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第九章  混迷


 豹変した千草を目の当たりにした壮介は、混乱と恐怖により狼ヶ浜から不恰好な形で逃げるように走り去った。途中、何度も足がもつれて転びながらも、必死に暗がりの道を駆け抜ける。そしてようやく港前の整備された道まで辿り着くと、壮介は全身の力が抜け切ってしまったかのように、その場にへたり込んでしまった。

「はあ、はあ、はあ……」

 壮介は呆然としていた。その姿は、先程自分の身に起こったことを、一つ一つ思い出しているように見える。

 壮介は自分の身体に砂がついていることに気付き、パッパッと手で振り払う。

 そして、自分の頬についた傷に触れ、確信する。

 これ夢じゃないと……。

「あああっ!」

 壮介はまだ混乱している様子。奇声を上げ、頭をグシャグシャと掻き毟った。

 その時、壮介の前に一筋の明かりが灯った。それに気付いた壮介は瞬時に立ち上がり身構える。

 その明かりは壮介の方へ向かって近付いてくる。それに気付いた瞬間、壮介の表情は一気に強張った。目は見開き、額からは脂汗がいくつも流れ落ちる。鼓動が早くなり緊張が高まる。

「誰? そこにいるの!」

 前方の光から発せられたのは女性の声であった。しかし次の瞬間、強張っていた壮介の表情が緩み、再びその場にへたり込んだ。額からの汗は止まらないが、壮介の緊張は解けたようである。

 壮介はその声の主を知っていた。

 光は壮介の方へと近付いてきて、その光は女性の持つ懐中電灯であることを、壮介は認識する。

「新谷さん? 新谷さんですか?」

 道の真ん中でへたり込んでいるのが壮介であることに気付いた女性は、慌てて壮介の元へ駆け寄ってきた。

「き、喜美恵さん?」

「どうしたんですか、こんなところで?」

 駆け寄ってきた女性は、千草の母喜美恵だった。喜美恵はこんな所でへたり込んでいる壮介を不審に思いながらも、只ならぬ様子であることは理解した様子で、壮介に手を差し伸べた。

「何かあったのですか?」

 喜美恵の問いに、壮介は困惑した。

 言ってもいいのか、浜での出来事を、あの千草のことを、と……。しかも今目の前にいるのは千草の母喜美恵。壮介が躊躇うのも無理はなかった。

 しかしだからと言って、何もなかったということも無理がある。何せ、道路にへたり込み、全身砂だらけで顔は汗ダラダラなのだから。

「…………」

 壮介は頭をポリポリと掻くものの、しばらく黙ったまま……。その姿を見て喜美恵はますます不審がった。

「い、いやあ……別に大したことじゃないんですよ……」

 しかしこのまま黙っていてはまずいと判断した壮介は、とにかくできる限りの笑顔を浮かべ、そして言葉を搾り出す。

「そ、そうなんですか?」

 壮介のやっと搾り出した言葉に、喜美恵は顔をしかめる。喜美恵の目に今の壮介の姿は、どうみても「大したことではない」ように見えないからだ。

 その喜美恵の表情の変化を見た壮介は、発言のまずさに気付き思わず頭を掻いた。

「え、い、いやあ……」

 壮介は何か言わないといけない。ここで黙ってしまっては、さらに不審がられてしまう。

「ちょ、ちょっと……道に迷ってしまって……」

 壮介の言葉に、喜美恵は再び顔をしかめるが、ここで黙ってしまってはまずいと、壮介は言葉を連ねていく。

 そして壮介は喜美恵にこう説明した。

 自分は加美家に呼ばれ、診療所から向かう途中、道を間違ってしまった。最初はすぐにあの石段に辿り着くだろうと楽観していたが、だんだん暗くなるにつれて今自分がどこにいるのか全く判らなくなってしまい、そして妙な獣道のような所に迷い込んでしまった。外灯もない暗闇の中、島に伝わる狼伝説を思い出してしまい、半ばパニックに陥り必死に道なき道を駆け回った。そして何とかここまで辿り着いたのだ……と。

 それを聞いた喜美恵は、釈然としない様子ではあったが、大神島は夜になると、港以外は暗闇に包まれることも事実であり島の人間でも恐怖を感じることがある。だから喜美恵はそれ以上の追求はしなかった。

