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第四章  大神島開発計画


 加美家を出発した壮介と千草は、再び石段を上り始めた。そして川住旅館の看板も通り過ぎ、壮介がまだ登ったことのないところまで、石段を上がっていった。

 太陽はちょうど二人の真上にさしかかろうとしている。千草は相変わらず涼しそうな表情でいるが、壮介の方はまるで頭から水をかぶったかのようになっていた。壮介が首にまいたタオルは吹き出る汗により、徐々に湿り気を帯びてきていた。

 そして次第に壮介の息が荒くなってきていた。膝も以前より上がらなくなってきている。不意に壮介は顔を上げると、さっきまで二、三段前にあったはずの千草の背中が、いつのまにか小さくなってしまっていた。

 石段の途中で千草が立ち止まった。壮介が遅れてきていることに気付いたのだろう。しばらくして、ゼーゼーと息を切らした壮介が、ようやく千草の元までやってきた。

「大丈夫ですか?」

 大汗をかき、膝が笑っている壮介とは対照的に、千草はケロっとしている。ただ、やはりこの炎天下、額には汗が滲んでいた。

「ああ、ゴメン……。凄いね君は」

「いやあ、慣れですよ、慣れ。この石段は子供の頃から駆け上がってきましたから」

 確かにこの石段はこの島で暮らす人々にとってみれば重要な生活道路。大して誇るようなことでもないのだろう。

「それじゃ行きましょうか。てっぺんまでもうすぐですよ」

 千草はそう言うと、再び石段を上がりはじめた。

「……かなわんな」

 壮介は千草の後姿を追いながら、小さな声で呟いた。


「さあ、着いたわよ」

 石段の頂上で、千草がヘトヘトになりながら後をついてきた壮介に手招きをする。

「はあ、はあ、着いたー」

 壮介はまるで最後の力を振り絞るかのように、最後の石段を踏みしめる。そしてそれまで下を向いていた壮介は千草のいる方へ顔を上げた。

 壮介は周りを見渡した。そこはやや開けた広場のような場所で、その奥には鳥居が建っており、その鳥居の奥には神社らしき建物があった。

 ここで壮介はこの場所には自分たち以外にも人がいることに気付いた。その大半は祭の準備をしている人で、幟を立てている人や、縁日の準備をしている人と様々である。

「ここが祭のメイン会場よ」

 壮介は首に巻いていたタオルをほどき、顔をクシャクシャに拭いた。そのタオルを絞ると、ポタポタと汗の雫が滴り落ちた。

「これが大神神社ってわけですか」

 壮介は再びタオルを首に巻き、そして肩にかけていたカメラを構え、鳥居に向かってシャッターを切った。

「あ、ちょっと待っててね」

 カメラを構え続ける壮介を残し、千草はどこかへ行ってしまった。しかしすぐに戻ってきて、どこから持ってきたのか、お茶の入った紙コップを壮介に差し出した。

「ああ、ありがとう」

 紙コップを受け取った壮介は、お茶を一気に飲み干した。

「紙コップ、もらうね」

「ああ」

 空になった紙コップを千草へ渡すため、壮介は千草の方へ向き直った。その時、千草の後ろに、恰幅のよい白髪の老人が立っていることに気付いた。

「…………」

 最初壮介は全く無関係の人だと感じたが、不意に目が合った時、壮介に向かって口元を緩めたので、思わず目を見開いた。

「先生、紹介しますね。この人は新谷壮介さん。今日の祭を見物にいらしたの」

 紙コップを受け取った千草は、「先生」と呼ばれた老人に壮介を紹介した。

「新谷さんにも紹介します。こちらの方は島のお医者さんの喜志(きし)先生です」

 突然の対面に壮介は戸惑ったが、条件反射的に軽く頭を下げた。すると喜志は一歩前に出て、右手を差し出してきた。

「どうも、喜志です」

 その言葉は、千草や遥とは違う、訛のキツイもの。壮介は再び軽く頭を下げ、左手を差し出した。

「千草の紹介どおり、こんな爺じゃが医者をやっとるで」

 表情は老人独特の気難しさを含んだものではあるが、その言葉はどこか親しみ易さを感じることができるものだった。

