♪第一章♪ 茄子色のエチュード *1*
5月8日、九時。朝のラッシュピークを少し過ぎた彩瀬駅改札を抜け外に出た瞬間、初夏の風が彼女――山科美咲の頬を撫で、肩まで伸びた栗色の髪をフワリと揺らしていった。
朝のまぶしい陽射しが、彩瀬駅前ロータリーの噴水に跳ね返り、キラキラと黄金色に輝いている。待ち合わせの目印にと最近建てられたカラフルな花のオブジェを横目に、彼女は颯爽と歩いていた。
淡い緑のカッターシャツに黒のパンツという格好は、都心のオフィス街にいそうな営業の女性風だが、デニム地にちりめんでできた薄紫色の小花が散る和柄の鞄を肩から掛け、黒のスニーカーを履いているあたり、小粋で洒落ている。
まだ絶えぬ駅に向かう人々の流れに逆らい、彼女が向かった先は、どこか懐かしい下町風情の残る商店街――彩の瀬商店街。
近年、住みたい街ランキング上位にランクインするようになった彩瀬は、駅ビルの改築と同時期に家電量販店やショッピングモールがオープンして以来、若者の街として賑わいをみせている。一方で、日の目を見ることが少なくなった商店街だったが、それでも住人たちは、「儲からなくても、なんとか食べていければいい」といった風で、今日も朝から朗らかな笑顔で挨拶を交わし合っていた。
「おはよう、山科さん。カフェの方はどう? 慣れたかい?」
「おはようございます~、だいぶ慣れてきましたよ!」
「おいっす、美咲ちゃーん! 今日も元気に、はりきっていこなー」
「はーい、あ、後で仕入れに行きますね!」
『やおはち』のおばちゃんや、『肉のもぐもぐ』のおっちゃんと朝の挨拶を交わしながら商店街を奥へ奥へたたと進むと、やがて小さな公園が見えてくる。
みどり公園のすぐ手前の建物は、いかにも白いペンキを塗ったばかりという板目調の壁に、小さなガラス窓のついた扉、その上には『EggPlanetCafe~エッグプラネットカフェ~』と手書きされた看板が掲げられていた。
カフェの前で立ち止まった美咲は、鞄から取り出した鍵をドアノブに差し込んで回し、小窓の付いた扉を押し開ける。
――チリチリーン
ドアの上に取り付けられた風鈴の涼やかな音が店内に響き渡るのと同時に、店の奥から一人の少年が駆け出してきた。
「おはようさん、美咲ちっ、三分遅刻やで! ってゆーか、はよぅ水くれ、水っ! このままやと俺様、死んでまうわっ!」
日に焼けたような浅黒い肌、子猫を思わせるつぶらな瞳は深い紫色、艶やかな黒髪は、寝癖なのかクルンと外巻きにはねている。一見するとただの少年の彼だが、実は、縁結びと五穀豊穣を司る『茄子神様』なのだという。
名前は『蒼い空』と書いて『蒼空』。
そんな蒼空は、見た目の愛らしさに似合わぬ関西弁でまくしたてると、入ってきた美咲に抱きついた。
「わわわっ、蒼空ってば、ちょっと待って、くっつかないでよ! お水ならキッチンの蛇口ひねれば出てくるじゃないの。それが嫌なら冷蔵庫に入ってるミネラル……」
「ちゃうねん! 俺様は俺様でも、外庭の方のや~。俺様、外にはまだ出られへんし!」
「あぁ、そっか……ごめん!」
美咲はすぐに蒼空が『カフェから出られない理由』を思い出して苦笑いを浮かべた。
長いこと人間から忘れ去られ、神力不足に陥っている蒼空は、自分の築いた神域……即ち、このカフェのある建物から外に出ると、消えてしまうらしいのだ。
「せやから、ごめん! やなくて、はよぅ水をっ! んでもって、アイツらをババッと追っぱらってや!」
「わかったわよ。わかったから……って、アイツらって何?」
鞄を置く暇すら与えず、蒼空は美咲の背後に回り込むと、ホールを抜けてキッチンへ。そしてキッチンの奥から庭へとつながっている勝手口の前まで彼女を押しやった。
美咲は半ば放り投げるようにして鞄を棚に置くと、すぐに、勝手口の前に置かれていた青いジョウロに水を汲み、庭に出た。
そこにあるのは、一畳半ほどの小さな畑。
一見すると普通の家庭菜園のようだが、植えられているのはトマトやキュウリといった代表的な野菜ではなく、すべてナスの苗だった。
そんな、太陽光を浴びて青々と茂るナスの苗に、蒼空の要求とおりたっぷりと水をかけてやる。
蒼空の話によると、ナスは水をたくさん与えないと、石ナスという固い実しか成らなくなってしまうのだという。
実が成ったらカフェで出す料理用にと考えているので、柔らかくておいしいナスにするための手間隙は惜しんではいけないのだ。
「ほら、たーっぷり水かけたわよ。これでもう大丈夫?」
開けっぱなしになっている勝手口を振り返り、美咲は蒼空の機嫌を窺った。
が、彼は半ば涙目になりながら、ぶんぶんと首を横に振っている。
「ちゃ、ちゃうねんて! もっと勢いよく水かけな、アイツらが葉っぱ食ってまうわ!」
「は? 勢いよく? 葉っぱ?」
そこまで言われて、美咲はようやく蒼空の焦り方がいつも水をねだってくる時とは違うことに気がついた。蒼空は何をそんなに焦って……いや、怯えているのか?
美咲は眉をひそめながら、今度はナスの苗に向き直ってしゃがみ込む。それから、雫の滴る大きな葉に顔を近づけてみて、見て――ようやく、小さな緑色の粒々が大量に動き回っているのを視認した。
「……っっっきゃぁ――――っ!」
庭に面して隣にある、朝の静かな公園にまで、美咲の悲鳴が響き渡る。
「あーもぅ、叫んどらんで、なんとかしてや美咲ちーっ!」
「そっ、それは、こっちのセリフ! 蒼空は茄子神様なんでしょ! これくらい自分で何とかできないのっ?」
「できるんやったら美咲ちに頼んどらんわボケぇっ!」
「むぅ……」
それもそうかと納得してしまった美咲だったが、虫嫌いの家庭菜園初心者、若干23歳のカフェ店長(仮)では結局どうすることもできないのだった。