♪第四章♪ 茄子色のセレナーデ *7*
閉店後、めずらしく夕飯に誘われて断るというやり取りをすることなく漣が帰っていった後、美咲は一人残って茶葉の量をチェックしたり、棚を整理して、親友との約束の時間までの暇を潰していた。庭のナスの様子を見て戻ると、いつの間にか来ていた潮が蒼空と親しげに話している声が聞こえてきて、美咲は首を傾げる。
「潮殿、例のヤツ、頼んどいたで」
「おー、さすが蒼空っち。仕事早いね! ホント助かるわー」
「任せろや! で、あっちの方はどないなった?」
「ばっちりよ。ほら、これ見て……」
「ふっふっふ、潮殿、おぬしもなかなか」
そこだけ聞くと、まるで悪巧みをしているお代官様と何とか屋、みたいな雰囲気だ。
「ちょっと、二人ともそこで何コソコソ話してるのよ?」
美咲の登場に、二人は持っていた小さな紙切れを後ろ手に隠したかと思うと、愛想笑いを浮かべて言った。
「ひ・み・つ」
「秘密なんや、すまんなー。ほな、また来てや~潮殿~」
口裏を合わせてニッコリと微笑んだかと思うと、蒼空は逃げるようにして姿を消した。
「潮ねぇ、いつの間に蒼空と仲良くなったの?」
「うん、まぁねー。ほら、神様と仲良くしておくと、写真家としては色々助かることとかあってね~」
写真家としては、という部分に、美咲は蒼空が雷神であることを思い出した。
もしかすると、天候を調整してもらったりできるのかもしれない。
「ふぅん。まぁ、いいけど別に……」
何となく蚊帳の外に追いやられたような寂しい気がしつつ、美咲は問い詰めるのを諦めると、取り出した赤字ばっかりの帳簿を開き、電卓を叩き始めた。と、すぐに、一向に縮まらない売り上げと来客数の目標値までとの差に愕然とする。
そしてふと脳裏に、昼間言われた言葉が蘇った。
「ねぇ、何をそんなに落ち込んでるわけ?」
「え、落ち込んでなんか」
ドキリとしながらも、美咲は帳簿から目を逸らさず、頬を引き上げて笑う。
が、潮はそれまで座っていた窓際の席を立ち、カウンター席、美咲の隣に腰を下ろす。それから、美咲の頭をコツンと軽く小突いた。
「こーらっ、あたしにまで無理して笑わなくていいのよ、実梨」
「……っ」
本当の名前で呼ばれた瞬間、まるで仮面が剥がされたかのように一瞬にして素の自分に戻った。身体からフッと力が抜けて、持っていたペンを取り落としてしまった。
「……あーあ、やっぱ潮ねぇの目はごまかせないかぁ」
「ごまかす必要ないって言ってんのよ。ほら、何があったの?」
頭をクシャっと撫でられて、実梨は泣き笑いの表情を浮かべ返した。
「……ある人にね、店長に向いてないって言われちゃって」
説明できないので『人』とは言うが、あれはおそらく蒼空の仲間の『神様』だったのだろう。
神様に言われてしまったら、もうどうがんばっても無理な気がしてくる。
あの場は何とか「そうかもしれないですねー」なんて、笑ってごまかしたつもりだったが、本心はそう簡単にごまかせなかった。
「蒼空はどんどん変わっていくし、漣は色んな企画を考えて全部実行していくし、里桃さんたちだってみんな……なのに、私、やっぱりカフェの経営なんて向いてないのかもしれないなぁって」
毎日悩んでばかりで、何もできなくて、ちっとも前に進めない。
泣くのはやめた。泣いていても何も解決しないって思ったから。
だからがんばって一歩踏み出してみた。
なのに結局、中途半端に踏み出した足は宙で止まったまま。いつになったら着地できるのかわからないまま、そろそろ足に限界がきたのかもしれない。
「私じゃやっぱりダメなのかも……って。私はどうがんばっても、美咲みたいになれないの。名前を変えたくらいじゃ、何も変わらなかったんだよ、やっぱり……」
