♪第三章♪ 茄子色のカノン *3*
「もー、蒼空ってば、お客さんになんてことしてくれたのよ!」
店内に客がいなくなったのを見計らって、美咲はお手洗いに入るふりをして二階へ続く暖簾をくぐった。
階段に、一階には聞こえないだろう美咲のぼやき声が響く。
実は、先ほど悠馬が飲んでいたティーカップを割った犯人は、蒼空だったのだ。
悠馬と会話するきっかけを探していた美咲に「俺様に任せときや」という声が聞こえたと思った瞬間、悠馬の飲んでいたティーカップが勢いよく落下したのだ。おまけにその後、漣と悠馬の前に突然姿を現して二人を驚かせたりもして。
それでいて、美咲が文句を言おうと近づくと、逃げるように消えてしまったのだった。
二階に上がり、書庫に蒼空の姿がないのを確認した美咲は、今度は扉を開け、庭園へと足を踏み入れる。
途端、さわやかな初夏の風が美咲の白い頬に当たり、栗色の髪を揺らしていった。
「……あいかわらず、広いなぁ」
一階とは明らかに異なる空間――広すぎる庭園を見渡し、美咲は来るたびに感嘆の声をあげてしまうのだったが、ここでぼんやりしている暇はない。漣に怪しまれないうちに、一階に戻らなければならないからだ。
気を取り直した美咲は、敷き詰められた白い砂利の上、等間隔に置かれたナス形の踏み石を一歩ずつ進んでいく。やがて正面に見えてきた小池――これもナス形だ――のところを右へ曲がると、正面には立派な朱塗りの鳥居と、その脇には『賀茂茄子神社』と書かれた石柱が見えた。
美咲が一礼してから鳥居をくぐり、砂利道をさらに進んだその奥には、今にも崩れそうな小さな御社が建っている。賽銭箱も置いてあるが、その中は当然ながら空っぽだ。
お参りに来たわけでなかったが、ついでとばかりに美咲はパンパンと手を叩き、ぺこりと頭を下げていると、その背に蒼空の声がかかった。
「なんや、美咲ち、俺様の昼寝の妨害でもしに来たんか?」
御社の脇に置かれた竹の長椅子で、肘をついて横になっていた蒼空が、眠たげに目をこすりながら、不機嫌そうに言った。
その、あまりにも呑気な姿に、美咲は大仰に、いかにもわざとらしく、ため息をついてみせた。ため息をつきそうになったら深呼吸に変えろ、と言っていた蒼空への、ちょっとした嫌味だ。
しかし、蒼空はまったく気にした様子はなく、大きなあくびをしていた。
「昼寝の妨害じゃなくて、説教をしに来たのよ」
「説教? 美咲ちが俺様に?」
そんなこと無理ムリと言わんばかりに余裕の笑みを見せた蒼空に、しかし今日の美咲は引かなかった。
「そう。さっき、お客さんのティーカップ割ったの、蒼空でしょ。姿見せないで割るだけ割って、お客さん困らせて、片付けも手伝わないで昼寝してたなんて、どういうこと?」
「……あ、美咲ちがキレた」
普段大人しい人ほど怒ると怖いとはよく言うが、蒼空はこの瞬間、身をもって理解したことだろう。美咲はそれくらい、本当に怒っていたのだった。
相手がたとえ神様であろうと――もしかしたら、今の蒼空が子供の姿をしているからこんな風に考えたのかもしれなかったが――悪いことをしたら、きちんと怒ってやらなくては、と思ったのだ。
自分が振り回されるだけなら構わなかったが、お客さんにケガでもあったら、責任をとるのは美咲で、そうなったらカフェも続けられなくなるかもしれない。
蒼空との契約云々(うんぬん)以前に、そんなことになるのは避けたかった。
「キレた、じゃないでしょ。悪いことをした時は、どうするの?」
「スマン、堪忍な。まだ調子戻ってへんかったから、神力を暴走させてもうたんやけど、ホンマの俺様の力は、あんなんちゃうねんって」
「……そうなの?」
「せやから、許してや?」
頭を下げて謝る蒼空に、美咲は「わかった」と頷き、踵を返した。
が、一階に戻っていく美咲を見送っていた蒼空は、何かを企んでいる様子で、そっと口の端を吊り上げたのだった。
「俺様のホンマの力は……あんなん、ちゃうねんでぇ」