「立てますか?」

 喜美恵は壮介に再び手を差し伸べる。

「あ、いや、大丈夫です」

 何とか切り抜けることができた壮介は、安堵感から笑顔を浮かべる。そして一度頭をポリポリ掻いた後、スクッと立ち上がった。

「加美さんの所へ行かれるんでしたよね? そう言えば千絵子ちゃんが探していましたよ」

 壮介は加美家の去り際、千絵子に一旦診療所へ戻ってから来ると伝えている。加美家から診療所まで石段を往復で三十分程。それがもうあれから二時間以上経過していた。加美家の二人は心配でやきもきしていることであろう。

「ああ、そうですね。僕はこれから加美家へ向かいます。では、僕はこれで……」

 急に加美家のことが心配になった壮介は、喜美恵に一礼をしてその場を後にしようとする。

「あの……」

 しかし壮介は喜美恵に呼び止められる。その瞬間、壮介の心臓は胸から飛び出してしまうくらいに跳ね上がった。

「あの……、千草、知りませんか?」

 壮介の心臓は数えるのも追いつかないくらい、高速で鼓動を刻んでいる。しかし壮介はそんな動揺を悟られぬよう、喜美恵の方へ振り返る。

「千草さんが、どうかしたのですか?」

 喜美恵は不安気な表情を浮かべる。

「ええ、実はお昼に出てってから、あの娘戻ってこないんです。いつもなら夕方頃には必ず戻ってくるのに」

 壮介は汗を拭う。もう何が原因で出てきた汗か判らなくなってきていた。

「そうなんですか……。確かに変ですね。あんな働き者の千草さんが、旅館の仕事を放っぽりだすなんて」

 壮介は普段どおり答えているが、内心かなり言葉を選んでいる。

 そして答えていいのか迷っていた。

 触れてしまっていいのか迷っていた。

 狼ヶ浜で見た、千草のことを……。

「すいません、僕も会ってないです。というか、ぶっちゃけそれどころじゃなかったので……」

 結局壮介は、狼ヶ浜での一件を、喜美恵には伝えなかった。

 本来なら、娘の身を案ずる母のために、伝えるべきことのなのであろう。しかし今の壮介には、そこまでの心的余裕はなかった。

 早くこの場を離れたい。その一心だった。

「そうですか……」

 壮介の返事を聞いた喜美恵は、落胆の表情。こんな暗闇の中、一人で娘を探しているのだ。それだけでも不安であるのに、今朝この島で殺人事件が起こっている。それにより喜美恵の不安に拍車がかかる。

