第七章 姉妹の想い
一
真夏の太陽が、西の海へと傾き始めた頃、
島の南側にある小さな砂浜(といっても全く整備されておらず、ゴミや流木が散乱している)に一人の少女が佇んでいた。
その少女は長い黒髪を海風でなびかせ、ただただ海の向こうを見つめている。
表情はどう表現していいか判らない。ただ、少なくともほころんでいる様には見えない。何か、とても厄介なことを思案しているようにも見えた。
ジャリ……
女性が一歩前に出ると、小石の混ざった砂浜が音を立てる。一歩、また一歩と波打ち際に向かって歩を進める。
そして足元に波がかかるくらいまで来たところで、少女は足を止めた。
ジャリ……
少女の後方で、砂浜を踏みしめる音が聞こえる。しかし少女は振り向かない。今までと同じように、海を見つめている。
ジャリ…… ジャリ……
砂浜を踏みしめる音は、次第に少女の元へと近づいていく。そして少女の真後ろまで来たところで、その音は止んだ。
「こんな所で、何をしているんだい?」
足音の主は一人の男性。男は海を見つめ続ける少女に、優しい口調で声をかけた。
それに対し、少女は何も聞こえなかったかのようにまるで無反応。振り返ることも、返答することもない。
「ふふ……、君がこの砂浜に来るのは久し振りじゃないかな? よくよく考えたら、君と初めて出会ったのも、この砂浜だったね」
男は少女の背中に向かい、ペラペラとしゃべり始めた。まるで恋人に自慢話をするかのように……。
「あの時の君も、こんな感じだったね。一見したら寂しそうな雰囲気だけれど、近寄ってみたら火傷しそうなくらい熱く煮えたぎっている」
男は話し続けるが、女性は全く反応しない。
ジャリ……
男は歩を進め、そして少女の横に並んだ。少女は視線を送ることもなく、正面を向いたままだ。
「噂……聞いたよ」
今まで柔らかな口調で話していた男のトーンが、一気に低くなった。
「聞いた時、僕も嘘じゃないかって思ったんだ。そんな筈はないと。でも、もしかしたら本当の話なんじゃないかって……」
ジャリ……
すると今まで無言で海を見つめていた少女の踵が返った。少女は海と反対方向を向き、視線は足元へ落ちていた。
「勿論、君の話を疑っているわけじゃない。ただ、今回の一件……、どうも一筋縄じゃいかないような気がするんだ」
「…………」
すると少女は男の方を向いた。少女の表情に喜怒哀楽はない。ただ口を真一文字に結び、男の瞳に喰い入っていた。
そして、
男は少女を抱きしめた。
男は少女の耳元で何かを呟いた。何度も何度も……。
しかし、
「あ……」
少女はそれを拒否するかのように、男の胸から飛び出した。
そしてもう男の方へ振り向くことはなく、砂浜を去っていった。
独り残された男は、その後姿を追うことはなく、ただただ少女の影がみえなくなるまで見つめていた。
風にたなびく、長い黒髪を……。
二
「お邪魔しまーす」
カバンを抱えた壮介は診療所の二階へと上がっていった。
「ここじゃて、好きに使ってくれてええ」
喜志は二階の一室へと壮介を通した。四畳半のその部屋には家具類は全く置かれておらず、長い間使われていない様子。中へと通された壮介は、部屋の真ん中にカバンを置いた。
壮介が診療所の二階へとやってきたのには訳があった。
壮介がこの島へとやってきた目的は、祭の風景を写真におさめることである。それが終わった壮介はこの日の朝に島を離れる予定であった。
しかしこの夏二度目となる殺人事件遭遇。しかも第一発見者である壮介を、警察は簡単に帰す筈がない。主任である歌籐は事件解決の目途がつくまで島に残るよう、壮介に指示してきたのだ。
しかし壮介は祭が終わればさっさと帰るつもりにしていたため、余分なお金を持ってきていなかったのである。つまりそれは川住旅館の追加支払いができないということ。主人である清太はタダで泊めるわけにはいかないと、壮介の滞在を拒否。事情を知っている喜美恵が壮介を弁護するも、結局聞き入れられることはなかった。
途方にくれた壮介であったが、ここで喜志が救いの手を差し伸べ、診療所の二階にある空き部屋を、壮介は無償で借りられることになったのである。
「本当にありがとうございます。危うく駐在所の檻に逆戻りするところでした」
壮介は苦笑いを浮かべながら、何度も貴志に頭を下げた。