2月の冷たい雨が降っていたあの日、美咲が事故に遭って駅前の総合病院に運び込まれた。それから毎日、病室で、意識の戻らない美咲のそばで泣き続けていた。
生まれた時からいつも一緒で、もう一人の自分、あるいは半身として、感情まで共有しているのではないかというくらい仲良しで。
でも、性格はちょっぴり違った。美咲は実梨よりもちょっと器用で明るくて人前に出るのが好きな子なのに対し、実梨はそんな双子の姉の後ろにいつも隠れていた、消極的で甘えん坊な子。
まるで、カフェに来ているあの双子姉妹そっくりで。だから、カフェに、里桃と里杏が入ってきたときは、まるで自分たちの昔の姿を見ているようで、驚いて、それから羨ましかった。またあんな風に、美咲と一緒に笑い合ったりできる日がくるのだろうか、と考えるたび、胸が苦しくなった。
でも、里桃は姉の代わりを演じるのではなく、ちゃんと自分を変えられた。
実梨が今していることは、ただ美咲を名乗って演じているだけ。
美咲と代わってあげたい、と漏らした実梨に、潮は言った。
――そんなに代わりたいなら、あなたが美咲として過ごしてみたらいいじゃない? 美咲になったつもりで、彼女がやりたいと思うこと、いつも彼女がふるまっていたように、なりきって過ごしてみなさい。
この提案に乗った実梨は、以前から姉妹で開くことが夢だったカフェを作るべく、3年近く勤めた会社を辞め、美咲として過ごし始めた。心配する両親を説き伏せ、カフェ開店に協力してくれたのは、庄一と潮の二人だった。
あれから3か月――いまだ目覚めぬ美咲には、毎晩のように会いに行き、その日あったことを報告していた。
悠馬には少し前に「人見知りには見えない」と言われたけれど、本当は怖くてたまらなかった。いつも、人に話しかける時、躊躇ってしまう臆病な実梨は、どんなにがんばっても消えてくれない。
そして今日、人はそう簡単に変われないのだ、と改めて思い知らされた。
「じゃあ、実梨はもう諦めるの? カフェ、やめる?」
「……諦めたくないけど」
蒼空との契約が果たせなかったら、どうせ何もかも終わりなのだ。
「ねぇ、実梨はお盆に作るキュウリ馬とナス牛の話って知ってる?」
唐突な質問に、実梨は首を横に振る。が、すぐに潮の視線の先にあるものを見つけて、「ああ」と納得した。
店内の片隅に飾られているナス牛は、5月のナス祭のときに蒼空に頼まれて作ったものではない。生のナスではすぐに傷んでしまうといって、百円ショップで漣が見つけたというレプリカのものに置き換えられていた。
「ただの飾りのお供えモノでしょ?」
しかし、潮は小さく頭を振ると、立ち上がって棚に置かれた、レプリカのナス牛を手に取った。
「まず、ご先祖様には足の速いキュウリの馬に乗ってきてもらって、早くお迎えするの。でもなるべく長く地上にいて欲しいから、帰るときは歩みの遅いナスの牛に乗って還ってもらうのよ」
「……そう、なの?」
でもそれが何だというのだろう。
実梨は潮の話の意図が掴めずに、窺うような視線を返した。
「ここはナスをメインにしたカフェでしょ。だからね、歩みが遅いナス牛に乗ってるとでも思えばいいじゃないの。焦って慌ててキュウリの馬に飛び乗ったって、振り落とされて怪我するだけよ」
「ナス牛に……?」
「そう。急がば回れ、歩みの遅い亀だって兎に勝てるのよ。ちゃんと前を向いて、どんなにゆっくりでも、進もうって気さえ忘れなければ、ね」
「でも、売り上げ目標は全然だし、このままじゃお店続けることできないんだよ。それに、私が名前を偽ってること、みんな知ったらきっと……」
「あら、嫌われるとでも思ってるの?」
こくん、と頷く実梨に、潮は意外そうな顔をした。かと思うと、フッと柔らかな笑みを浮かべ、立てた人差し指を口元に押し当てた。
まるで、内緒話でもするかのように。