「私はもう少し探してみます。新谷さんもお気をつけて」

「すみません、お力になれなくて……。もし見かけたらお知らせします」

 喜美恵は壮介に一礼をして、港の方へと歩いていった。

 そして壮介も、加美家へ向かうため石段へと歩いていった。



「この馬鹿っ!」

 石段を駆け上がり、やっとの思いで加美家に辿り着いた壮介を待っていたのは、千絵子のビンタであった。

 あの時、壮介は一旦診療所へ戻ると言って、加美家を後にした。普通なら三十分程で往復してこれそうな道。壮介の帰りに合わせるため、加美家では慌しく夕食の準備が始まる。

 しかし三十分経過どころか一時間経っても、壮介が戻ってくることはなかった。

 不審に思った遥は診療所へ電話する。診察に追われていた喜志ではあったが、壮介が一時間ほど前に顔を出していたことを遥に伝えた。

 壮介は確かに診療所に戻り、そして加美家に行くと喜志に告げている。しかしそれからの足取りがぷっつりと途切れてしまった。

 喜志と話す遥の顔色が、次第に青ざめていく……。そして受話器を置いた頃、両目には涙が溜まっていた。

 普通なら、どこかで道草喰ってんのかくらいにしか思わないこと……。

 しかし今の大神島は普通ではない。

 今朝、この島で新居志都美が惨殺されたのだ。

 喜志の答えに、どうしようもないくらいの不安に襲われた加美姉妹。もしかして壮介の身に何かあったのではということが頭をよぎる。

 そして不安のあまり泣き出す遥を見て、千絵子は壮介を探しに外へ出た。

 神社、港、商店、ホテル等、島中を駆けずり回ったが、結局壮介を見つけることができなかった。

 そして肩を落として加美家に帰ってきて、屋敷の中へ入ろうとしていたまさにその時、壮介は帰ってきた。

 ビンタされた壮介は、何も言わなかった。というより、何も言えなかった。

 このビンタの意味が、身に染みているからだ。

 今朝殺人事件があったばかりで、犯人も捕まっていない。そんな中壮介は、不本意とはいえ加美姉妹の前から姿を消してしまった。千絵子の怒りも当然なのだ。

「ごめん……」

 壮介はただ、そう言うしかなかった。

「あっ、新谷さん!」

 人の気配に気付いたのか、遥がやってきた。そして壮介の姿を確認すると、涙に濡れた笑顔で壮介の元へ駆け寄ってくる。

「よかった……」

 遥は安堵の表情を浮かべているが、瞳からは涙がポロポロと零れ落ちる。それが今までどれ程までに壮介の身を案じていたかを物語っていた。

「さあ、どうぞ。夕飯にしましょう」

 遥は涙を拭きながら、壮介を屋敷の中へと促した。

 とても、とても暖かく……。


「どうぞ、遠慮なく召し上がってください」

 居間のテーブルには料理が所狭しに並べられていた。二人が壮介のために作った料理。しかし作られてからもう大分時間が経過してしまったこともあり、やや冷えたものとなっていた。