「千草から聞いたが、君は祭を見物しに来たんだってね。どうや、今からうちまで来んか? 祭についての資料がいくつかあるでな。美味い茶菓子もあるで」

 喜志は独特のイントネーションで壮介に切り出してきた。

 壮介は千草の方をチラッと見る。すると千草は悪戯っ子のような笑みを浮かべていた。

 おそらく、最初から喜志と引き合わせるつもりだったのであろう。話の進展が異様に速い。

「はあ、よろしいんですか?」

 おずおずと壮介が応えると、喜志は壮介の肩をポンポンと叩き、下りの石段へと促す。

「千草はどうする?」

「あー、私は一旦旅館に戻ります」

 そう言うと、千草は先に石段を下りていった。壮介には軽く合図をするだけだった。

「何か、唐突だなあ」

 何の予告もなしに、千草が離れるという展開に壮介は戸惑う。

 そして一変した千草の対応に、ただ首を傾げていた。

 すると、喜志が壮介の腕を軽く小突いた。

「あれじゃよ」

 喜志がチラッと視線を送った方へ壮介は顔を向けた。そこには法被に鉢巻姿で幟を数本抱えている男性の姿があった。

「あれが千草の父、清太じゃ。清太は祭についてはこの島で一番熱心な男。娘が油売っているのを見つけたら、そりゃ大きな雷が落ちるというものじゃて」

「なるほどね」

 見ればこの清太が一番激しく動いており、また同じ法被を着た者たちに怒声を飛ばしている。祭の準備を取り仕切っているのだろう。

「それに、最近清太らは気が立っている。親子仲もそんなに良くはないだろうて……」

 下りの石段へと移動している際、喜志がポツリと呟いた。

「え、そうなんですか?」

「まあ、早う行きましょうて。それも含めてお話しますよ。色々ね……。どうせ、それがあの娘の狙いなんじゃろうて」

 この時、喜志の言葉の意味を、壮介は掴みかねていた。自分の知らない所で、自分が関係した「何か」が動いているような感じがしていた。

 そして壮介は、この喜志の言葉の意味を、嫌というほど知っていくことになる。

 

 本当に、嫌になるほど……。



 大神診療所


 港の近く、年季の入った木造の建物に、これまた年季の入った看板が掲げられていた。「休憩中」のプラカードが下がったドアノブを回すと、何の抵抗もなくドアは開いた。鍵はかかっていない。

「田舎じゃからな」

 壮介の表情をみただけで、喜志はそう呟いた。

 別に空調が入っているわけでもないが、ひんやりとした院内。そして病院独特の匂いが壮介の鼻孔をついた。

 壮介は喜志の後についていった。建物に負けず劣らず年季の入ったソファや扇風機の置かれた待合を抜け、喜志は診察室らしき部屋へと入っていった。

「これに座って、ちょっと待っててな」

 喜志は診察室の隅からパイプ椅子を持ってきて、壮介の前に置いた。そして自分は診察室から出て行った。

「…………」

 壮介以外誰もいない診察室。遮光性の強いカーテンがこの部屋を強い陽射しから守っているため、夏とは思えないくらいひんやりとしている。

 壮介は落ち着かず、辺りを見回した。診察室にあるものも、例に漏れず年季が入っている。まさに田舎の診療所そのものであった。

 喜志が出て行ってから数分後、ガチャガチャと何やら音が聞こえてきた。

「はいよ」

 音が診察室の前で一旦止まると、喜志が左手に本、右手に湯飲みをのせたお盆を持って現れた。


「ここは、先生おひとりでされているんですか?」

 喜志がお茶と一緒に出した茶菓子を食べながら、壮介は訊ねた。

「ああ、わし一人じゃ。前はうちの女房が手伝ってくれてたんだがの、三年前に癌で先に逝ってもうた」

「ああ……、そうなんですか」

 それを聞いた壮介は思わず視線を落とした。

「別に気ぃ遣わんでええ。もう、昔の話じゃて……」

 喜志は特に気にするようなそぶりもみせず、壮介に向けて口元を緩めた。

「それで、どうじゃて? その本」

 壮介は茶菓子を食べ始める前、喜志が持ってきた本に目を通していた。本……というよりも雑誌や新聞の記事を纏めて製本したもので、どちらかというとスクラップブックのようなものだ。

