♪第三章♪ 茄子色のカノン *2*
「僕のブログを見て下さったんですか……」
割れたカップを片付け終えた美咲は、悠馬がピアノを弾くことを知るに至った経緯を、一から話して聞かせた。
カウンター席に移った悠馬の目の前には、新たに淹れ直してくれたアッサムティーが、ミルクと混ざった甘い香りを立ち上らせている。
「もしかしてそれで、店内の音楽も変えたんですか?」
ブログ記事の最後に悠馬がいつも書くようにしている、BGMのタイトル。
カフェの紹介をした日に書きながら聞いていた曲はまさに、今、店内を流れている曲と同じアルバムに収録されているものだったのだ。
「ええ、もともと私も『サウスウィンド』の大ファンだったんで……」
「そうだったんですか! 僕、周りにファン仲間とかいなかったんで、なんか嬉しいです」
美咲の方も、久しく誰かと好きな音楽について話す機会がなかったので、互いに、同志を見つけた小さな喜びを感じ合った。
「じゃあ、去年いきなり休業宣言した時って、やっぱビックリしましたよね」
サウスウィンドというグループは十年前に結成されて以来、常に人気の頂点を突っ走ってきていたのだが、去年いきなり休業宣言をしてしまったのだった。
そうそう、と美咲は頷き返す。
「あ、でも、10周年ライブのラストで一年後に戻ってくるって言ってたから……今年の秋が楽しみだったりもしますよね」
「ライブって……まさかアイルランドまで行ったんですかっ!?」
「いや、さすがにそれは、DVDで観て……って、漣さん?」
好きなアーティストの話題に盛り上がりかけた瞬間、美咲は漣に袖を引っ張られた。
「客、来てるぞ」
なぜか不機嫌そうにそう言った漣に、美咲は苦笑した。話に夢中になるあまり、お客さんが入ってきていたことに気付かなかったらしい。
「やだ、私ってば……。いらっしゃいませー」
ドアの前には物静かで上品そうな、和装姿の老婦人が、美咲のぞんざいにも思える態度にわずかに眉をひそめていた。
接客する美咲の見えないところでは、彼が代わりに接客しておけばいいのに、と思った悠馬と、その視線に気付いた漣が、小さな火花を散らしていた。
「ども、話が盛り上がってたとこ邪魔したみたいで、すいませんね」
まったくすいませんとは思っていなさそうな漣の表情に、悠馬は「いえ」と首を振る。
漣から美咲への想いに、悠馬は男としてピンときて、曖昧な笑みを浮かべ返す。
「ところでお客さん、何でいつも同じセットしか注文しないんすか?」
毎日同じものしか注文しないのは、さすがに失礼だっただろうか、と悠馬は気まずいものを感じて、苦笑いを浮かべる。
「ナス好きなのに、ジャムだけでいいんすか?」
美咲同様、悠馬のブログ記事を読んだ漣が反応したのは、『ナス好き』という点だった。
「実はその……大変言いづらいことなんですが……」
悠馬が口を開きかけた時、その耳に突然、聞き慣れない関西弁が飛び込んできた。
「値段が高くて手が出せへんのやろ?」
いつの間にかカウンターの左端の席に座っていた少年に、悠馬と、そして漣も驚いて目を見開いた。漣も悠馬に気をとられていたので、気付かなかったらしい。
しかし、驚いた二人など微塵も気にした様子はなく、少年は紫色のグラスを挨拶代わりに掲げてみせた。
「えーと……キミは……」
「あぁ、俺様の名前は蒼空っていうねん。よろしゅうな!」
「あ、はい、よろしく……おねがいします」
何で敬語になってるのかわからなかったが、悠馬がとっさにそう返事をすると、蒼空はニッと白い歯を見せて満足げに笑った。
「でさ、さっきの話に戻るんだけど、ここの価格設定って高いか?」
蒼空のことを疑わしげに一瞥した漣だったが、すぐに気を取り直して、悠馬に尋ねた。
ちなみに、アフタヌーンティーセットは500円で、このカフェの飲食メニューの中では一番安い値段設定だ。しかし、他のメニュー……例えば、日替わりのスイーツは平均で400円だし、蒼空が今ちょうど飲んでいるようなソフトドリンクは350円と、カフェにしては、たぶんそんなに高くはないのだろう。
問題は、さっき蒼空が言ったように、悠馬の薄っぺらなお財布の方なのだった。
「実は僕、向こうに見えてる楽器店でバイトしてて、その昼休みにいつもココ来てるんですけど……」
悠馬は振り返って窓の外、通りを挟んで斜め向かいにある楽器店を指さした。
「おー、あそこの店員だったのか」
「はい。で、ナスは大好きなんで、本当はナスを使ったメニューとか、色々食べてみたいとは思ってるんですけど……」
値段が高くて手が出せない――という、先ほどの蒼空の言葉につながる。
「でも、アフタヌーンセットなら、飲み物と食べ物合わせてこの値段なので……」
「そんなに余裕ないなら、自分でナス買ってきて料理すりゃいいじゃん」
店員がそんなことを言っていいのだろうか、と悠馬は苦笑しつつ、その提案をあっさりと却下した。
一人暮らしを始めたばかりの頃、料理はすでに挑戦済みで、そして幾度となく失敗して自分のセンスのなさに落ち込んだのだった。ちゃんとレシピどおりに作ってみても、ナスが油っぽくなったり、思ったような味付けにならなくて、あまりおいしくできなかったのだ。そしてついには、好きなナスをわざわざ不味いものに変えてしまうくらいなら、作らないほうが自分とナスのためになる、という答えに到達した。
「……なるほどなぁ」
経緯を聞いた漣は納得した様子で、何やら真面目に考え込み始める。
そうかと思えば、今度はカフェの窓ガラス越しに見える、ナスを育てている小さな菜園に視線を流し、フッと笑みを漏らした。
漣は今ひらめいたばかりの案に、目の前の彼を巻き込む気満々らしい。
「キミさぁ、ナスって育てたことある?」
「……? 去年は育ててましたけど、大変だったので今年はやめました」
ナス好きとして一度は経験しておこうと思った程度だったので、去年たくさん収穫した時点でもう満足してしまい、今年は面倒くささが勝って育てていなかった。
「んじゃあ、味覚に自信は?」
漣の唐突な質問に、悠馬はしばし戸惑いながらも「まぁ、それなりに」と答えた。
実は小さい頃からちゃんとカツオ節と昆布でとったダシの味で育ったので、少しは胸を張れるかもしれない。このカフェに通うようになった当初、紅茶を片っ端から飲み比べて味の違いも覚えたし。
漣の問いの意味は掴めなかったが、彼は「よしっ」とつぶやくと、
「なら、ちょっと協力して欲しいことがあるんすけど……週末はバイトある?」
「今週の日曜なら今のところ暇ですけど」
「ってーと、17日か。じゃあ、その日、空けといてくれるか?」
「わ、わかりました」
詳しいことは当日話すからと言われ、とにかく今度の週末、17日にカフェへ来ることだけを悠馬は約束させられた。
何をする気なのだろう……と考えていた悠馬は何気なく視界に飛び込んできた掛け時計を見て、勢いよく立ち上がった。
「14時25分っ!?」
休憩時間が終わる数分前だということに気づき、慌てて会計を済ませると、
「兄ちゃん、さっきは悪かったなー。また来てや!」
まるで店員のような蒼空の口ぶりでパタパタと手を振る蒼空の姿に、
(謝られること、何かされたっけ?)
首を傾げつつ、悠馬はカフェを飛び出していった。