「私と遥が心を込めて作ったんだ。残したら只じゃおかないよ!」

 千絵子はまだ少し不機嫌な様子だったが、壮介の前に箸とコップを置いた。

「あ……はい」

「ったく、もう心配かけんじゃないよ!」

 千絵子はそう言うと、壮介の頭をポンとはたいた。

 そして三人は、遅い夕食をとりはじめた。

 最初はまだ先程の緊張感が残っており、言葉少なではあったが、徐々に三人の表情も柔らかくなっていく。

 そして三人は談笑しながら食事を終える。

 片付けが終わった頃、千絵子が壮介の元へとやってきた。

「今晩泊まっていかないか?」

 そろそろお暇しようと考えていた壮介は、予想外の言葉に目を丸くする。何せここは姉妹二人しかいない。そこに男が泊まろうというのは、壮介にはやや抵抗があった。

「いやね、遥がさ……」

 千絵子は頭を掻きながら話す。これは千絵子にとっても不本意なことなのだろう。しかし遥の様子が千絵子に決断させた。

「遥がさ、こんな真夜中に島を歩かせるのは不安だから、泊まってってもらおうって言うもんだからさ。私は別にどっちでもいいんだけれど、やっぱりまだ不安なんだよ……」

 壮介は悩んでいた。

 別に泊まっていくのは悪いことではない。折角言ってくれているのだから、断るのは悪い。

 しかし壮介にはそれを躊躇わせる理由がある。

 カノジョの存在だ。

 首を縦に振ろうとすると、フッとカノジョの顔が頭をよぎるのだ。

 悩みに悩み、頭をボリボリ掻いていると。

「…………」

 襖の陰からこちらを見つめている遥の視線に気付く。

 その瞳はとても不安げなもの……。

 この瞳に壮介は遂に折れることになった。

「明日の朝までお世話になります」

 結局、壮介は畳に三つ指つく格好となり、加美家で一晩過ごすこととなった。


 翌朝、六時頃に壮介は目覚めた。

 壮介はまだ眠っていたい様子であったが、トイレに行きたくなったため、仕方なく布団から這い出した。

 壮介がいるのは加美家の客間。いつ使用されるか判らない部屋ではあるが、綺麗に掃除されている。布団も今朝干したかのような感じだ。

 トイレに行った壮介は、ついでに顔を洗うため洗面台の前に立つ。そして鏡に映る自分の顔を見つめた。

「何か、猫のヒゲみたいになっちゃったな」

 鏡に映る自分の顔を見た壮介は、そう呟き頬をさする。

 壮介の頬には絆創膏が左右二枚ずつ貼られていた。

 この頬の傷、昨晩狼ヶ浜で千草につけられたもの。壮介は寝る前に一応の消毒を行い、一晩だけ絆創膏を貼っていたのだ。

「もう大丈夫だろ」

 壮介は絆創膏を剥がす。ペリペリと音をたてて剥がれていく。

 傷跡は残っているが、出血はしていない。壮介は剥がした絆創膏をズボンのポケットにおさめ、洗面所を後にした。

 そして客間へ戻ろうとした、その時だった……。

「ああ、おはようございます」

 客間の前に、遥が立っていた。その姿を見つけた壮介は笑顔で挨拶をする。

「…………」

 しかし遥は無反応。というか表情がなかった。

 その遥の様子を不審に感じた壮介は、遥の元へ駆け寄る。

「どうしたんですか?」

 すると遥は無言で玄関の方……いや外を指差す。

 そして唇を震わせながら、壮介にこう告げた。

「ち、ち、千草ちゃんが、ちぐさちゃんが……、し、し、死んじゃったよ……」



 早朝の港。

 普段は人がまばらな時間帯であるが、この日の朝は騒然としていた。

 港周辺には制服警官がひっきりなしに往来し、また野次馬もどこからか溢れ出してくる。

 また昨日の事件を受け、TV局や新聞社の記者も数多く見られた。

 そんな人々は、ある場所を中心にドーナツのような形となって、どんどん膨らんでいった。

 そして人だかりの中心にあるもの、それは渡船の待合所であった。

 この待合所。古びたプレハブ小屋で、外見も中身もかなり寂れたもの。壁は所々錆び付き、屋根には蜘蛛の巣が張っている。

 しかし待合所の中は凄まじい状況となっていた。

 壁や床にはおびただしい血飛沫が飛び、中には天井まで届いているものもあった。

 そしてそんな待合所の一角……。

 まるで地の底から湧き出してきたような血溜まりができており、その真ん中にブルーシートを被せられた「何か」があった。

 ブルーシートの端から人間の手がはみ出している。

 その手は肌色ではなく、真っ赤に染まっていた……。

「…………」

 血溜まりの傍ら、捜査主任の歌藤が口元に手をあて、厳しい表情でブルーシートを見下ろしている。

 歌藤は勿論、このブルーシートを被せられた「何か」を直に見ている。この待合所の惨状を見れば、このブルーシートの下にある「何か」がどのようなものなのか想像に難くない。そして実際にそれを見た歌藤は、まさに絶句していた。

「主任……」

 捜査員の長渡が待合所へ入ってきた。しかし絶句する歌藤の姿を見て、彼が言おうとしていたことを躊躇わずにはいられなかった。

「長渡……」

 しばしの沈黙の後、口を開いたのは歌藤の方だった。

「被害者の身元は?」

 そして長渡は胸ポケットから手帳を取り出す。

「か、川住千草、十八歳……。島にある旅館の主人、川住清太の長女です」


 第一発見者は渡船の船頭だった。

 朝、渡船の準備をするため港へとやってきた船頭は、待合所の前を通り、船へと向かう。

 その時、いつもは開いたままになっている待合所の引き戸が、今日に限って閉まっていることに気付く。不審に感じた船頭は、船には向かわず待合所へと入った。

 そしてそこには……、というわけである。

「長渡……、状況を説明しろ」

 長渡に指示を出す歌藤だが、口元を押さえたままだ。

「はい……。被害者の状況は、昨日の新居志都美とほぼ同じ。全身を鋭利な刃物でズタズタにされています。しかし死因は失血死ではなく、おそらく頸部圧迫による窒息死。昨日の新居志都美と同じく、首を絞められたような跡があります」

「つまり……、犯人は首を絞めて殺した後、全身を切り刻んだというわけか」

 歌藤の言葉に長渡は頷く。

「ただ、昨日の新居志都美殺害とは一つ異なる点があります」

「異なる点?」

「はい……。被害者の後頭部に、何かで殴られたような打撲痕があるんです。傷痕の状況から考えて、殺害直前につけられたもののようです」

 つまりこういうことになる。

 犯人は千草の背後から、鈍器で後頭部を殴打。それにより怯んだ千草の首を絞めて殺害。そして鋭利な刃物で全身を切り刻んだ……。

 想像しただけでも、背筋の凍る所業である。

「死亡推定時刻は?」

 その質問に対し、長渡は一旦外へ出て、鑑識員と思われる人物と二言三言交わした後、歌藤の元へ戻ってきた。

「具体的な時間はまだ判りませんが、鑑識の話によると、昨晩午後十一時から今日の午前三時にかけての間と思われます」

 歌藤は長渡の返答に、口は開かず頷くのみ。その表情は非常に険しいもの……。

 その表情は何を物語っているのか?