 そしてその本は、大神島に関する記述が殆んどで、特に祭について多く割かれていた。

 記事の内容については、加美家で遥に聞いたことと重複していることが殆んどで、目新しい情報は、残念ながら得られなかった。やはり大神島に関する情報は、そもそも少ないということに間違いなかった。

 ただ、壮介には一つ気になることがあった。それは本の最後に書かれた製作者の名前。そこには「大神島民生活を守る会」となっていた。

 「守る」とは一体どういうことなのだろうか? 「守る」と掲げる以上、この島の生活が何らかの「危機」に瀕しているというのだろうか?

 「守る」……。この島で今起こっていることで、こう表現することは、少し違うかもしれない。

 ただ、今この島は、一つの転機を迎えようとしていた。

「……」

 壮介が最後のページを注視していると、喜志は何も言わず診察室の机の本立てから、ある冊子を取り出し、壮介に手渡した。

「これは……」

 冊子の表紙には「大神島観光開発計画」と銘打たれてあった。

「今、大神島はな、この計画で真っ二つなんじゃて」

 喜志は複雑な心境を表してか、言い終わった後、口はへの字に曲がっていた。



「この大神島をはじめとする宇方地域は、三重県内で開発が遅れた地域でな、若いモンはみんな出て行ってしまう。年を追う毎にこの辺りは寂れてきおった……。しかし五年前、この地域に高速道路建設の話が持ち上がっての、地元選出の国会議員等は大層張り切って、宇方地域の再開発をブチ上げたのじゃ。そしてその中に、大神島も組み込まれておったのじゃて」

 三重県南東部に位置する宇方地域は、県内でも開発が遅れ、過疎化が進んでいた。そんな中持ち上がった大型事業。これを機にそれまで遅れていた開発を一気に進めていこうという狙いがあった。そしてそんな流れに、この大神島も乗せられることとなった。過疎化の進んだ小さな漁村。これを開発により県内屈指のリゾート地にしようという計画がなされた。それはリゾートホテルを建設し、島の塩っぽい砂浜を整備、そしてオシャレなお店や施設を誘致しようという、言わば判で押したようなものだったが、地域の活性化という意味では、願ってもないものだった……はずである。

「この役人が持ってきた計画に、それまで寂れはしていたものの、みんな仲良く静かに暮らしていた大神島の島民は、賛成派と反対派で真っ二つとなったのじゃ……」

 賛否両論……。役人の持ってくる「計画」には最早つきもの。島や宇方地域の活性化を目指す賛成派、そして島の生活と伝統を守ろうと主張する反対派。この二つの勢力は、互いに主義主張をぶつけ合い続けてきたのであった。

「反対派の総大将は、さっき神社で会った、川住旅館の旦那清太じゃて。「守る会」の会長も清太が務めている。賛成派の大将は、港の近くにある観光ホテルのマネージャーをやっとる菅林(すがばやし)という男じゃて」

 壮介は喜志の話を、開発計画の冊子に目を通しながら聞いていた。この冊子さすがは役人の作ったもの。恐ろしく「希望的観測」に基づいて書かれてある。普通に考えて、この計画に書かれたものは読みが甘いように感じるのだが、やっと舞い込んだ開発の話、賛成派にとってこれはまさに「宝の地図」のようなものなのだろう。

「一応言っておくが、わしは賛成派、反対派のどちらにも入ってはおらん。この島唯一の医者がどっちかについたら色々と具合が悪いからの」

「……そうですね」

 壮介は喜志の話に納得しながら冊子を閉じ、それを喜志の元へ返した。

「川住家も元々は、この問題に深く首は突っ込んでおらんかった。あそこも外からの客商売じゃ。寂れたままより、幾分か発展してくれたほうがメリットもあるというもんじゃが……」