事実、壮介の滞在場所がどうしても決まらない場合、捜査本部が壮介の寝床を考えることとなっており、あの駐在所の檻も選択肢の一つであった。
「で、新谷さんはこれからどうするんじゃ? ずっとここで縮こまってるわけにもいかんじゃて」
「そうですね。取り合えずは島を色々探検してみようと思います。島から出ない限り、外を出歩くのは勝手ですからね」
壮介が警察から指示を受けているのは「事件にケリがつくまで島から出ないこと」。つまり考えようによっては、島を出ない限りはどう行動しても自由というわけである。それを聞いた喜志は思わず笑みをこぼした。
「まあ勿論、危ない橋を渡るようなことはしませんよ。もう檻の中へ入れられるのはまっぴらですから」
「確かに。何せあの駐在所は古いからの」
喜志は何か含みを持たせ、豪快に笑った。それにつられ壮介も思わず笑ってしまった。
そして部屋に荷物を置いた壮介は、一階へと降り診療所を出た。喜志はこれから午後の診療ということで、壮介一人で出かけることとなった。
まず壮介は遺体発見現場である倉庫へと行ってみることにした。
現場は今も規制線が張られ、倉庫の入り口の前には制服警官が二人直立不動である。一般人である壮介はどうにも中へは入れそうにない。そして今も現場検証が行われているのだろう。捜査員が数人、倉庫の前を行き来していた。
「こんな所でずっと立っていたら、また怪しまれるな……」
警官の視線が気になりだしたのか、壮介は頭を掻きながら、結局何もせず倉庫前を離れることとなった。
そして石段を上がって程なく、見覚えのある建物が現れた。
「あ、遺体発見現場って、加美家のすぐ下だったんだ」
一際目立つ大きな屋根の加美家である。例の倉庫が加美家よりも下にあったことを、壮介は初めて気付いた。
壮介は加美家の門へ首を突っ込んでみる。すると玄関の扉が開いていた。誰かいるようである。
そして壮介が門の中へ足を踏み入れようとした時……、
「わぁっ!」
誰かが壮介の背中を押した。危うく顔面から転びそうになった壮介であるが、何とか体勢を保ち後ろを振り返った。
「あ、千絵子さん……」
壮介の後ろには加美千絵子がビニール袋を携えて立っていた。
「アンタ何してんのよ?」
千絵子は壮介を睨み付けた。その視線には強い警戒心が滲み出ている。それに気付いた壮介は取り繕うように苦笑いを浮かべた。
「あ、いやあ……。も、もう捜査本部から解放されたんですね。よかった……」
壮介は取り合えず話題を変えてみたが、とても白々しい。千絵子もそれ察知したようで、壮介の笑顔に対しても警戒心を解こうとはしなかった。
「もうだいぶ前に終わったよ。メチャうざかったけれど、遥の顔も立ててあげないとね」
そして千絵子は壮介を横切り、玄関の方へ移動した。
壮介は思い切って訊ねてみた。
「お父さんのことですか? 聞かれたのは……」
すると千絵子の足がピタッと止まった。壮介は振り返り、千絵子の背中を見た。千絵子は振り返ることなく立ち止まったまま……。
壮介は次の言葉が喉まで上がってきていたが、あえて言わなかった。千絵子の反応を見ているのだ。
そしてしばらくの沈黙があった後……、
「入りなよ。用があってうちに来たんでしょ?」
千絵子は振り返らず、そう言い残し、屋敷の中へと入っていった。
そして壮介も、屋敷の中へと入っていった。
三
屋敷の中へと入った壮介は、居間へと通された。壮介の突然の訪問に、遥は少し驚いた様子だったが、すぐに来客用の座布団と扇風機、そして冷たい麦茶を出してきて壮介をもてなした。
居間にはテーブルを挟んで千絵子と壮介の二人。お互い麦茶を飲みほすと、視線を合わせた。
「お父さん、島に帰ってきているんですか?」
壮介は単刀直入だった。
加美姉妹の父である加美大助……。彼は三年前、大神神社の神具である狼の爪とともに、忽然と姿を消した。
そして今朝、全身を狼の爪で切り裂かれたと思われる、新居志都美の遺体発見。
そこで否が応にも噴出してくるのが「加美大助犯人説」である。もしかしたら、加美大助はいつの間にか島に舞い戻ってきているのではという憶測が起こるのである。
そして千絵子は、しばしの沈黙の後、大きくため息をついた。
「ったく、刑事と同じこと聞いてくんなっての」
