♪第三章♪ 茄子色のカノン *10*
祭だったとはいえ、いつもどおり六時に店を閉め、漣が帰っていった後、美咲は一人、カウンター席に座って帳簿をつけていた。
何やら色々あって面白い一日ではあったが、経営的にはいつもと変わらず最悪で、今週の売り上げは一週間通してもわずか数万円という、最終的な目標の三分の一にも満たないという危機的状況に陥っていた。
「これは、ホントどうしたものかなぁ……」
泣きたくなってくるのを必死で堪えて、美咲は帳簿に挟んであった一枚の紙――蒼空と交わされた契約書、を取り出して広げた。
――ひとつでもでけへんかったら――……。
「これ、できなかったら、ホントどうなるんだろう……」
墨が滲んでいて、字が読みとれなくなっている部分に何て書いてあるのかは、何度聞いても答えてくれなかったので、できなかった場合に何が起こるのかいまだにわかっていない。考えるたび不安になるけれど、とにかく、全部こなせたら何も起きないのだろうから、がんばるしかないのだ。
この契約書を記した蒼空はといえば、祭が終わってからやっぱり片づけを手伝うわけはなく、またフッと姿を消してしまい、それきり会っていなかった。
どうせまた、書庫で本を読み漁っているのだろう。夜はいつもそうして時間を潰していると、前に話してくれたことがあった。
特に用がない限り呼びに行ったりはせず、帰る時も挨拶するわけでもなく、そのまま鍵を閉めて普通に出て行くだけだった。
「もー、ホントに気まぐれマイペースな神様なんだから……」
癖になっているため息をつきそうになり、寸前で口を手で塞いだ、瞬間――。
「こんばんはーっと」
チリーンと風鈴の音が店内に響き、ドアが開いた。
「あ、もう今日は閉店なんで……」
振り返ると、ドアの前に立っていたのは、スタイル抜群の美女――美咲の親友であり、六歳年上の姉のような存在だった。
「潮ねぇさん! やだ、いつ日本に帰ってきたのっ?」
「今朝の便よ。この前、ちゃんとメールに書いておいたじゃないのー」
「あ……そっか、今日だったっけ」
ふと見やった壁掛けカレンダーの今日のところには、ナス祭をやると決めた前から、潮が帰ってくる日、として星マークが付けてあった。
が、祭の準備やらで、すっかり忘れてしまっていたのだ。
苦笑しながら立ち上がり、美咲が潮に駆け寄ると、その手に、ポンと茶色い紙袋が乗せられた。
「はい、おみやげ!」
「わーい、なんだろ? 見ていい?」
素直に喜んで受け取った美咲に、潮は「もちろんよ」と微笑み返す。
袋を開けてみると、琥珀色の液体の詰まったかわいらしいボトルが二本、カナダ土産の定番であるメイプルシロップが入っていた。
「今度、仕事休み取れたらココ来るからさ、おいしいホットケーキ作ってくれる?」
焼きたてフワフワの生地に、メイプルシロップをかけて食べようという甘いお誘いに、美咲は大きく頷いた。
「もっちろん! とびきりおいしいの作るから、期待してて!」
プロの女流カメラマン・USHIOとして活躍している彼女は、先月初めから写真集のの取材旅行で遥か遠く海の彼方、プリンスエドワード島に行っていたのだ。
プリンスエドワード島といえば、赤毛のアンの舞台としても有名な、自然豊かで美しい島で、美咲もいつか行ってみたいと思っている地のひとつだった。
「どう、良い写真いっぱい撮れた?」
「ふっふっふ、よくぞ聞いてくれました! 撮りたてホヤホヤの写真、見てくれる?」
「もちろん、見るみる!」
潮は肌身離さず持ち歩いているというデジタル一眼レフカメラを、専用バッグから取り出すと、ディスプレイの電源を入れてから、カウンター席に腰掛けた。
隣の席に美咲を手招いて、写真を一枚ずつプレビューし始める。
「うわぁ……綺麗……」