 喜志は壮介から返された冊子を、元会った場所に戻した。

「川住家はどういう経緯で反対派の会長になったんですか?」

 すると喜志の表情がやや曇る。

「この島には三つの名家があっての、一つは加美家。そして川住家に宮司一族。宮司一族は戦災で途絶えてしもうたから、今となっては二名家というわけじゃて」

 ここで壮介はピンときた。

「もしかして、元々反対派の殿というのは……加美家?」

 壮介の問いに、喜志はゆっくりと頷く。

「そうじゃ、反対派の初代会長は加美大助(だいすけ)という男じゃった」

 加美大助。この男が遥と千絵子の父である。妻は遥を産んで間もなく亡くなったそうである。

「その加美大助という男も、もう故人なのですか?」

 すると喜志は首を二度横に振った。そしてその表情はやや険しいものであった。

「わからん……」

「え?」

「わからんのじゃて。今から三年前、突如島から姿を消したのじゃ。島中探したが、どこにもおらんかった」

 当時反対派の会長を務めていた加美大助。その男は、三年前に失踪していた。それを聞いた壮介は、自分の背中に何か得体の知れない物がヌルッと這うような、何ともいえない気持ちとなった。

「本土の方も探しての、名古屋や京都で大助を見たっちゅう情報もあったが、結局、今に至るまで尻尾を掴むことができんのじゃて……」

「それで会長が、残る名家の一つ、川住家に回ってきたと」

 壮介の問いに、喜志は頷いた。

「まだ若い大助の娘を殿に据えるのはあまりに酷じゃて。ああみえて清太は責任感の強い、昔気質の男じゃて」

 壮介は清太の姿を少ししか見ていないが、「昔気質」という言葉には、思わず納得していた。つまりはそういう第一印象を与える風貌をしているということである。

「現在の加美家の状況というのはどうなっているのですか?」

「んああ?」

 喜志にとって、この壮介の質問はやや意外だったようで、一瞬目を丸くした。

「今加美家を守っているのは、大助の次女遥じゃ。歳はお前さんとそう変わらんで。あと姉に千絵子っちゅうのがおるが、これは都会の色に染まりきってもうて、島のことなんぞ我関せずじゃ」

 壮介は千絵子と会っている。喜志の千絵子に対する感想は、そのまま壮介の第一印象でもあった。

「では、加美家は遥さんが全て取り仕切っていると?」

「まあ、そうなるわな。島の寄り合いも行事も、全て遥一人で行っておる」

 それを聞いた壮介の複雑な心境が、その表情に浮かんでいた。

 千草より、遥は壮介よりも一つ下。女子にとって一番楽しい時期であることを、壮介は恋人の瑞希をはじめとする周囲の女性陣に聞かされてきている。そんな中、「家」をたった一人で背負っていかなければならないという重責。可愛そうというのはあまりに薄っぺらい同情心。しかし父親が失踪し、姉は島に帰ってこない。遥の置かれた立場は、重すぎて、切なすぎて、そしてもったいなすぎた……。