千絵子はお盆の上に載せられている、麦茶の入った水差しを手に持ち、麦茶を自分のコップへと注ぎ、グイッと飲みほした。
「それに関しては何も知らない。少なくとも、うちらは何も知らない」
千絵子の視線は、空になった自分のコップへ向けられている。
「でも、何か島で変な噂が流れているんだ」
「噂?」
千絵子の声のトーンが変わったことを、壮介は敏感に感じた。
「私も又聞きだから、詳しい事は判らないんだけど……、昨日大神島行の渡船で、親父に似た人が乗ってらしいんだ」
「……!」
壮介は思わず頭をガリガリと掻いた。
「じゃあ、警察はそれを確認したかったんですね」
壮介の問いかけに千絵子は頷く。警察も聞き込みか何かで、千絵子が聞いた噂は耳に入っているだろう。そして狼の爪が今回の凶器であるならば、加美大助が大神島へ帰ってきている可能性が高い。
そして同時に、今回の犯人が加美大助である可能性も、高いということである。
これは三年間、父の帰りを待っていた姉妹……、特に遥にとって、あまりに酷な現実であった。
「なあ、アンタはどう思う? うちの親父が志都美を殺した犯人だと思う?」
千絵子の問いかけに、壮介はしばらくの沈黙の後、口を開いた。
「今の状況では何とも言えない。情報が少なすぎるから……」
警察にとってもそれは同様。加美大助が大神島に帰ってきているかどうかは単なる噂に過ぎない。とりあえず加美大助の所在を掴まない限り、話は進展しそうにないのだ。
おもむろに千絵子は空のコップを手に持った。
「もし……もし、親父が志都美を、本当に殺したってんなら……」
コップを持つ手は小刻みに震えていた。
「どんな理由があっても、私は絶対に、親父を許さない、ゆるさない……」
そして小刻みな震えは手だけに留まらず、千絵子の身体全体に広がっていった。
その時、襖の向こうで、鼻を啜るような音が聞こえた。
それはおそらく、二人の話を立ち聞きし、声に出して泣くことを必死に耐えている遥であった……。
「お父さんを、信じてあげようよ。まだ犯人と決まったわけじゃない……」
すると千絵子は顔を上げた。目には涙が溢れんばかりに溜まっていた。
「だったら、だったら何で、消えちまったんだよ! 何でうちらのこと放っておいて、いつまで経っても帰ってこねえんだよっ!」
千絵子は両手でテーブルをドンッと叩いた。衝撃でコップの底が一瞬浮いた。
ここで壮介は、自分の発言がいかに軽率なものだったか悟った。この姉妹、三年前に父親が謎の失踪を遂げた後、とんでもない苦労があったに違いない。加美家を独りで守っている遥は勿論のことだが、一見チャラチャラした格好の千絵子にも、それなりの苦労があり、また遥以上に父親のことを心配しているのだ。そんな二人に薄っぺらな同情心をかけることは、してはいけないことなのである。
「ゴ、ゴメン……」
壮介は自分の発言を悔い、そして恥じた。頭をカリカリと掻き、そして唇を噛んだ。
「いや……、別にアンタが悪いわけじゃない。こっちも急に大きな声出して悪かった」
千絵子も冷静さを取り戻したようで、壮介と同じように頭をカリカリと掻いた。
「遥、いつまでそんな所にいんの。アンタもこっちに来て」
千絵子の呼びかけに、しばらく間があった後襖が開いて遥が居間へと入ってきた。
手には湿ったハンカチが握り締められていた。
「私たちがまだ幼い頃、母は病気で亡くなりました。それから父は、男手一つで私たちを育ててくれました。厳しくもあり、優しくもある……、私たちが今あるのは父のおかげなのです。だから……、そんな大好きな父に殺人の疑いがかけられているなんて、とても信じられません。そんなの、絶対に有り得ないんです!」
遥は時折震える声で、壮介に今の心境を吐露した。涙こそ流れていないが、手にはハンカチがしっかりと握られている。
遥にとって、父に殺人の嫌疑がかけられていることは、まさに身を切り裂かれることと同じこと。そもそも、狼の爪を持ち去ったという話も遥は疑いを持っていた。大助が失踪したと同時期に紛失したということは事実であるが、だからといって大助が持ち去ったという証拠は何一つない。全ては憶測なのである。
そして大助が大神島に帰ってきているということも噂にすぎない。
しかし……、ならば大助は三年前、何故姿を消してしまったのか?