「じゃあ、私が本当は『潮』って名前じゃないって言ったらどうする?」
「え?」
「あたし、本当の名前は、汐っていうのよ。高萩汐」
「たかはぎ……しお……?」
何を言い出すんだと、実梨はポカンと親友の顔を見返し、目を瞬かせる。
「ほら、私も嘘ついてたことになるけど、実梨はこれで私のこと、嫌いになった?」
名前が違うくらいで、目の前にいる親友が、別人に変わったわけではない。
実梨はぶんぶんと、何度も大きく首を横に振った。
「嫌いになんてならないよ。だって、ねぇさんはねぇさんだもの」
「でしょう? ほら、ちゃんとわかってるじゃないの。大切なのは『名前』じゃなくて、アナタが今まで何をしてきたかでしょ? アナタのがんばりは、みんなちゃんと知ってると思うわよ。嘘だと思うなら、聞いてみればいいじゃない」
「でも……蒼空はいつも、『名前』が大切だって」
ふざけて違う名前で呼ぶといつも蒼空は本気で怒るのだ。これは特別な名前だから、と彼は言う……名前はそれだけ、大事なものだ、と暗に言っているのではないか。
「そうね、それだって本当よ。だから、自分だけの名前を大切になさい。美咲の名は美咲のもの、実梨の名はあなただけの、ちゃんと意味があって付けられたものでしょう」
美しい花を咲かせるように『美咲』、そして花が咲いた後はちゃんと実りますように、との願いを込めて付けられた『実梨』という名前。
家の前にあった大きな梨の木が、立派な実を付ける頃に生まれた姉妹だったという。
「それによ、美咲の性格をよく思い出してごらんなさい。あの子だったら、このまま嘘をつき続けると思う?」
美咲はどんな時も眩しいくらいにまっすぐで、そして何より、嘘が嫌いだった。
「ううん、美咲はそんなこと絶対しない。ちゃんと言う、と思う」
例え言ったことで相手に嫌われても、美咲なら堂々と胸を張って笑っていそうだ。
「でも、じゃあ……何であの時、美咲として過ごせなんて……」
「ただのきっかけよ。あなたが一歩を踏み出すための、ね。大丈夫よ。もしみんなに嫌いだって言われたとしても、私は実梨のことが好きよ。それはずっと変わらないんだから、それだけは忘れないで」
変わっていくものと、変わらないもの――どちらも愛しいと、実梨はふと思った。
「潮ねぇ……ううん、汐ねぇ?」
「ん?」
「私も……汐ねぇのこと、大好きだからね」
「あら、ありがと」
汐にぎゅっと抱きしめられた実梨は、ふと、あることに気がついた。
「……あれ? ちょっと待って、さっき……汐ねぇの苗字、なんて言った?」
どこかで聞いたことあるような名字を聞いた気がした。「高萩……たかはぎ?」と何度も口の中でつぶやいた実梨は、ハッとして帳簿に挟んであった履歴書を取り出し、叫んだ。
「高萩って、漣の……お姉さん!?」
「あら、あたしってば、うっかり名字言っちゃったわね。うふふふ、気にしないで」
「え、いや、ちょっと、うふふふじゃなくて……じゃあ、漣のこと……」
色々悪口っぽいこともたくさん言っていた気がして、実梨は青ざめた。
やたらと、漣と付き合うことを勧めてきたのも、そういう理由だったのかと思い至り、今度は赤くなる。
頭が混乱して、何がなんだかわからなくなってしまった。
「ほらほら、気にしないでって言ってるじゃない。誰が姉弟だろうと、あたしはあたしでしょう?」
「や、そうじゃなくて、じゃあ、漣は私の名前のこと……」
これだけ悩んでおいて、実はもう知っていたりとか――。
「知らないんじゃないかしら、双子だってこともね。アイツ結構鈍いとこあるし。少なくともあたしは言ってないし、そういえばアイツとは正月以来、一度も会ってないのよねー。そろそろ会いに行こうかしら」
カラカラと笑う汐に、実梨はポカンと口を開けるのだった。