 あまりの惨状を目の当たりにしたためか。

 それとも自分がいながら、第二の殺人を起こさせてしまったことへの言い様のない悔しさか……。



「失礼します!」

 現場検証をしている歌藤らの元へ、一人の制服警官がやってきた。

 そしてその後ろには……。

「千草……、ちぐさ……」

 千草の両親である、清太と喜美恵がいた。

 喜美恵は両目を真っ赤に腫らして今にも崩れ落ちそうな体勢となり、それを清太が必死に支えている。

 その姿を見つけた歌藤は立ち上がり、入り口のほうへ向かう。

「捜査主任の歌藤です」

 歌藤は川住夫妻に警察手帳を提示。そして夫妻を中へと入れた。

「身元に関しては所持していた物から確認させてもらいました。が、一応ご両親の方からもご確認をお願いします」

 そして歌藤は川住夫妻をブルーシート横へと促した。と言っても、飛び散った血は未だ処理されていないため、遺体の損傷があまりにも激しいため、やや距離を取ってからの確認となる。

「では、お願いします」

 歌藤はブルーシートの端を持ち、そっと捲り上げる。

「ああっ!」

 そこには青白い顔をして眼を閉じる一人の少女。

 トレードマークの眼鏡はしていないが、それは人目で千草だと判別できた。

 歌藤はブルーシートを丁度千草の顎の部分まで捲り上げている。

 これ以上はあまりに無残で、とても見せられないからだ……。

「ああっ! 千草! ちぐさ! ああああぁっ!」

 千草の変わり果てた表情を見た瞬間、喜美恵はその場に崩れ落ちた。そして地面を引っ掻き、大声で泣き叫んだ。

「千草ぁ……」

 そして父の清太も目から大粒の涙を流す。その表情には父としての無念さが、これ以上ないくらい滲み出ていた。

「誰が、誰がこんな惨いことを……」

 そしてとうとう清太もその場に崩れ落ちる。

「…………」

 その両親の悲しむ姿、歌藤はただ黙って見続けるしかなかった……。


「ではこちらへ……」

 川住夫妻は制服警官に抱えられ、待合所を後にする。清太はそれほどでもなかったが、喜美恵は両脇を抱えられないと、今にも地面に崩れ落ちるという様子であった。

 その二人の後ろには長渡が続く。そして待合所の近くにある民家の倉庫へと移動。警察が捜査のため家主から一時的に借りたものである。

「では……、いくつかお聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」

 長渡は歌藤に比べてまだまだ若い。二人は一人娘の変わり果てた姿を見た後、大丈夫なわけがない。

 喜美恵は相変わらずだったが、清太はやや落ち着きを取り戻した様子で、長渡の問いかけに浅く頷いた。

「まず千草さんですが、何時頃ご自宅を出られたのですか?」

 その問いに、清太はしばらく考え込む。

「さあ、私は漁の仕事をしていたので、出る前に姿を見かけてからは……。お前はどうなんだ?」

 清太は喜美恵に話を振るが、やはり泣き続けるだけで、清太の声が届いていることすらも怪しかった。

「おい、しっかりせえ!」

 清太は泣き続ける喜美恵の肩を、ブンブンと揺らす。清太の瞳にも光るものがあった。

「……、私も、朝食の、準備から、姿を……見て、ない……です。ああ、千草……ああぁっ!」

 喜美恵はやっとの思いで言葉を紡ぐ。しかし言い終わると再び泣き崩れた。

「朝食の準備というのは、大体何時頃までですか?」

「今朝は釣り客がおらんかったからな、片付けも入れて大体八時半頃には終わる」

 長渡は喜美恵に向けて訊ねたが、代わって清太が答える。

「それまでは旅館にいたんですね?」

 この長渡の問い、漁に出ていた清太は判らない。清太は再び喜美恵の肩を揺する。

 涙で声にならない喜美恵、しかし首を何度も縦に振り、長渡の問いに答えた。

「判りました。千草さんに最近変わったことは?」

 清太はしばらく考え込んだ後、首を振った。

「そうですか……」

 両親の回答に長渡は顔をしかめる。

「では……」

「あの……」

 引き続き質問を続けようとする長渡に、清太が声をかぶせてきた。

「家内がこんな状態なんで……しばらく間、おかせてもらえんでしょうか?」

 清太は千草を失い、未だ泣き続ける喜美恵の肩を抱える。

 清太の訴えは切実であった。娘を失ったことは清太も辛い。清太だって喜美恵のようにその場に泣き崩れそうな思い。もう二人の精神力は限界に達していた。

 長渡はしばらく考え込んだ後、一度大きく頷いた。

「判った。それではまた日時を改めて……。今日はご協力ありがとうございました」

 長渡は立ち上がり、夫妻に礼をして倉庫から出て行った。

 そして清太は悲しみに暮れる喜美恵の肩を抱き、倉庫を後にした。



 長渡が港へ戻ってきて、待合所の遺体の運び出しとなった。

 遺体は今回も一旦診療所へ安置されることとなる。これで診療所には遺体が二体安置されることとなるが、新居志都美の遺体は午前中に県警の方へ移送されることになる。

 遺体が運び出されようとすると、待合所周辺は騒然となる。捜査員に記者とTVカメラ、そして野次馬が押しかけてくる。それらを制服警官が必死に制止する。その間に鑑識員と捜査員の手により、遺体を運び出していった。