「なんじゃ? 加美家の遥がどうかしたのか?」

 複雑な表情を浮かべる壮介を見て、喜志はキョトンとしていた。

「え、いや……」

 壮介は自分の思いを言葉にはしなかった。ただ頭をカリカリと掻くのみであった。



 午後。

 川住旅館では、一時の休憩タイムとなっていた。

 十六時を過ぎると宿泊客がやってくる。今日は祭ということもあり、普段の平日よりも予約の数は多い。

 因みに壮介は、昼食を摂った後部屋に戻ってきていた。カメラの整備でもしているのか、部屋に入ってから篭りっきりだ。


 トゥルルル……、


 一時の静寂に包まれていた館内に電話の呼出音が鳴り響いた。すると、一階の部屋から祖母の千乃が顔を出した。

「誰もおらんのかい?」

 千乃は部屋から出てきて、電話の元へ向かった。

「はい、川住です。……はい、はい……」

 千乃は何言か受け答えをした後、受話器を電話台に置き、二階へと続く階段へと向かった。

「千草ー、電話だよ!」

 千乃の声の後、千草が一階へと降りて来た。

「誰から?」

「守る会の役員さんや。清太はおるかってかかってきたけど、今おらんから代わりに出とくれ」

 千草は電話へと向かい、伏せた状態で置かれた受話器を手に取った。

「はい、もしもし。……はい、千草です」

 ………………

「え……。そんな……」

 受話器を持つ千草の眉間に皺が寄った。受話器を握り締める力も思わず強くなる。

「そんなわけはないと思いますけれど……、一度伺ってみます」

 その後、二言三言交わし、千草は受話器を戻した。しかし考えごとをしているのだろうか。受話器を戻した状態で、しばらくその場から動こうとしなかった。

 そんな千草の状況を、千乃は不思議そうな表情で見つめていた。

「おばあちゃん、ちょっと私出てくるね!」

 そう言い残すと、千草は玄関の方へ走っていった。

 サンダルを履き、玄関を出てから、千草は石段を港の方へ駆けていく。

「そんな、馬鹿な話……」

 石段を駆け下りていく際、千草は呟き、そして唇を噛み締めた。


 千草が港へ到着した時、船着場には渡船が到着し、十人程が港へ降り立っていた。

「はあ、はあ……」

 午前中、壮介と石段を上がった時とは違い、千草の額には大粒の汗がいくつも浮かんでいた。

 千草は辺りをキョロキョロと見回した。

 しかしその表情はどこか妙。その行動は明らかに人を探している様なのだが、千草の表情は、探し物が「見つからない」ことを祈っているように見えた。

「あ、千草ちゃん!」

 祭の法被を着た男が、千草の元へと近付いてきた。川住家へ電話をかけてきた男である。

「電話の話、本当なんでしょうね?」

「ああ、俺は直接見たわけじゃねえから判んねえけど、港で作業していたヤツが、似た人を見かけたって……」

 男より、状況の説明を受ける千草。その表情はそれまで壮介たちに見せていたものとは違っていた。この男年齢が三十代前後で千草よりも年上だが、まるで女首領と部下のような受け答えの仕方である。しかし、それ以上に、千草の表情からは明らかな動揺が見てとれた。

「判ったわ……。何か判ったら、私か父に連絡頂戴」

「おう、判った!」

 そして男は千草の元を離れていった。

「…………」

 千草はその場を動かず、ただ船着場を眺めている。渡船は乗客を降ろし終え、これから対岸へと出向しようとしていた。

「……まさかね」

 まるで自分に言い聞かせているように呟き、そして港を後にした。

「あら」

 港の出入り口で、千草はある人物の姿を見つける。

 瀬川だ。

「やあ千草さん。えらく急ぎの用みたいだったね。どうかしたのかな?」

 すると千草の口元が、まるで蛭のような形になった。

「先生こそ、こんな所で何をなさっているのですか?」

 壮介には使ったことのない声色で、瀬川の方を向いた。言葉にはどことなく威圧感があった。

「いや、私はたまたま通りかかっただけだよ」

 すると千草の眉間に再び皺が寄った。

「そうですか……」

 千草は吐き捨てるかの如く言葉を放ち、そして一旦は瀬川の方へ向けていた身体を元の方向へ戻し、石段の方へ歩いていった。

「私の質問に答えてくれるかな?」

 背中越しに、瀬川が問いかける。千草は無視しているのか、石段の方へ向かっていった。

 しかし、石段に足をかけた時、千草は振り返った。

「…………」

 すると目の前には瀬川の顔があった。口元は緩んでいるが、目は決して笑っていない。

「先生……、貴方と私たちの立場をお忘れですか? これ以上追求しない方が、身のためですよ?」

 瀬川は背中に刺すような視線を感じていた。瀬川は振り向かなかったが、港の方には法被を着た数人の男性たちが食い入るように見つめている。

 中には手に棒を持っている者もおり、決して好意的な目で二人のやり取りを見ていないことは明らかであった。

「フフッ……」

 千草は踵を返し、石段に足をかけた。

「いずれお話しますよ。そうですね、祭の後にでも……」

 そして千草は二度と振り返らず、石段を上がっていった。

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