとか……する?」
さっきまでとは打って変わって、自信なさげに尋ねてくる漣に、実梨は何だか可笑しくなってきて、思わず噴き出した。
「え、ちょっと、なんでそこで笑うんだよ?」
困り顔の漣を、実梨はまっすぐに見つめて、大きく息を吸った。
今度こそ、勇気を出して。
「漣はウチの店に必要です。だから、帰ってきてください!」
ぺこり、と頭を下げると、今度は漣が噴き出し、実梨の頭をクシャクシャと撫でた。
「マージーでー? そんなこと言われたら、俺、ホントにずっと居座るよ? 美咲が俺と付き合ってくれるって言うまでいる気満々だけど、それでもいいの?」
美咲、という名前に、実梨は大きく首を横に振った。が、それを自分の問いへの否定と取った漣が「え?」と固まる。
「違うの。私の本当の名前、美咲じゃなくて、実梨っていうの。今までずっと嘘ついていて、ごめんなさい」
「実梨? え、じゃあ、美咲ってのは?」
「双子の姉の名前なの。3か月前に事故に遭ったきり目を覚まさなくて、まだ入院してる」
それで病院に行っていたのか、と漣はそっと頷き、そして続けた。
「『粉雪亭』に来てたのは……どっち?」
「お昼に通ってたのはほとんど私。でも、私は漣と喋ったこと、一度もなかったの。だから、漣が好きなのは……」
きっと、美咲の方だ。
でも、それならそれでもいい。美咲に負けないくらいがんばって、いつか漣を振り向かせるから、と覚悟して、実梨は精一杯の笑みを浮かべた。
漣はしばらく考え込んでいたかと思うと「なぁんだ」とつぶやき、そして、実梨を見つめて優しげに目を細めた。
「俺が好きなのは、最初から、実梨だったよ」
「え?」
「たしかに、『粉雪亭』で会話した美咲も良かったけど、でも、俺が惹かれたのは、毎日、昼に店に来て、同僚と楽しそうに話してる時の実梨の笑顔。それから、一人で来て真剣に仕事しているのを見た時だったからさ。でもやっぱり、一緒に仕事するようになってからの、実梨が一番好きかなー」
「……なっ!」
久々にストレートな漣の甘い言葉を浴びて、実梨は頭にカーッと血が上っていく音が聞こえた気がした。
「そうやって、照れてる実梨なんても~っ!」
漣はとうとう自分が抑えきれず、実梨をぎゅっと抱きしめてしまっていた。
腕の中では、ゆでダコのように真っ赤になった実梨が固まっている。
「コホン、えー、そこのお二人さ~ん、イチャつくのは帰ってからにしてねー」
どこからか汐の声が飛んできて、我に返った漣と実梨は、慌てて裏庭から飛び出す。
ようやく止んだ雨の後、雲の間から覗かせた蒼い空には、鮮やかな虹が架かっていた――。