 そんな騒然となった群集の一番後ろに壮介と千絵子、そして喜志の姿があった。

「これから……どうなるんだろう?」

 壮介がポツリと呟く。それに対する答えは、どちらからも返ってこない。千絵子も喜志も、壮介と同じ思いなのだろう。

 壮介は頭を掻き毟る。もう何が何だが判らないという様子。

 警察から正式な発表はまだだったが、待合所で惨殺されていたのは千草であるということは既に広まっている。

 おそらく、千草は狼ヶ浜での壮介とのやり取りの後、何者かに殺された。つまり壮介は千草が犯人と接触する前に出会った、最後の人物かもしれないということ。

 あの時のことを、壮介はまだ誰にも話していない。それは千草の様子があまりにも異様だったため、誰かに伝えることをずっと躊躇っていたからである。

 話せば、また自分が犯人ではないかと疑われるであろう。しかし話さなければ、自分はズブズブとこの深淵にはまっていくことになる。

 言おうか言わまいか……。双方の気持ちが、壮介の中でせめぎ合っていた。

「来るぞ。場所を変えよう」

 喜志が壮介の腕を引っ張る。遺体を運ぶ捜査員たちが壮介たちのいる方向へと進んできていた。

「ほら! 道あけて!」

 周りを取り囲む記者や野次馬たちへ向かい、警官の怒号が飛ぶ。

 しかしそんな中、一人その場を動かない男がいた。

「ほらどいてどいて!」

 その男は捜査員一行が前方に出てきたのにもかかわらず、一歩たりとも動かない。男はまるで通せんぼをしている状態だった。

「あ、あれは、瀬川さんじゃ……」

 その男に壮介は見覚えがあった。捜査員たちの前に立っている、その男は瀬川だった。

「何じゃアンタは?」

 後方に控えていた歌藤がやってきた。そして歌藤はすぐ瀬川の異変に気付く。

「おい、お前!」

 瀬川は顔を伏せた状態で立っているため、その表情を窺い知ることはできない。しかし歌藤の視線は顔ではなく右手に注がれていた。

 瀬川の右手には朝日を反射し、眩しい光を放つモノ……、分厚い出刃包丁が握られていた。

 その包丁の存在に気付いた捜査員たちの間に、一気に緊張が走る。先頭には歌藤、そして異変に気付き駆け寄ってきた長渡が立つ。

「千草……、千草……」

 瀬川は顔をあげることなく、ただ千草の名を呟く。

 そして足元に雫がポタッ、ポタッと夕立の雨粒のように堕ちていく。

「アンタ川住千草の知り合いか? 悲しいのは判るがちょっとどいてくれんか?」

 長渡がそう言いながら瀬川に近付いた。

 その時、

「うわっ!」

 突如瀬川が手に持った包丁を振り上げた。突然の行動に、長渡は驚き後ずさりをする。

 右手に包丁を天高く掲げ、そして瀬川はゆっくり顔を上げる。

 その時、瀬川は哂っていた……。

「いかん!」

 何かを感じ取った歌藤が、瀬川を取り押さえようと前に出ようとした、その時!

「ちぐさぁーっ!」

 瀬川は天に向かって、絶叫したと同時に、自らの腹に包丁を振り下ろした。

 現場は、先程とは違う意味で、騒然となった……。

「医者、医者を呼べっ!」

 歌藤と長渡は一瞬にしてできた血溜まりの中に倒れる瀬川を囲み、興奮した様子で警官に指示を飛ばす。彼らも大量の返り血を浴び、ワイシャツは真っ赤に染まっていた。

 瀬川の返り血は勢いよく回りに飛び散り、野次馬たちをさらに騒然とさせる。

 そしてそんな返り血の一滴が壮介の頬にかかった。

 壮介は瀬川に釘付けとなり、一歩も動けなくなっていた。

 そして……、

「うわああぁーっ!」

 壮介も天に向かい絶叫。

 壮介の視線の先にある真夏の太陽は、さっきまでとは打って変わり、分厚い雲に覆われようとしていた……。


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