壮介は腕を組み、考えごとをしていた。そして頭をカリカリと掻いた後、口を開いた。
「聞きたいことがあるんだけど、いいですか?」
「あ、はい」
壮介の問いかけに遥が頷いた。
「喜志先生に聞いたんだけれど、お父さんは「守る会」の初代会長だったんですよね? 三年前、開発計画絡みで何か変わったことってありましたか?」
それを聞いた遥は黙り込んだ。三年前の記憶を引っ張り出しているようである。隣に座っている千絵子も、遥と同じような表情をしていた。
「……よく覚えてないな。正直あんまり興味なかったから」
先に口を開いたのは千絵子であった。
「そうですか……。遥さんはどうですか?」
壮介は再度遥に問いかけてみた。
「そうですね、私もよくは覚えてないのですが……」
遥は口元に手をあて、申し訳なさそうに答えた。
「ただ、三年前は開発計画の風当たりが今よりも強かったと思います」
三年前はまだ開発計画が大神島に持ち込まれて日が浅い。
「そうだね。この島の人間は揃って保守的だから。正直、ガチガチの賛成派は今でも菅林と瀬川の二人くらいなんじゃないの」
「保守的ね……」
壮介はかつて千草の話した「ある言葉」を思い出した。
この島は、忘れられることを、自ら望んだ島
「……、今の反対派と賛成派の割合ってどんな感じなんですか?」
「そうですね……。今は大体半々くらいですかね。計画の具体的な内容が発表されてから、賛成する方が一気に増えました」
計画の具体的な内容……。それは壮介が診療所で見た開発計画の冊子に書かれてあったもの。あまりの希望的観測に壮介が鼻で笑ったアレである。
この島の人間の殆どが保守的な思考ならば、多くが外から持ち込まれた開発計画に対し拒絶反応を示すのが普通である。しかしこの三年間の間で島の人間の約半分を心変わりさせたのだから、菅林らの辣腕に頭が下がる。逆に加美大助から「守る会」の会長を引き継いだ川住清太は厳しい立場に置かれることとなったのだろう。あの神社でのやり取りの激しさは、開発計画賛成・反対だけでなく、殿同士の意地のぶつかり合いの表れでもあった。
「これは噂だけれど、菅林は結構な札束をバラ撒いたらしいよ」
千絵子はテーブルに頬杖をついていた。開発計画には全く興味がないという様子である。
しかし壮介はそんな姿に違和感を覚えた。
「結構、お詳しいみたいですね」
すると千絵子は大きなため息をついた。
「まあね。この島の人間になっちゃったら、お金の汚い話は嫌でも耳に入ってくるのよ」
「そうですか……」
「そうよ。それが嫌で島を出たようなものなんだから」
壮介に答える千絵子は、やや不機嫌そうな表情であった。
「だから、遥には感謝してる。私が好き勝手やってるのは、全部遥のおかげだから」
千絵子は頬杖をついたまま、視線を隣の遥に送った。その表情は先ほどとは違い、とても優しいものであった。
「お姉ちゃん……」
そんな千絵子に、遥は少し照れながらも笑顔で返した。
「仲、いいですね」
「そうね。私の可愛い妹だから! 手ぇ出したら只じゃおかないよ!」
千絵子は壮介に向かい、冗談交じりにそう答える。
千絵子と遥……。
姉は金髪にメッシュにギャルファッション。妹は昭和の田舎娘といった感じ。
見た目は両極端で、今は離れて暮らしている。しかし心はいつでも繋がっている。
そんな姉妹の絆を感じた壮介は、笑顔を見せずにはいられなかった。
四
「ところでアンタ、今喜志先生のところにいるんだってね?」
玄関まで見送りに来た千絵子が、壮介に訊ねてきた。
壮介は加美家で姉妹と話し込み、随分長居をしてしまった。西の空は赤くなり、東の空には暗くなり始めていた。
「ええ、危うく宿無しになるところを、喜志先生に拾ってもらいました」
「ふーん。で、御飯とかどうしてんの?」
「まあ適当に。港の近くに色々あるみたいだから、そこで調達しますよ」
すると千絵子は一旦屋敷の方へ振り返ってから、一歩壮介に近付いた。