次から次へと映し出されていく美しい写真に、ディスプレイを覗き込んでいた美咲の口から自然と感嘆のため息が零れる。
「あ……このお花畑の、かわいい! 私、こういうの好きだなー」
紫やピンク、黄色の、藤の花を逆さまにしたような形の花が、青空の下でポツンポツンとささやかに咲いている写真にしばし見惚れる。
「これはルピナスの花よ。日本では、立ち藤とも呼ばれてるわね。時期的にまだちょっと早いから、少ししか咲いてなかったけど、六月にもなれば、この辺り一帯、鮮やかな絨毯を敷いたみたいになるらしいわ」
「へぇ……。ルピナスって……あ、どっかで聞いたことあると思ったらウチが仕入れてる紅茶専門店と同じ名前だわ! 花の名前だったんだぁ」
ほら、と言って、潮に見せようと紅茶の缶を手に取ると、そこにはたしかに、ルピナスの形らしきシルエットのマークが描かれていた。
「あら、ホントね。この写真が気に入ったなら、プリントしてあげるわよ」
「わ、いいの!? じゃあ、店内に飾っちゃおうかなー」
他に見せてもらったのは、陽光を浴びて輝く新緑の木々や、樹の上で木の実をかじっている野生のリス、野兎などの小動物たち、白い灯台や教会といったかわいらしい建築物、雄大な朝焼けの空、青い空に筆でサっと描いたような白い雲など、どれも島の魅力が溢れる作品ばかりだった。
二人が出会ったのは、三年前、潮がまだ駆け出しのカメラマンだった頃で、料理雑誌の写真を潮が担当し、美咲が文を担当することになった時だった。
それから何度か仕事することがあり、去年の夏には、潮が撮った北海道の雄大な景色の写真に、美咲が言葉をのせて作った写真絵本も発売されていた。
「……で、あんたの方はこの一か月ちょい、どうだった? 本当はあたしもオープンには立ち合ったり、手伝いしたかったんだけど、ごめんね」
「全然大丈夫よ。潮ねぇさんが忙しいのわかってたのに、物件探しとか、ナスグッズ探しには散々連れまわしちゃったんだから……あの時はホントありがとうね!」
この物件を見つけて賃貸契約を結んだ日、後から蒼空との契約に気付いて、一度は契約を白紙に戻そうとしかけた。けれど、潮に色々相談した結果、蒼空の言うとおり、ナスを中心に扱ったカフェを開くことになって、開店までの約一か月間、二人で奔走したのだ。
「あ、そういえば、前に電話でチラっと話したウチで働きたいって言ってきたあの洋食屋さんの男の人ね、雇っちゃったんだ」
漣が働いていた洋食屋に初めて連れて行ってくれたのは、潮だったので、彼の顔くらいは潮も覚えているはずだ。
「あら、そうなの? ……アイツってばいつの間に」
「え?」
ぼそりとつぶやかれた後半の言葉が聞き取れず、美咲は首を傾げた。
しかし、潮は何かをごまかすように、美咲の頭をくしゃくしゃと撫でながら微笑んだ。
「ううん、こっちの話。でも、嫌だ嫌だって言ってた割に、なんか嬉しそうに見えるけど?」
「んー……嬉しいっていうか、なんかね、想像してたのと全然違うイイ人っぽくて」
「へぇ……どんな?」
料理の味が良いのはもちろん、手際も良くて見習うべきところがたくさんあることや、集客について色々アドバイスくれたり、接客の時にフォローしてくれたりすること、ここ数日の間で感じたことを、美咲はつらつらと語って聞かせた。
「よかったじゃない。そういう心強いパートナーができたってのは、いいことだと思うわ」
パートナーかぁ、と反復した美咲は、何だかくすぐったい気分になって、頬をかすかな桃色に染めた。
「しかもそいつ、前からアンタのことが好きだって言ってんでしょ? どうせなら、付き合っちゃえばいいのに」
潮はニヤリと、何か企んでいるような笑みを浮かべて、からかうように言った。
途端、美咲は突然、弾かれたように顔を上げたかと思うと、すぐに力なくうつむいた。
「……それは、ダメ」
「ダメって何が?」