「もしよかったらさ、今晩うちで一緒に食べない?」
壮介は千絵子からの突然の提案に戸惑った。昨日初めて会った時から今の今まで、壮介に対し警戒の目を向けていた千絵子が、どういう風の吹き回しかという感じである。
「いやあ、別に深い意味はないんだけれど、遥がね……」
千絵子は玄関の様子を気にしながら、頭を掻きながら話し始めた。
「最初話してた時は、内容が内容だったから、遥すんごいブルーだったんだけれど、その後アンタの話ししている時、けっこう楽しそうだったんだよね。あんな遥、久し振りにみたよ」
父である加美大助の話の後、壮介たちは他愛のない雑談に花を咲かせていた。遥の島での生活の話、壮介の通う大学の話、千絵子の勤める職場での話……。そんな話をしているうちに、それまで重苦しかった空気が徐々に和んできたのだった。そして沈痛な面持ちだった遥の表情にも、どことなく余裕が生まれ、そして笑顔を見せることもあった。
「まあ私もさ、仕事の関係で全然島に戻ってこれてなくてさ、今回も一年振りなんだ。ホントはもっとちゃんと帰ってきて、遥を支えてあげたいんだけれど……」
千絵子が話し始めたのは、その派手な見た目からとても想像できないものだった。周りから「島を捨てた」「妹を捨てた」などと後ろ指を指され、またその格好も相まって偏見の眼差しで見られている。本人もそんな島にはある程度の「見切り」をつけているのかもしれない。
しかし妹を想う気持ちは今も昔も全く変わっていない。どれだけ離れていても、会えなくても、遥のことを想っている。そしてそれは遥も同じであろう。遥も同じように千絵子を想っている。
「私はホントにダメなお姉ちゃん……。私ばっかり好き勝手やってる……」
千絵子は自嘲気味に笑った。千絵子は自分を責めていた。自分のせいで、遥は大神島に縛り付けられていると……。
「だからさ……だから、遥には!」
ここで壮介は一歩前に出た。それを見た千絵子の言葉は詰まった。
「判りました」
「え?」
壮介の突然の発言に、千絵子は戸惑った。その姿を見た壮介は、苦笑いをしながら頭を掻いた。
「今晩、お呼ばれします。ただ、喜志先生には一声かけさせてもらいますが」
それを聞いた千絵子は一瞬目を丸くしたが、すぐ普段の表情に戻る。
「そう、判った。じゃあ遥にも伝えとくね」
そして壮介は門の外へ出た。
「あ、そうだ! 一つ聞き忘れたことがあった」
壮介は門の外へ一歩足を踏み出していたが、その足を門の中へ戻した。
「そう言えば、新居志都美さんとは、具体的にどのような関係だったんですかね?」
すると千絵子は少し悲しそうな表情となった。志都美が亡くなったことによる心の傷は、当然のことながら簡単に癒えるものではない。
「同じショップで働いている者同士。アイツは私のこと先輩って呼ぶけれど、実際はアイツの方が先輩なの。まあ私の方が年上だから、そう呼んでたんだろうけど」
つまり歳は千絵子の方が上だが、職場歴は新居志都美の方が長いということ。
「カレシの洋二は、実は私もよく判らないんだ。どっかのコンパで知り合ったとか言っていたけど」
「そうですか……」
まあ都会の若者にはよくある話である。壮介のカノジョも、コンパで知り合ったことがきっかけである。
「ありがとうございます。では一旦診療所へ戻ります」
壮介は千絵子に向かって頭を下げ、石段を下り始めた。
「あっ、ちょっと待って!」
数段下りたところで、千絵子が壮介を追ってきた。壮介が振り向くと、千絵子は今まで壮介には見せたことのない笑顔であった。
「ありがとうね、壮介!」
壮介に向かってそう叫ぶと、千絵子は屋敷の方へ戻っていった。
千絵子が始めて、壮介の名前を呼んだ。
千絵子はようやく、壮介に対する「壁」を取り除いたようである。
それを知った壮介は少し照れ笑いながら、石段を下りていった。
千絵子が壮介に対する「壁」を取り除いたきっかけとは?