「彼が好きなのは、たぶん私の方じゃなくて、本物の美咲の方よ……。私が彼だったら、いつも明るくて笑ってて、気遣いとかちゃんとできて、人ともきちんと喋れる子の方が好きだもの。私なんて……」
「……実梨。それ以上自分を傷つけるようなこと言ったら、あたし怒るわよ」
潮の静かな怒鳴り声が二人しかいない店内に響き渡る。
久しぶりに呼ばれた『本当の名』に、美咲はうつむいたまま、顔をクシャッと歪めた。
「……だって、本当のことじゃない。今日だって私、色々失敗して彼に迷惑かけたし、本当はこの店をもっと良くするために、色々企画とか考えなきゃいけないのは私なのに……何も、できてないわ」
「どこがよ。あんただって、イイトコいっぱい持ってし、がんばってるじゃないの。実梨と美咲、二人とも知ってるあたしが保証するわよ。それでも信用できないかしら?」
「……ごめん」
信用できないのは、潮ではなく、自分なのだ。
結局、美咲のようになりたいと思って、名前を借りて彼女のように振舞ってみようとしたところで、中味は前と同じ、根暗で、気遣いとかあまりできなくて人を困らせて、いざとなったら逃げ出してしまう、小心者のまま、変われないのだ。
そんなに簡単に、変われないのだと、この数か月で思い知った。でも、ここですべてを放りだしたら、本当の『美咲』のことまで傷つけてしまう。彼女と一緒に夢に見たこの空間は、何としてでも守らなければいけない――。
美咲はぎゅっと手に力を込めて握りしめると、立ち上がった。
「あ、そうだ、潮ねぇ、夕飯まだだよね? パパッと何か作ってくるから、ここでちょっと待ってて」
何もなかったかのような作り笑顔を浮かべて立ち上がった美咲は、潮から逃げるようにキッチンへと駆け込んでいった。
潮の座っているカウンター席から美咲の姿が見えなくなった瞬間、店内に何かの気配が生じた。
それが何であるか、うっすらと気付いた潮は、余裕の笑みを浮かべる。
「……キミが噂の、茄子神様――蒼空くん、かしら?」
「お、何や、俺様のこと知っとんたんか! せっかく脅かそう思たのになぁ」
ゆっくりと振り返った潮に、蒼空はイタズラが失敗した時のような、悔しそうな表情を浮かべて、小さなその肩をすくめた。
潮は神様なのに人間くさいその仕草に妙な親近感を覚えつつ、唐突に頭を下げる。
「ありがとう、茄子神様」
つぶやかれた言葉に、蒼空は珍しく驚いたように、そして首を傾げた。
「なんやねん、突然? 俺様、初対面のねーちゃんに感謝されるようなこと、まだ何もしてへんで?」
「ううん、この一か月……いや、3月のあの日からなら2か月なのかな、キミがここにいてくれて本当に良かったと思ってるのよ。私は忙しくていつもあの子のそばにいることは……支えることはできないから。だから、これからもあの子のこと、よろしくね」
「おうおう、なんや、そういうことかい! そんなら、俺様にどどーんと任せときや!」
「あら、頼もしいお言葉。さすが小さくても立派な神様ね」
美咲たちに神様として扱われることがあまりない蒼空は、潮の言葉に目を輝かせる。
「……ねーちゃん、めっさええ奴やなぁ。名前はなんちゅうんや?」
「汐よ、高萩汐。あ、でも、あの子の前では『潮』で通ってるから、そこんとこヨロシク」
別に、悪気があって名前を偽っているわけではない。単に、カメラマンとしての名前が潮で、本名が汐というだけのことだ。そして何より、彼の姉弟であることがバレたら、色々とつまらないから――黙っているのだった。
美咲に聞こえないよう、そっと囁かれた自己紹介に、蒼空はニヤリと笑う。
「ほほぅ……なるほど。秘密っちゅうんも、楽しいもんやな」
「でしょ?」
「潮殿とは、なかなか楽しい関係が築けそうやわ。ま、よろしゅう頼むで!」
「ええ、こちらこそ」