それは千絵子が自分を責め続けていた時、一歩前に出て言葉を遮ったからだろうか……。
あの時、壮介は何を考え、一歩前に出て言葉を遮ったのだろうか。
「あのまま話し続けられていたら、潰れてしまっていたかもしれない……」
もしかしたら壮介は、そんなことを考えていたのかもしれない……。
五
東の空がほぼ暗くなり、西の空が僅かに赤い光を放つ頃、
長い黒髪をなびかせて、その少女は港にいた。
少女には相変わらず表情というものがなく、口を真一文字に結んでいる。
そして少女は船着場の桟橋から、本土の方をずっと見つめていた。
何度も渡船が往復する中、まるで誰かを待っているかのように佇んでいた。
そんな少女の姿を見て、声をかける人は何人かいた。しかし少女は何も反応も示さず、今となっては誰も少女へ近付こうとはしなかった。
「…………」
長い髪が夕凪に揺れる。その姿はどこか神秘的な美しさを放っているのと同時に、少しでも触れたら壊れてしまう脆いガラスのような儚さも漂わせていた。
そしてそのままの状態で、どれほどの時間が経っただろうか。
少女の口元が僅かに動いた。
そして……、
「何か御用?」
少女が口を開いた。誰に対して訊ねているのか? 少なくとも少女の前方には誰もいない。
ならば、少女の後方に、誰かいる。
そして少女を振り返る。
振り返った少女の前には、一人の男性が立っていた。
「やあ」
男性は右手を挙げ、少女に笑顔で話しかけた。
少女は長い黒髪を夕凪にはためかせ、じっと前を見つめていた。
「あれ以来、姿見てなかったけれどどうしていたんだい、千草さん」
「新谷さん?」
千草は壮介の登場に少し動揺した様子で、眼鏡の奥の瞳がやや泳いでいた。
「いやあ、港の前を通りかかったら、千草さんっぽい後姿があったんでね。人違いならアレだったんだけれど、思い切って声をかけさせてもらったよ」
壮介は頭を掻きながらそう話した。
「ところで、こんなところで何をしてるんだい?」
壮介にとって、千草がこんな時間に港にいることが不思議でならなかった。普通ならこの時間帯、川住旅館は夕食時で一番忙しい時である。そんな時に旅館を離れて港にいるというのは、意外なことであった。
「…………」
壮介の問いかけに、千草は沈黙を保ったまま。再び口を真一文字に結んでいた。
「千草さん?」
そんな千草の様子を、壮介は不審に感じた。いつもの千草とはどこか違うと。
そして壮介も口を真一文字に結ぶ。様子がおかしい千草に対し、どう話しかけていいか苦慮している様子だった。
沈黙したまま向かい合う壮介と千草。このままずっと時間だけが流れていこうとする。
その時、千草の口元が僅かに緩んだ。
「知りたいですか……?」
壮介は戸惑った。千草の表情が、壮介の知っている千草のものではないように見えたから。
「新谷さん、あなたの顔に書いてありますよ。フフフ……」
すると千草は歩を進め、壮介と肩が並んだかと思えば通り過ぎ、桟橋を後にする。
「もし本当に知りたいならば、ついて来てください」
千草は一瞬振り向きそういい残すと、港の出口の方へ去っていこうとする。
「あ、ま、待って!」
それを見た壮介は戸惑いながらも、千草の後を追いかける。
「どこに行こうって言うんだ?」
壮介は背中越しに訊ねた。
すると千草は立ち止まり、振り向かずに答えた。
「この大神島の象徴、忘れられた浜ですよ……」